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『召使たち』②(作:ヴー・チョン・フン):1930年代ベトナムのルポタージュ

 Ⅱ その夜、飯屋にて

 それがどこの飯屋で、どこの通りにあり、何を売っているかなどは言う必要もないだろう。ただ各人には、この飯屋もまた他の何千何万と存在している飯屋と変わりないということだけを知っていれば事足りる。一歩店の中に足を踏み入れれば、その客人は瞬く間におよそひどい吐き気を催さねばならない、つまりはそんな店であった。その匂いはハクレン、水牛の肉、腐った豚肉、豚の臓物、牛の臓物、タリマンド、酸菜・・・。いやもういいだろう。とにかく何百何千という種が放つ耐えがたい匂いが充満していた。そんな店の中で最も奇妙なことはそんな匂いをものともしない女主人の鼻の穴であった。彼女は時折その手に竹扇を握ったり、服を脱いで裸になったり、またいきり立ってガサガサと股の辺りまでズボンを引っ張り上げたりする。専らその様相は男と変わりない。
 その時、すでに夜もかなり更けていた。
 手配師の老婆は私をこの場所まで連れてきて、その女主人に告げた。
「この男を数晩ここで寝かせてやってください。この男は何時でも働けますよ。宿代は私がお渡しします」
 女主人は悲しみの様相も無く私をしつこく見つめた。首元に付いた蚊をパンッと一発叩くと、さらに所構わず掻きむしりだし、また持っていた竹扇で背中を突き始めた。彼女は私に暫くこの店に入り、ここで寝てもらうことを婆さんに告げた。去り際に老婆は私に諭した。
「明日になったらすぐ三叉路にくることを忘れるんじゃないよ!」
「はい」
 返事をすると私は静かに歩きだし店の中に入った。全く持ってこれまで私の足があそこまで粘々とした漆喰の土面の上を踏んだことは決してなかった。竹網代の敷物が一枚ごと置かれた寝台が間隔をあけていくつか置かれた場所に来たが、一体のどの寝台に背を寝かせてよいものか図りかねた。なんせどの寝台にも一様に人という人がいて、さらに皆が互いの身を枕にして横になっていたのだから・・・。私がたじろいでいると、飯屋の女主人が叫んだ。
「ハンはどこだ! そいつを物干し台の方に上げて置け! そっちの方に他の奴らが寝ている場所があるだろう!」
 すると一人の青年が走り寄ってきた。彼は私を連れて庭を抜けると竹の梯子がかかる場所で口を開いた。
「上がれ」
 私は彼の言葉に従い、梯子を上った。上がった所はちょうど屋根裏部屋になっているようで、それもかなり広かった。部屋一面には数枚の筵が敷かれているだけで、また部屋の壁はすぐ近くの台所から追い出されてきた煤の影響で土黄色をしていた。
 召使たちは豚のように枕籍している。男どもがあちこちで横になっているのが散見された。およそ私と同じくらいの歳の若者が四人ほど。三人いた女中の内、一人は私より十歳ほど年上、もう一人は十五歳程度、それともう一人は中年くらいに見えた。気の抜けたように若い女子が二人横になっている中、その中年の女性がおずおずと壁の隅にやってきて静かに扇を持ち上げると私のことを見つめた。
 私はそそくさと少年たちがいる側に移り、筵の角っこの方に腰を下ろした。私は前後を目視して辺りに飯屋の人間がいないことを確認してから気兼ねなく米国製の灯りの火先を大きくした。私は筒たばこを持ち出すと、マルバタバコを取ってその穴にくべた。そして口元に当てたのだが・・・。
 突然一人が声を上げた。
「何しているんだよ、暑いのにそんなの吸って!水パイプを使いな。あっちにあるから、あっちに」
 私は首を捻り視線をやると、今しゃべった男はむくっと起き上がり、走り出しては水パイプを見つけて持ってきた。マルバタバコを水パイプで吸ったのち、その男にもその恩恵をあずからせてやると、私たちはすっかりと互いが馴染みの関係になった。
