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ジュディス・バトラー『アセンブリ:行為遂行性・複数性・政治』

ジュディス・バトラー著/ 佐藤嘉幸、清水知子訳『アセンブリ』(青土社、2018年、税込み2800円+税。原著の出版は2016年)は、バトラーによる集会(アセンブリassembly)論で、バトラーの本では一番新しいものです(たぶん)。

ソフトカバーで読みやすく、バトラーの考えがよくわかる本でお勧めしたいので、noteで記事を書くことにしました。

本稿はそのうちの前編、内容紹介編です。僕の主観は排して、できるだけ客観的に・端的に・簡単に内容をまとめています。後編では逆に「僕が読んだ『アセンブリ』」を強く押し出すつもりです。
後編に関しては、「こちら」の記事をご覧ください。

内容紹介に入る前に、ジュディス・バトラーの紹介をしておきます。バトラーはカリフォルニア大学の教授で、現代を代表する思想家の一人です。特にジェンダー論、倫理学、政治学あたりに強い印象です。

ジェンダーの構築性を説いた『ジェンダートラブル』(1990)は、現在でもたびたび参照される名著です。ちなみに日本近代文学研究でもバトラーはよく参照され、文学の読み手がジェンダーやフェミニズムの問題を考えていく際の導き手となっています。

では、そのバトラーが書いた『アセンブリ』はどのような本でしょうか。目次は以下のようになっています。

序論
第一章 ジェンダー・ポリティクスと現れの権利
第二章 連携する諸身体と街頭(ストリート)の政治
第三章 不安定(プレカリアス)な生と共生の倫理
第四章 身体の可傷性、連帯の政治
第五章 「私たち人民」――集会(アセンブリ)の自由に関する諸考察
第六章 悪い生の中で良い生を送ることは可能か

本当は各章の内容を一つずつ扱っていけるといいのですが、なかなかそれも大変なので、本稿ではいくつかのキーワードに注目しながら『アセンブリ』の内容をまとめていきたいと思います。

〇集まることの政治性

訳者の佐藤さんによる「解説」で、原著のタイトルが”Notes toward a Performative Theory of Assembly”であることが明かされています。直訳するなら、『集会の行為遂行的な理論に向けての覚え書』みたいな感じでしょうか。

日本語訳版の『アセンブリ:行為遂行性・複数性・政治』というタイトルは、フランス語版『アセンブリ』からとったものなのだとか。「行為遂行性・複数性・政治」という副題が本書の内容を簡潔に表していると考えて、このタイトルを採用されたそうです。

まさにその通りで、300ページ弱あるこの本の内容も、「行為遂行性・複数性・政治」の3つの要素と、あとは「不安定性」と「可傷性」という2つの要素だけ踏まえれば、だいたい理解することができます。

後半2つの要素のことは後で説明することにして、まずは「行為遂行性・複数性・政治」からいきましょう。

本書の特有の論点は、協調行動が、政治的なものに関する支配的な概念の不完全かつ強力な次元を疑問に付す身体的形式になる、という点にある。(「序論」16ページ)

バトラーの主張はシンプルです。ただ単に「集まる」(協調行動)ことが、それだけで政治的な抵抗を示すことになる。このことを全編にわたって述べたのが、『アセンブリ』です。

この時に重要になってくるのが、「行為遂行性」という概念です。「行為遂行性」、どういう意味でしょうか。

たとえば、部活で先輩が次のように言ったとしましょう。「ちょっと乱暴だが、こうすればチームが勝てるようになるんだ。文句のあるやつはいるか」。それに対して、ある部員が立ち上がった先輩を見つめた。そんな状況を想像してみてください。

その部員がしたのは、立って相手を見ることだけです。しかしその行為は同時に、先輩に対して「文句がある」ことを示しています。

このように、ある行為が行われることによって同時にもう一つの意味を指し示すことを、「行為遂行性」と呼びます。ときどき「本当に助かった。礼を言うよ」みたいなセリフに対して、「礼を言ってないやん!」みたいなツッコミが入ることがありますが、「礼を言うよ」という発言は、行為遂行的に見ればお礼を言っていることになるのです。

