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「独りきりで歩くこと」

いったん気にいると何度も同じ本を手にとるのは先日の投稿で書いたけれども、そういった本の1冊が、河島英昭さんの「イタリアをめぐる旅想」。

東京外語大名誉教授で、映画化もされたウンベルト・エーコの「薔薇の名前」の翻訳者でもある。2018年にお亡くなりになった。

かつて暮らしたイタリアを再訪しながら想いを巡らせているといった内容で、決して明るい紀行文などではないので、かなり好みが分かれると思う。でも私はなぜかとてもハマってしまって、この中に出てくるチンクエ・テッレという北イタリアの海沿いの町々を、本を片手に実際に訪ねてしまったくらいだった。

言うまでもなく、見知らぬ土地におのれを見出すことから、ぼくらが得るものは多い。その最たるものは、おのれを発見することだ。この正体不明の、わからずやの、厄介なおのれという存在に、正しく向きあうこと。その絶好の機会が、異国にいると、苦もなく訪れてくる。ただし、条件が一つだけある。独りきりで歩くこと。

初めてのヨーロッパと、次のオーストラリアはそれぞれ友人と2人で旅したが、その次からずっと一人で旅に出るようになった。といっても、イタリア好きの友人知人の輪がどんどん広がっていったので、現地のどこかで1日誰かと過ごしたり、はじめの2、3日を友人と旅してから分かれたり、ということもあった。でも、かならず独りでいる時間が必要だった。だから、この文章を読んだ時に、独りで旅する自分を肯定してもらったような気持ちになった。

一人旅の理由のひとつには、写真を撮りたかったからということもある。

誰かと歩いている時は、一緒にいる時間そのものを楽しみたい。被写体を探すようにアンテナを立てて歩くことと、誰かとおしゃべりしながら散策することは両立が難しいのだった。そういう時に撮る写真は、記録と割り切ってそれはそれで楽しく撮る。

カメラを持って一人で歩くとき、惹かれる光景を見つけると、しばらくそこから動かなくなる。どうやったらイメージ通りに撮れるか、フィルムカメラだったので枚数も限られているし、撮った画像の確認なんてできない。だから、目の前にあるものと対話しながらじっくりシャッターを押す。

たぶんそれは、河島さんの書いている「おのれと向き合う」ことなんだろう。

今思い返すと、写真を撮りたいから一人で行くのではなく、一人で行きたいから写真を理由にしていたのかもしれない。

完全に独りを楽しむのもいいし、一人でいてご縁のある人と旅の中で出会うこともある。どちらもグループやツアーでは体験できないことなのであった。

でも、最後にヨーロッパを旅した時(オーストリアのクリスマスマーケットを撮りに行った)、外国への一人旅はこれで最後にしようと思った。
ひたすら自分と向き合うのは終わりにして、ご縁のある誰かと旅するのがいいな、と思ったのだった。

いつもそんなに真面目な随筆みたいなものを読んでいるわけではなく、今読んでるのは益田ミリさんの、ツアーに初ひとり参加した時の旅エッセイ。なんせ暑いので、パラパラのほほんとページをめくっている。この本のことはまた後で。

PHOTO : フィレンツェ サンタクローチェ教会にて






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