「みたところ、君は手慣れているというようだね。じゃあ都会にはもう長いわけだ」
 私は首を背中の方にそらせて、威嚇し脅すように言った。
「ああ、その通りだ!」
 ただのその一言で彼は私を十分に恐れたはずだ。なぜならばそれからというもの彼はすぐさま私のことを兄貴と呼ぶようになり、そのせいで私も自然と彼のことをお前と呼ぶようになっていたのだから。
「ところでお前はとても怯えているようだな。さてはお前、田舎から出てきたばかりなのか?」
「はい」
「お前は出稼ぎをしてどれくらいになる?」
「ええざっと、B通りで一か月・・・そんでそこにもいられなくなって、出てかなきゃいかんかった。主人が極悪なんだ」
「どうして?」
「そいつは一日中、人を罵るんですよ」
「お前ってやつは、人生の果肉を味わえるほどに品格が熟していないようだな! 嫉妬ばかりしていてはいけないぞ、隣の芝は青いものさ。その主人も喉をやらかして死ぬ時が来るだろうに!」
 そうやって時間を潰していると、飯屋全体をドタバタと走り回り人の物音が聞こえてきた。外ではすでに人々が音を立てながら戸を上に持ち上げていたが、遅ればせながら中にいる我々はやっとのこと雑事を始めたばかりあった・・・。お椀や箸がカチカチとぶつかり合う音や庭先にジャバジャバと水がこぼれる音、中華鍋の上で油の飛ぶ跳ねる音が耳に鳴り響いた。おそらく飯屋の使用人たちは昼と夜の区別を知ることはない。男が高らかに歌を唱えるのと呼応して、皆は互いに冗談を言い始めた。皆の眠気も吹き飛ばすのが彼の仕事のようであった。
 私はその男に再び告げた。
「耳の穴に指を突っ込んでおけばいい。その主人が何を言おうと聞こうとも。わかるかい?ただどうにか働き続けて餓死を免れているだけで人は幸せなんだ」
 彼は瞬き恐れおののくと、弁解するべく言った。
「一か月四ハオじゃあ、いつも腹を満たせるわけじゃないんです!兄貴の言うようにそうやって働いたとして、何が『養母』ってんですか!」
ここで彼に一言何か返答してやるのが道理であったが、ただ私に限ってはその前に何事か息巻いてやり彼を怯えさせる方が得策かと考えた。
「いつお前は私と同じように厨房に立ってくれるんだ、その時は好きに嫉妬を口にすればいい、わかったか?」
 彼はおべっかを言った。
「そりゃあ、兄貴みたいだったら、もちろん私もうまい飯が作れましたらねえ」
「まったく、言わせてもらうけどな、お前はただ一回歌うだけで水を二杯得ることが出来るんだぞ。さらにどんなうまい飯だって、あらゆる食べ物も西洋の食い物だってありつけるのに・・・」
「それで兄貴もどうして仕事を失ったんです?」
私は目を見開いて彼を睨みつけて言った。
「仕事を失っただと?月給は二ドン半だった。ただ私はさらに五ハオ加えてくれるよう要求したが、加えてもらえなかったもんだから、私の方から断ったんだよ!」
彼は舌を出して私にとても敬服する意を示したが、それはただ寝そべっている子どもたちに私へ注意を引かせて盗み見させる程度のものであった。子どもたちはおよそ私のことを召使たちの中でも勇敢な者の一人だと思ったに違いない。私は「威厳を示す」いい機会を得たと思った。なんせこの時、子どもはずっと食い入るように私のことを見つめ、注視し、眠ることもしないで私を「鑑賞する」しているのであったから。
 そろそろボロが出てくるところまで息巻いてしゃべると、私はすぐに尋ねた。
「それで君は雇われ先で働くのは好きなのかい?」
 彼は答えた。