バトラーはこの行為遂行性を集会(アセンブリ)に適用しています。つまり、人々はたとえ何も主張していなくても、集まった時点で政治的な主張をしていることになるのです。なので『アセンブリ』では「身体」という語もキーワードになります。人々の身体が物理的にその場にあることが、あるメッセージを発します。

具体的にこれは、下記の引用のような形で記述されます。

恐らく私たちはなお、このジェンダーの行使と、公共空間におけるこの社会的カテゴリーを伴った、そのカテゴリー内部での平等、暴力からの保護、そして移動する能力への権利の身体化された政治的欲求との両者を、「行為遂行的」と呼ぶことができるだろう。歩くことは、ここはトランスジェンダーの人々が歩く公共空間である、ここは様々な形式の衣服を身にまとった人々が、どれほどジェンダー化されていようと、あるいはどの宗教を表明していようと、暴力に脅えることなく自由に移動できる公共空間である、と述べることになるのである。(「ジェンダー・ポリティクスと現われの権利」70ページ)

迫害される可能性のある人が道を歩いているだけで、その場所は迫害される心配のない「公共空間」であることを示すことになります。行っているのは「歩く」というだけの行為ですが、行為遂行的にはある種の政治的メッセージを発しているのです。

さて、ここまでで「行為遂行性・複数性・政治」のうち2つが登場しました。では、「複数性」はどのような形でここに入ってくるのでしょうか。

「現れ」は、可視的現前、語られた言葉を指し示しうるが、またネットワーク化された代表や沈黙をも指し示す。さらに、私たちはそうした行為を、唯一の種類の行為、あるいは唯一の種類の主張への厳格な一致を必要としない仕方で収束的目的を行為化し、全体として唯一の種類の主体を構成しないような諸身体の複数性を想定することで、複数的行動として考えることができなければならない。(「私たち人民」―集会の自由に関する諸考察」213ページ)

「集まるだけでみんなバラバラのこと言ってたら意味なくない?」という疑問に対して、バトラーはそのバラバラさ=複数性を肯定します。主張がバラバラでも、その場に身体が集まることの行為遂行的な意味が大事なのです。むしろ人々の意見が一本化されてしまうと、そこにある「諸身体の複数性」は意味を失ってしまうでしょう(この「複数性」が本書の読みを深めていくキーになると考えているのですが、それは後編で論じたいと思います)。

主張がバラバラ=「複数」でも、さまざまな人たちが「集まる」ことの「行為遂行性」がもたらす「政治」的意味が重要である。これが、『アセンブリ:行為遂行性・複数性・政治』の骨子です。

〇不安定性と可傷性

では、このような集会を持つのはどのような人々なのでしょうか。バトラーは「不安定性」(プレカリティ precarity)な人々が、その不安定性に抗して集会を持つ場合があると言います。

不安定性は、女性、クィア、トランスジェンダーの人々、貧者、身体障害者、無国籍者、また宗教的、人種的マイノリティを集合させる概念である。(「ジェンダー・ポリティクスと現われの権利」77ページ)

バトラーは「不安定性」という概念によって、さまざまなマイノリティをつないでいきます。もちろんマイノリティ間にも差異はあり、それが「複数性」を構成しています。その複数性の中で集会をもつことによって、この不安定な人々は安定しているかに見える政府や権力を脅かすのです。

また、「不安定性」という言葉が含意しているのは、私たちの生そのものが安定していないということです。いまお金持ちの人たちの生活は安定しているように見えますが、「安定」という状態そのものが不安定なのです。特に、日本に住んでいれば、足場にしている大地すらもしばしば揺れ動き、住んでいた家やライフラインを破壊してしまうことが実感できるはずです。

つまり「不安定性」という概念は、いま現在不安定な立場に立たされている人たちだけではなく、いつ病気や怪我や災害でピンチに陥るかわからない僕たち全員をも可能性としてつないでいるのです。

しかし、集まることには危険も伴います。不安定性を抱えた人々には強力な後ろ盾や人脈はありません。時には権力によって、逮捕される、監禁される、殴られる、最悪の場合には殺されてしまうことも起こり得ます。

