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好きな曲は好き~木/赤い公園~



はじめに


今日は赤い公園の『』という曲についてお話しします。

津野米咲さんのインタビュー等は一切見ずに自分で考えたことだけお話しするつもりなので、ご了承ください。

これまでもいくつか赤い公園の楽曲についてお話ししてきましたが、



この曲を良く聴くようになったのは大学2年生の頃で、
丁度、親の呪縛が解け始め、ほんの少し見える世界が変わり、
その世界の広さと自分の非力さに気付き始めた頃です。

イントロは、中学生の頃に良く聴いていた『』という曲のイントロによく似ているなと思いました。
イントロだけでも聞き比べてみてください。



根拠のない自信


まったりとしたギターのメロディとは打って変わって、しっかりと刻まれるキックと、シンセサイザのようなベースが印象的です。
…これシンセではないですよね?
未だにシンセのように聴こえます。
一見、無秩序に鳴らされているかのように聞こえるドラムに気を取られていると歌が始まります。

甘いと思い込めば
ゆけると企て

ここの歌詞を聴いたとき、思わず歌詞を調べました。
直感で、「文字でも見ないと」と思いました。

これを聴き、真っ先に思い浮かんだのは、幼い頃の“野心”や“冒険心”、そして私が何度も言っている“無敵感”でした。
私が直訳すると、
「(何かを始めるときまたは、何かに挑戦するとき)簡単だとorできると思い込んだら、できると信じて」
です。
まさに、“根拠のない自信”です。

また、『企て』という言葉も気になりました。
企てるということは計画を練っている段階ってことですよね。
挑戦or実行をまだしていない状態なんです。
きっとこの後するのでしょうが、実行していないのに、『甘いと思い込』んでいる。
これが、根拠のない自信がある状態を表現していると思いました。



病はどこからか来るのか


ここからだんだんドラムも入って来てエコーも効いてきます。

有名だ 病は木から成るの

病は気からという有名な慣用句がありますよね。
簡単に言うと、気の持ちようで本当に病気になってしまうこともある、という意味です。

では、ここではなぜ『』なのでしょうか。
木と人との関係について考えてみると、私はアダムとイブが思いつきました。

聖書のお話になりますので苦手な方はブラウザバックをしてくださいね。
私は詳しくないので、有識者の方はお手柔らかにお願いします。

神様が天地をつくり、動植物をつくり、そして最後につくったのが人間、すなわちアダムとイブです。私たち人間の始まりであるアダムとイブがどうやってつくられたのか、聖書には詳しく記されています。
アダムとイブは同時につくられたわけではなく、神様はまずアダムをつくりました。
そしてご自身がつくったほかのあらゆるものを見せて、その一つひとつに名前を付けさせました。アダムはその仕事を見事にやってのけましたが、ほかの動物にはみんな仲間がいて助け合って生きているのに、自分だけ仲間がいないことを寂しく感じました。

そこで神様は「人がひとりでいるのは良くない」と言って、アダムを深い眠りに落とし、あばら骨を1本とると、その骨からイブをつくりました。
アダムとイブはこうして生まれ、苦労も憂いもない「エデンの園」という楽園で何不自由なく暮らしていました。
そこがどんな場所であったかは聖書に詳しく記載はありませんから想像するしかないのですけれど、綺麗な水と美しくてしかもおいしい実のなる木々がたくさんあったようです。
彼らに課せられたルールはたった一つ。「この園の中央にある樹からは実を食べてはいけない。食べたら死んでしまうよ」だけでした。
しかし悪魔の化身である蛇がイブをそそのかしました。「この実を食べると死んでしまうと神様が言ったそうですが、死にはしませんよ」「むしろこの実を食べると賢くなって、神様のようになれますよ」と言葉巧みに誘惑し、最初は拒んでいたイブもついにこの実を口にしてしまいます。
そしてイブに勧められたアダムも、この実を食べてしまったのです。
すると、二人は急に自分たちが裸であることを恥ずかしく思いはじめ、イチジクの葉で腰巻きを作って身につけました。
「羞恥心」はこのように、「罪=神様のコントロールから外れること」によって生まれたのです。人は本来、人の目を気にして生きるようにはつくられていませんでした。だってほかの動物を見回してみても、人間以外には他者の目を気にして羞恥心を抱く動物はいないでしょう?
そして二人は神様の目をも避けました。約束を破ってしまった自分たちが後ろめたかったんです。

しかし当然神様に見つかり、「君たちは食べちゃいけないと言ったのに、あの実を食べてしまったんだね?」と問いつめられました。
するとアダムは「イブが勧めたから食べたんです」と、イブは「蛇が勧めたから食べたんです」と、お互いに責任転嫁を始めました。
自分の非を認めずに人に責任を押し付けるというのは私たちの社会でもよくあることですが、これも「罪」から来る行いなんです。
もちろん、そんな言い訳が神様に通じるわけもなく、二人はエデンの園から追放されてしまいました。さらに神様は、アダムには「食べるためには汗を流して働かねばならない」、イブには「子どもを産むには苦しまなくてはならない」という罰も与えました。

