イキってるやつブロックしてる問題の最終回答

注)完成しなかった。熱量の続く限り書いたつもりだが、長すぎて途中でなにがなにか分からなくなった。ただ、一応言いたいことの何割かは残せたのでこのまま出しておく。


スタエフの方で同じタイトルで収録を作ったのだが、約28分の大作になってしまったので改めてこちらに書き起こす。まさか端から端まで全部真剣に聞くやつなんておるまい。

スタンドエフエムを自己の言語化の一環として使っているのは私くらいか。だからこんな超大作が出来上がってしまうんだ。

以下

 「普通」という概念には随分と苦しめられた。常に目立つ側になりたかったから。古い記憶だと保育園。年中の時に同級生がジャングルジムから落ちて骨折した。その時保育園全体が騒然とし、救急車までやってきて文字通り保育園中の視線が彼に集まった。

数日後登園した彼はある意味ヒーローで、ありとあらゆる大人に心配され、我々園児たちにもできるだけ彼を補助するようにお達しがでた。あれだけアイコニックな格好をしているにも関わらず。私はあの格好ははずるいと腹に据えながら、出来る限り空気に従った記憶がある。最も、先生に褒められる彼の周辺部は他の男の子たちに取られてしまったが。

ただでさえ園児に交じってというよりは大人にまとわりついている子供だったが、それ以来骨折とか入院とかいうワードが羨ましくてたまらなかった。

 小学校にあがりひとつ賢くなった私は、骨折でクラスの視線を集める程度では満足しなくなっていた。というのも、実は保育園には「延長」という時間があり、午後5時か6時を過ぎると園庭から引き揚げ、午後7時には夜のおやつが出る。この夜のおやつの時には40人いたクラスは3~7人ほどになり、先生と園児たちに独特の連帯感がでる。

小学校においては大人から子供へできるだけ平等に接せられる。そこでちょっとした、夜のおやつのような多数派への優越感が欲しかったのだが、まあそういうのはほぼ叶えられない。だから完全下校まで居残ってクラス2,3人で先生を独占する時間とか、先生の車で送ってもらうと舞い上がった。

小学校4年か5年か、いつかは覚えていないが、そのあたりでそれは構造上無理だなということに気づいた。教師は「平等に」接するのが仕事だと。本に夢中であまりにもクラスに参加しない私に教育実習生が緊張しながら参加を促したのがきっかけだったような。

 中学2年。2014年のこの年はソチオリンピックの年だった。だったはず。その期間のある朝、芸能人がメダルを取った選手に向けて感動のメッセージを出したニュースが流れた。おや、あのキラキラした「あっち側」のあの人がまるでただの観客のようだな、とその時ピンときた。しかしよく考えてみたらオリンピックの選手は4年に一度は「あっち側」になれるけどむしろ3年は「こっち側」だな。いや来月には世のオリンピック熱は冷めてるから来月にはもう「こっち側」だなと。

普通とか、普通じゃないとか、そんなもの状況と視線の角度でどうにでも変わってしまうという、至極当たり前なことに心の底から気が付いた瞬間だった。この時から普通を脱出することは諦め、改めて自己に回帰し個性というか、独立してなにかを積み上げていった感覚がある。

 特に何の変哲もない、よくある話に聞こえるかもしれないが、これは幼い子供にとってはそれはそれは重大だった。宿題のプリント1枚を無くしたときは毎回世界が終わるような絶望感を味わっていたが、これはそれに匹敵するような、しかも長期的な問題だった。子供にとっての10年は長い。保育園、小学校、中学校と3つの時代をまたにかける絶大な時間。

そしてそれは子供らしい無邪気さを奪った。何をするときも、運動会で勝った時も、おやつを受け取った時も、全てを忘れ爆発するような喜びは味わった記憶は殆どない。常に他人にどうみられるか考え、自分は上か、目立ってる側にいるか、頭の一部が常にそれに囚われていた。

「普通」であること、その他大勢の「こっち側」であることは、常に何よりも深刻な問題で、その他大勢に埋もれることは自我を殺すことに等しかった。みんなで前ならえをしているときに本当に前ならえをしたら負けで、ワンテンポ遅れて横を向けるか、そういう勇気を振り絞れるかに自分が生きているか、死んだような存在か、誇張抜きにその重さが日々かかっていたのである。

無論そんなことできるはずもなく、毎朝毎朝前ならえで間隔を測って体操をしていたわけであるが。

自立を歩みだした矢先、すなわち中学2年の頃、集団から個別指導に転塾した。勉強ガツガツではないその塾は、定年後の大人もバイトにくる。そこで居合わせた私の担当ではなかった女性の先生、多分定年のあたりだろうか、彼女を見たことは今でも感謝している。

人間にはbeing(あり方)とdoing(振る舞い)とふたつがあり、beingがきちんと上手く成立したひとはdoingも成熟していく。beingがうまくいかなかった人はdoingでバランスを取ろうする傾向がある。例えばその他大勢に埋もれそうなところをちょっと変なひととして振る舞い、バランスをとる。

そして彼女がまさにその典型例であった。ついでに少し前の自分も。自分は中学生で抜けられたが、60近くまで抜け出せない人間はいるのだなあと、一生中学生の感覚から抜け出せず、周囲への稚拙な自分アピールに終始してしまう人間は一定数いるのだなと分かったのはかなりの収穫だった。

 

 子供時代は無邪気に過ごし、中学高校でどこまで目立てるか、大人っぽく周囲に差を付けられるか(陰キャ女子は後者に集中しがち)、はたまたちょっと変わったポジションを取るか、どちらにせよ多数派を見下し始める。そして働き始めて揉まれ始めてやっと「何者か」になりたいと思い始め実際自立しだすというのが通常だと思う。

だから現在の私にとって年上の24,5歳くらいまでの若者なら、どれだけ痛い方向にイキってようと、それは彼らなりの自我の確立の揺らぎなのだから、黙認せねばならない。そのこと自体は人間の発達の適切な段階の一部に思える。14で脱却した私はむしろ恵まれたほうかもしれない。

もし同世代で変人キャラで痛い方向にイキっていたら、真っ当な大人なら若いなぁと温かい目で本人に悟られないように見守らねばならない。自戒を込めて。

世界が終わるかもしれない重大な問題と長く向き合ったあと、ここまでの数年間で、本当の変わっているひとと、大して才能やエッジもなく、変人を気取ってなにかを必死に満たそうとしたひとの差がはっきりと見えるようになった。後者は鎧をまとい、自分の実際の身体より大きく範囲を拡大し、身体と鎧の間の空間に苦戦しながら実に滑稽な歩行をする。

その鎧脱いで、ふつうにその小さい体で生きればいいんですよ、あ、あなた思ったより小さいんですね、雑魚だわご愁傷さまと彼らに言って差し上げたい願望は常にある。

自覚なく纏っているその鎧に私が手をかけ、生爪を剥がすようにメリメリと、全身からくまなく一枚ひっぺ剥がして、風が吹いただけで痛む剥きだしの血の滲んだ真皮にすうっと指を滑らせ、痛みに絶叫している声に乗せて高笑いしたい。

どうせそのあとまた皮膚が再生して正しい体の大きさになるんだからこれも優しさでしょ、と妄想するのは簡単だが、実際言葉だけでどれだけ理詰めで説明したところで、鎧を自覚できるだけの脳細胞の数を持ち合わせているものはものすごく少ないように思う。結局人間の脳は30で初めて完成するのだ。


 彼ら彼女らの痛々しい言動は本来私は見守ってあげなければならない。



この記事が参加している募集

#スキしてみて

528,758件

#最近の学び

182,162件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?