バトラーはこうした事態を次のように説明します。

私たちの多くにとって、すなわち多くの人々にとって、能動的に街頭に現れる瞬間は、曝されることについての意図的なリスクを含んでいる。恐らく、「曝され」という言葉は、存在論や基礎付け主義の罠の外部で可傷性を考えることに役立つだろう。このことは、許可なく街頭に現れる剥き出しの人々、警察、軍隊、あるいは治安部隊に武器なし対峙している人々にとって、とりわけ正しい。(「身体の可傷性、連帯の政治」182ページ)

集まるためには、私たちの身体がその場に「現われ」なければなりません。それは行為遂行的な意味を持つのですが、「現われ」ることは同時に危険に「曝され」ることにもなります。

こうして、集まる人々は「可傷性」を有することになります。というより、不安定な人々はそもそも他の人よりも多く可傷性を持っており、集まることによってその可傷性はさらに増大するのです。

「可傷性」(ヴァルネラビリティvulnerability)とは、もともとレヴィナスという哲学者の用語です(たぶん)。バトラーの思想ではこの言葉はキーワードとなっており、「傷つきやすさ、傷つくこと」を指します。たとえば女性は男性よりも差別にあいやすい分、可傷的です。また、バトラーによると言葉はそもそも私たちを傷つける性質を有しており、「可傷性」という概念は言葉の問題を考えるときにも登場します(参考:バトラー『触発する言葉 言語・権力・行為性』)。

傷つきのリスクを冒しても街頭に「現われ」訴えかけること。バトラーはその意味で、不安定な人々による集まりに共感しています。

※ここだけの紹介だと「可傷性」という概念がネガティブなものに見えるかもしれませんが、人は誰かと接しようとすればいつでも傷つく可能性があります。逆に、「可傷性」がないことはその人がコミュニケーションの場に参加していないことを指すことになるのです。つまり、傷つく可能性があること自体がその人の挑戦を示しているのであって、バトラーにおいて「可傷性」は避けるべきものだとは説明されていません。

〇本書の思想的位置

ここまでで、だいたい本書に書いてある内容の説明はできました。もちろんスルーした箇所も数多くあるのですが、「行為遂行性」・「複数性」・「政治」・「不安定性」・「可傷性」さえ押さえておけば、『アセンブリ』を「読んだ」と言ってもあんまり嘘にはならないんじゃないかと思います。

なので最後に、本書の思想的な位置づけを解説してこの記事を締めることにします。というのも、思想や哲学は、どういう流れの中でその考えが登場したのか分かると、より理解が深まるように思うからです。

本書が強く意識しているのはレヴィナスと、アーレント、共同体主義(コミュニタリアニズム)あたりだと推測されます。

エマニュエル・レヴィナスとはフランスの思想家で、すごくざっくり言うと「他者論」で有名な人です。「他者」にはいろんなニュアンスがあるのですが、ここでは思い切って「他人」としちゃいましょう。自分以外の人に対する倫理や責任という面で、レヴィナスとバトラーは響き合っています。また先述したように、「可傷性」という言葉はレヴィナス哲学の用語でもあります。

ところがバトラーは、レヴィナスに100%の共感を寄せているわけではないようです。

私はここでレヴィナスから距離を取る。というのも、私は倫理的思考に向けた自己保存の本源性への反論には賛同するが、他者の生、他者のあらゆる生、私自身のある種の結び付き―つまり、国民的、コミュニタリアン的帰属には還元できないものを強く主張したいからである。(「不安定な生と共生の倫理」143ページ)

引用から分かるように、バトラーがレヴィナスに感じる距離は、共同体主義に感じる距離と重なっています。共同体主義とは何でしょうか。

共同体主義とは、行き過ぎた個人主義への反省から、共同体や社会のもつ道徳・倫理を立て直そうとする動きです。たとえば友達とゲームをするときに、「このキャラは強すぎるから使うのなしな」とルールを決めることがありますよね。もしかするとこっそりそのキャラを使えば勝ちまくれるかもしれませんが、そこは共同体の秩序を優先して使わないようにするわけです。

