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好きな曲は好き~檸檬の棘/黒木渚~

はじめに


今日は黒木渚さんの『檸檬の棘』という曲についてお話しします。

この曲は私が高校生の頃にリリースされた曲で、ちょうど両親との関係に悩み始めた頃であり、両親の私への接し方や希望、を負担に想っていた時期でした。

以下の私の感想は黒木渚さんの著書等を読まずに感じたものです。

世界が壊れたと感じたら

まるで讃美歌のようなコーラスからこの曲は始まります。

『世界が壊れた記念に檸檬の苗を植えた
 叫ぶことは諦めたよ 
 むくんだ目で大人を睨む』

私にとって家庭は世界で両親は絶対神でした。
高校に進学して私世界がほんの少し広がった時、なんとなく両親の過干渉に気付きました。
それでも、“過干渉”という言葉は知らず、ただ“人よりも厳しい”と感じていました。
そう気づいたとき、私の世界がほんの少し壊れたのです。
絶対神だったものは私を縛る悪魔のように見え、期待はただの支配欲のように見えるようになりました。
私にはそれが負担でした。
しかし、これまで自分が生きてきた世界が“大多数”ではないことに気付くことは、たった16歳の私にとってとても残酷な事でした

そんな時、この曲は寄り添ってくれる曲だと思いました。
私のどうすることもできない現実を理解して、共感して、一緒に手を繋いでくれる曲だと思いました。

そんな私の世界が壊れたとき、あまりにもゆっくりと壊れたため、何もすることはできませんでした。
ただ茫然受け入れて、悲しんで、耐え忍ぶ方法を探すしかありませんでした。
叫ぶことは諦め』て、ただただ闇雲に、素手で抗ってみるしかありませんでした。

最近私の希望が消えたとき、アップルミントの苗を植えてみました。
「少しでも救われるかなあ」という気分でした。
何か気の紛らわしが欲しかったのです。

この曲は『美しい滅び方』という曲と繋がっているように感じます。
そのため、檸檬の苗を植えることは自分の心臓をその下に植えているような気がしました。

世界が壊れてしまったから、古い自分を殺して、その心臓を植える、というような感じでしょうか。

『君はやがて知るだろう
 あの素晴らしい棘を
 内側から怒りが
 怒りが貫いて尖る』

大学生になって両親と物理的に離れてから、私はたくさんのことを考えました。
高校生の頃よりももっと広がった私の世界と視野でも、学問的な面においても両親との関係について、沢山悩みました。
その悩みは今も続いています。
考えれば考えるほど私は怒ってしまっていました。
「他の人はこんなことで悩んでいないのに」、「他の人はしがらみ無く自由そうなのに」何度も何度もそう考えてしまいました。
時々両親と電話するときに、何度も怒った態度をとってしまったこともあります。
私もまだ未熟です。
冷静に両親と向き合うことができません。
それでも、もう、両親のいいなりにはなりたくないのです。


戦わないといけないのかもしれない

次の歌詞です。

『戦って戦って戦っていなくちゃ
 抗っているからこそ私だって言える』

このサビを聴いたとき、「羨ましい」と思いました。
声に出して、はっきりと『戦っていなくちゃ』『抗っているからこそ私だ』と言えたなら、どれだけ良いだろうかと唇を咬みました。
戦った結果が何であろうとも、
戦ったからこそ、自分の意思を主張したからこそ、その結果を自分のものだと言えるのかもしれません。
私も戦ってみるのも今なのかもしれません。

『水になって炎になって風になってみたいな
 粒子になった体はどこにだってゆける』

自由を最大限に表現したような歌詞だと思いました。
壮大で雄大で堂々としていて。
抗って、戦って得た結果がどうであれ、私はその結果の世界で「自由だ」と言えるでしょうか。
…言えるといいなあ…