そして何よりの罰は「いつか必ず死ななくてはならない」ということでした。

私は赤い公園の曲を聴いて聖書まで意識が飛んでしまったのです。
曲において『病は木から成る』ことが『有名だ』とあります。
禁断の実を食べてしまった人間の話は確かに有名でしょう。
では、これに関連する『』とは何でしょうか。

こちらのコラムに解釈がありました。

私たちが犯す罪は「病気」であり、キリストは「病気」を癒やすために来られたという風景ではないだろうか。罪が「病気」でなければ、「人はその犯すどんな罪も赦していただけます」とは決してならないし、私たち罪人に対し、「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です」などと言われないからだ。
ところが、人間的な標準の価値観では、罪を犯す責任は人にこそあって、罪を犯す者は「ダメな者」と決めてかかる。罪を犯せば罰を受けるべきであり、決して無条件では赦されないとする。そのため、罪が「病気」だとする話など到底受け入れられない。罪は「病気」故に赦されるなど、あってはならないと拒否してしまう。しかし、イエスはそうした人の考えを退け、罪は「病気」であるから、「人はその犯すどんな罪も赦していただけます」と言い、あなたは「ダメな者」ではないと励まされる。これは何としたことか。

このように聖書の観点から人間の誕生とその人間の感情や宿命、罰を与えられたこと、そしてその罰の中には「病」も関係しているということがなんとなくわかりました。

さて、歌詞に話を戻します。
これらのことから、『病は木から成る』という言葉が成立するように思えてきました。
人間の祖先であると考えられている彼らが食べた禁断の実のなる木が、子孫である我々の病の原点であるという考え方です。
・・・・大分、遠まわりをしましたね。

さて、考え方はわかりました。
では津野米咲さんをはじめとする赤い公園の皆さんはこの歌で何が言いたかったのでしょうか。
次に続きます。


未熟感

バンドエイドを洗ったら
もう二度とつかぬのだなあ

ここの歌詞、とても当たり前のことを言っているように思えませんか?
当たり前すぎて何か別のことを考えているんだろうな、と勘繰ってしまうほどです。
前の章で、『』について考えました。

その『』は人間の誕生の結果、神様が生み出したものです。
そのため、現在を生きる平凡な人間ではに抗うことは難しいです。
木から成っている』のですから。

ここの歌詞では、そんな病の結果生まれてしまったであろう傷を治そうとしているのでしょうか。

でもどうして一回貼ったバンドエイドをはがしたのでしょうか。

第一章で、幼少期の無敵感や根拠のない自信についてお話ししました。
そこでは「まだ実行しておらず、計画だけの段階だ」とお話ししましたが、傷があるということは、実行してみたのだと思います。
その『甘いと思い込』んで計画を『企て』、実行した結果、傷ができてしまったのです。
まさに見込みが甘かったのではないでしょうか。
それとも、その傷は禁断の実がなる木から由来するものですから、予想も予防もできなかったことなのでしょうか。

そんな傷をいったん治そうと試みたものの、
傷の状態が気になって一回はがしてしまったのかなと思いました。
根拠のない自信をもって実行するぐらいです。
きっとバンドエイドを途中ではがしちゃうようなことするのでしょう。

つまりまとめると、
自分の根拠のない自信と、天災のようなどうしようもないことが重なり、傷を負ってしまったが、どうにか治癒させたくてSOSを出している、
という状況でしょうか。

おやつは要らないから
応急手当をして
三時までに

ここで『おやつ』や『三時まで』が出てくることからより子供感が増します。
どうにかしてこの傷を治したい。
さらには『応急手当をして』の『して』が
他力本願感満載で、より子供っぽいです。


有名だ 病は木から成る

やっぱりおやつ食べる気じゃん


音がおとなしくなって、キラキラポップ感が増してより子供っぽさが曲調からも感じ取れるようになってきました。

今ひとつ出来なけりゃ
明日も多分 足らぬのだなあ
誰みたいに 何みたいに
なれたかな なれるかな

ここの歌詞ですが、空想の羅列という感じがします。
「今日できなかったから、明日もたぶんだめなんだろな~」
「あーああの子みたいに上手くできたらなあ~」
「あーあ、あんな人になりたいなあ~」
つぶやくだけで実行に移さないような雰囲気です。
…私に刺さります…!

こんな部分が未発達感、未熟感を彷彿させます。

ここのギターが印象的です。
コーラスも大好きです。
さっきとは違ってどんどん音数が増えて盛り上がる感覚。

バンドエイドを洗ったら
もう二度とつかぬのだなあ
おやつは要らないから
応急手当をして 三時までに

ここですが、『おやつは要らない』といいつつも『三時』=おやつの時間に間に合うように手当して、と他の人に頼んでいる構図が見えました。
「おやつ食べる気じゃん!!」と思いました。
そんな部分もなんだかこどもっぽさを出している歌詞に感じます。

さいごに


この曲は曲調や曲の構成からは想像できないぐらい歌詞が子供っぽさ、幼さ、未熟さを出したいと叫んでいるように思えました。
不思議です。

ほぼ妄想と想像のお話でしたが、ここまで読んでくださってありがとうございました。
♡励みになりますありがとうございます。

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