「もう無理な話です、私にはさらさら何の能力もありませんから、まして誰かさんのために飯を作る何て! 私のただ求めるところはささやかにでも戸口でごちそうしてもらうことです。無理を強要してくるのも勘弁、ぶたれるのも勘弁、罵られるのも勘弁です。私が辞めた家は酷かった。その家族は五人以上が住まわって、皆が私のことを殴るし罵ったんです! この下劣な所業はけっしてやめ終わらなかった。嗚呼!おかげで私の身体はくたびれてしまいましたよ」
 彼のわめくところを聞いたが、そこが彼の言うほどまったくそのように劣悪な家であったとは思えなかった。実際、どうも彼に関していえば住み込んでいるうちは献身的であり、またその家の主人についてはいつも冷淡な人であったのだなと思われた。彼はただただ田舎者の庶民出で、決してろくでなしの分際にまで至っていたわけではないのであろう。もちろん、もし彼の言ったことが本当ならばの話だが。
 一通り彼の話を聞いた後、何千年もの文化を宿す土地の内では誰も想像しまい一つの家族の有様を私は心の中に宿した。
 その家は六人家族であった。老いた父と母、役所へ派遣されそこで働いている長男とその妻、また加えて二人の娘もいた・・・。
 通常この血の繋がった家族と夫婦たちは共にして食事の度に皆で台所に入り一つの土鍋を炊くのではあるが、いざ食べる時になると各人集まって共に座っているのだけれども、その誰もが個々人のための食べ物を占有している有様にあったのだ。大雑把に言えば、父は練り物、母は揚げ豆腐、息子夫婦は炒め物、娘らは漬物とスープ・・・。人々は共に同じ食卓を囲んでいるのだけれども、もし誰かが他人の食べ物に箸をつけようという誘惑に駆られてしまった時には、即刻天を衝くほどににらみを利かされるのであった。
これが要点を粗描した場合のその家の光景である。
そしてある食事時、その嫁が夫のためにと残しておいたミミズの練り物を息子が箸をつける前に、その父親が食べてしまった。仕事から帰宅した息子は飯を覆う蝿張を退けて、そこにあるはずの美味が消失しているのを知るとなるとすぐに彼は騒々しく怒鳴り上げた。
「どいつが私の物を一体食べたのだ! 骨を折って仕事し、まだ何も口にしていないこの私を差し置いて食べた者よ、速やかに述べよ!」
 父は走り寄り、弱々しく返答した。
「息子よ、それは私の仕業だ。嫁さんが私のためにミミズを調理してくれたんだとばかり思ってしまって、間違えた。幾らか勘違いして口にしてしまった・・・」
 では各人はこの息子が次に何と言ったか推量できるだろうか? ではもっと分かりやすくするために、ヒントをお出ししよう。この話し手の若者は私にこう言ったのだ。「その父親は家にいるだけ、息子は外で雇われ働いてる」と。
 まあ各人には推量しえないであろう、なぜならばヴィクトル・ユーゴーでさえもそのようなろくでなしを想像することは全く適わないのだから。
 息子が父親に対して言って聞かせた深く名状しがたい言葉とはこうである。
「間違えただと・・・。家にいるだけの人間が居て、外で働いている者が居て、それで妻が飯を作って残しておいたら、それが誰の物かくらい、それで何を間違えたというのだ! よくもぬけぬけと間違えたなどふざけたことを!」
 話の終わりにその若者は誇り高く結論を言った。
「僕は考えましたよ。住み込んで主人に忠誠も誓おうと、しかしまあ住み込んだ先がそんな恥さらしな主人だなんてね!」
 私は彼に共感して何度も頷いた時には、既に彼にやるようなタバコも切らしていたし、また論争することも無くなっていたが、部屋の隅で寝そべっている子どもの笑い声を聞けるのがこの場に住まうことの利のひとつであり、彼を労うものにもなろう。その笑い声が私に大胆にも灯りを持たせ、彼の顔を照らすところまで持って行かせたのであった。

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