私のにとっての棘

2番の歌詞です、

『誰かを許した記念に檸檬の苗を植えた
 憎むことは諦めたよ
 綺麗事で心を逃す』

私は高校生の頃までできるだけ、私なりの最大限で両親の言う通りに過ごしてきました。
そう考えると私は両親の過干渉を許していたのかもしれません。
しかし、大学進学は両親の反対もありましたが、私の思うところに進学しました。
これは両親が私のわがままを許したのかもしれません。
こうやって私も両親もお互いのことを許してきました。
しかし、両親は私が、両親の過干渉を許したとは微塵も想っていない様です。
寂しいですね。
憎むなと言われてもその理不尽さに怒りと悔しさでどうしようもなくなります。
そのたびに、仕方のないことだから、とまた許してしまうのでしょうか。
「両親は大切にしろ」、「親孝行をしないといけない」そんな綺麗事で私の心は逃がせませんが、いつか逃がせると良いです。
逃がしてあげたいです。

次の歌詞です。

『君はやがて知るだろう
 あの狂おしい棘を
 真新しい痛みを
 痛みを突きつけて迫る』

私はこの曲における『棘』が両親のことのように思えていました。
幼い時には私の“全て”で、安全地帯だった両親が、私を真っ黒かつ真っ赤に染めるような針のような存在になるとは。
ちくちくと痛くて、でも完全に突き放せなくて、突き放せない自分もやるせないです。
両親と話すたびに痛いし、その痛みがしばらく消えない。


吐き出していないと

次の歌詞です。

『生み出して生み出して生み出していかなきゃ
 吐き出しているからこそ私だって言える』

これまで書いたような私の気持ちは曲になりました。
大学に入ってから作詞作曲を始めて匿名でサイトにアップしたりしています。
また、このnoteもそうです。
Twitterもです。
吐き出していないと、綺麗事見るだけで痛い棘に支配されてしまいそうだからです。

『鳥になって獣になって魚になってみたいな
 自由になった心はどこへだってゆける』

リアルではない世界では私は自由でした。
Twitterも好きな人同士で繋がることができ、良いことも嫌なことも呟くことができます。
曲も私の言いたいことを詰め込むことができました。
私が聞きたい曲を自給自足のように作りました。
きっとこれが『どこにだってゆける』ということなのでしょうか。

今私の悩みも解決して、私は私の人生を諦めず、ゆっくりと歩いていきたいです
それがどんなに両親の期待に添わないものだとしても、
生きているだけで許してほしいです。
これが両親への願いの全てです。
…でも、この願いも相手に求めすぎている願いなのかもしれません。

『ひねくれた檸檬どこか私と似てる
 病弱で劣等生
 いびつな感性 飛び散った』

ここの解釈がいまだにはっきりと言葉にすることが来ません。
本当は『美しい滅び方』のnoteを書いたときからこの曲についてお話ししたかったのですが、なかなかできなかった理由の一つです。

檸檬の木ってわりとしっかり真っすぐに生える印象があるんです。
ボリュームはなくとも果実をしっかりと実らせ、その重さに耐えることができるぐらいしっかりした木の印象です。 

そのため、『ひねくれた檸檬』というのは、「昔の私の心臓を木の下に植えているから」なのかと解釈しました。
ひねくれて、『むくんだ目で大人をにらむ』ような私の心臓を栄養に育った木は、なんだか自分に似ていた、ということでしょうか。
なんとなく昔の自分を卑下しているような雰囲気です。


“私”を守るために戦って抗う

さいごの歌詞です。

『戦って戦って戦っていなくちゃ
 抗っているからこそ私だって言える
 水になって炎になって風になってみたいな
 粒子になった体はどこへだってゆける
 生み出して生み出して生み出していかなきゃ
 吐き出しているからこそ私だって言える
 鳥になって獣になって魚になってみたいな
 自由になった心はどこへだってゆける
 水になって炎になって風になって
 鳥になって獣になって魚になって』

後半になって曲が盛り上がるにつれてどんどん壮大さが増して自由へのあこがれが強く表現されているように感じました。

さいごに

カラオケで歌うととっても気持ちが良い曲です。
両手を広げて歌いたくなるような。

また、このMVはダンサーの方も注目すべきです。
ぜひ見て見てください。

ここまで読んでくださってありがとうございました。
いつも♡ありがとうございます。励みになります。

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