この例だと卑俗すぎるかもしれませんが、『白熱教室』で有名なマイケル・サンデルが共同体主義者なので、詳しく知りたい人は彼の本を読むといいかもしれません。

ところでこの共同体主義、どこまでを共同体とするかによって見方が変わってきます。「地球が一つの共同体なんだ!」というところまでいけばいいですが、多くはそれぞれの国家や民族を共同体の単位として考えます。そうすると、ナショナリズムや排外主義につながりかねません。「アメリカン・ファースト!」みたいな。

バトラーは、よりグローバルな範囲で通用する道徳を欲しています。今までの説明で分かるように、それが「不安定性」です。共同体のルールや相互扶助といった次元ではなく、「不安定」であること、つまり人間生活の根源的なところでの連帯の可能性をバトラーは見ています。なのでバトラーにとって、レヴィナスや共同体主義は「広さ」という面で足りないのです。

共同体主義でさえ物足りないくらいですから、個人主義や市場主義はもちろん斥けられます。とはいえ、いま力が強いのはこのあたりの思想です。落合陽一や堀江貴文の本を読んでいると、競争の原理をどんどん取り入れてシステムや生き方を合理化していこうという思想が前面に出ています。それらにはいい面もあるのですが、「不安定性」を抱える人々にとってそうした競争原理は「淘汰」に他なりません。よって、バトラーとすれば承認できません。

さて、バトラーが本書で意識している哲学者のもう一人が、ハンナ・アーレントです。アーレントはユダヤ系の哲学者で、ナチズム批判、全体主義批判で知られています。

アーレントは人々の共生や複数性について論じており、その点でバトラーはアーレントに近接しています。ただレヴィナスの場合と同じく、アーレントに対しても100%の共感を見せているわけではありません。

『人間の条件』におけるアーレントのこうした前提は、身体は言語行為に参入せず、言語行為は思考と判断の様式と理解される、と想定している。言語行為が範例的な政治的行動として認める公的領域は、彼女の見解では、私的領域、女、奴隷、子供、そして働くには高齢のもしくは衰弱した人々の領域からは既に切り離されたものである。(「ジェンダー・ポリティクスと現れの権利」62ページ)

アーレントの思想について、身体が私的領域として公的な政治から切り離されてしまっていることへの批判はしばしば見受けられます(たとえば、ジュリア・クリステヴァの『ハンナ・アーレント講義』など)。

しかし、ここまで見てきたように、バトラーにとって身体は行為遂行的に政治的メッセージを発する重要な概念であって、私的領域に押し込めていいようなものではありません。そこでバトラーはアーレントの思想に共感を寄せつつ、やはりそこからも離れていきます。

このように、バトラーは個人主義や自由主義をレヴィナス、アーレントの思想を借りて批判しつつ、そこからよりグローバルな場所を目指して考察を進めています。特にサンデルを代表とする共同体主義との違いを意識しておくと、本書を読むときに理解が深まるかもしれません。

〇おわりに

「不安定性」を抱えた人々の集まりは、権力によって弾圧される「可傷性」も有します。しかし、そのリスクを冒しつつも集会をもつ彼らの複数的な身体は、そこに居るというだけで行為遂行的なメッセージを伝えているのです。

原著が出版された2016年は、ドナルド・トランプが大統領選に勝利した年でもあります。もちろん本の執筆はもっと早くから行われていたでしょうが、世界的な移民排斥の流れは2016年以前からありました。そうした世界的な潮流にバトラーが危機を感じて本書が執筆されたことは間違いないでしょう。

本稿では触れられませんでしたが、本書ではジェンダーやフェミニズムもキー概念となっています。男性に対して、女性の方がより「不安定性」を不平等に分配されているからです。

日本でも非常勤で働く方が増加し、その待遇の悪さが問題となっています。その「不安定」な生活を連帯によってどのように変えていけるのか。バトラーの思想は抽象的な言葉遊びではなく、いままさに直面している問題について、僕たちの姿勢を問うているのです。

後編では、より批判的に本書の問題意識を検討していきます。よろしければご覧ください→https://note.com/verslaazur/n/ned2e7b96bf21





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