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163/* リアルな"居場所"が少なすぎる

ベルギー、イギリス、フランスをまわる旅行から帰国し、旅路の写真を整理しながらふと色々と振り返って見ていた。日本に戻って来てどうとかってことは特にないけれど、今回回った国々は、とにかく居場所の多い国だったなー、と一つ思った。

今日は予定があって、とある街をぶらぶら。足も疲れたしご飯を食べるような時間でもないので、ちょっと休憩できるところを、と思ってあたりを見回して見ても、日本には簡単に休憩できるような場所はそうそうない。

ベンチもほんのわずかばかりで、公園を探して歩き回るくらいなら店に入った方がマシだと、手頃なファミレスに入る。すると驚いたのが、15時ごろのファミレスが中高生でごった返しているのだ。受験や試験を控えているのもあるかもしれないが、彼らも居場所を無くしたタチかー、と少し寂しくも思ってしまった。

そう考えてみれば、こと東京において人間の居場所はとても限られている。ちょっと一休みするにも金がいるし、時間に追われる。友人と積もる話があったって、居場所がなければスマホ主体のコミュニケーションやSNSに流れ出すのは頷ける。若者のみならず、居場所を失ってしまっている人は多いんじゃないだろうか。仮にファミレスやカフェのような仮のシェルターに逃げ込んだところで、心や体は休まらないし、それは居場所にはなり得ない。

一方、今回僕が回った国々なんかは、ちょっと歩けば公園がある。広場がある。街のいたるところにベンチがあって、そこに人が集っている。この寒い季節にも公園や広場にはたくさんの人が集まっていた。

ロンドンでは学生団体のデモにはちあった。どこからともなく湧いてくるプラ板をもった学生たちが、何時間にも渡って道路を占拠し、ロンドン市街を練り歩いていた。結局彼らはどこにたどり着くかというと、それもまた多くの人が集う広場の一部なのであった。

かくいう僕も、慣れない土地ながら居場所がなくなる事態は避けられたし、居場所で生まれる多様なコミュニケーションのあり方も垣間見ることができた。当然、人が集えばそれなりにトラブルや事件だって起こるが、まず何より居場所があるということが何よりの安心感であった。

東京で若者が立ち話をしているのなんて、渋谷駅ハチ公前の待ち合わせシチュエーションぐらいしかパッと思い浮かばないけれど、ロンドンやパリなんかではそこら中で若者が立ち話に明け暮れていた。そんな姿を見て、なんかいいなぁと思ってしまったのだ。

東京は圧倒的に便利だ。けれどそれが、安心なのかどうかはわからない。所狭しと家やお店が並んだおかげで、どんどんと道は狭くなり、公園や広場は撤去され、ただ往来だけを目的としたものになってゆく。お金や時間が常に迫り来る空間だらけで、おちおち昼寝もしてられない。そんな状況で、がむしゃらに前なんか見てられるか、って若者に突きつけれたら、僕はとても心が痛くなってしまう。

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