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短編小説: 名もなき母の生涯

                            岩間 清一

 

 岡田健一は廊下からもれている常夜灯の薄明りを頼りに腕時計を見ると、午前5時前だった。

  部屋の同僚4人は軽い寝息をたてている。

  そっと起きて音をたてないように布団をたたみ、中腰で着替えた。

  押入れに入れてあったバックを出して手に持ち、ドアノブに手をかけドアをそっと開けようとすると、

 「行くがか? 」

  崎山が布団に入ったまま半身を起こして、小さな声で声をかけてきた。

 「ああ」

 小声で答えた。

 「元気でな」

 「ああ」

 短い会話の後ドアをそっと開け外に出た。

  見下ろす遠くの街並みには灯りがまたたき、東の空がうっすらと明るくなっている。

  寮の前のバス停で始発のバスに乗ると、乗客は岡田一人だった。

 曲がりくねった山道を町へと下っていくバスに揺られながら岡田は考えた。

―― これでいいのかな…… いや、これでいいんだ ――

 後悔する気持ちを心の奥底に無理やり押し込んだ。

 希望を抱いて高知県の四万十川中流域の郷里を後にして、この地に来てから1か月を過ぎていた。

 しかし、郷里で抱いていた理想と現実は、まだ15歳の少年にとっては厳しいものだった。

 中学を卒業したばかりの15歳の岡田が働かなければならないのには理由があった。

岡田が8歳の時に父親が交通事故で亡くなった。

その日のことを岡田は鮮明に覚えている。

岡田は風邪を引いて学校を休んでいた。

その日は1月下旬で父の誕生日の次の日だった。

朝からどんよりと曇って、今にも雪が降りそうな肌寒い日だった。

 請け 負っていた大きな河川工事が無事に終了したといって、酒好きの父は朝から酒を飲んでいた。

オートバイに乗って義弟が訪ねてくると、少し話した後二人でどこかに出かけた。

 父が出かけてしばらくして、母と同じくらいの年齢の和服の女性が風呂敷包みを持って訪ねてきた。

母に風呂時期包みを解いて反物を広げ、買ってくれないかと頼んでいた。

 何気なく女性が話していることを聞いていると、その女性は旦那さんを亡くして二人の子供を育てているが、こうして反物を売って生活を支えている。しかし、なかなか売れなくて生活に困っている。

ということだった。

岡田は子供心にもかわいそうだな、買ってあげればいいのにと思っていた。

母もかわいそうに思ったのか、値段を聞くと

「ちょっと高いねえ… 」

とためらっていたが、相手が

「月賦でも大丈夫ですから、何とか買っていただけませんか。月々ですと、これだけにしかなりません」

と月に支払う金額を紙に書いて示した。

その時父親が義弟と帰ってきたが、父はまたどこかで飲んだのかずいぶん酔っぱらっていた。

母が父に今までの話をして、月々の支払だと大した金額ではないから反物を買って欲しいと頼むと、普段温厚な父がいきなり怒り出して、

「いらん、いらん。そんなものは買わん! お前は帰れ! 」

とその女性を怒り飛ばした。

女性はいきなり怒鳴りつけられびっくりして、あわてて反物を風呂敷に包むと、悲しそうな顔をして階段を下り隣の家に向かっていった。 

  岡田は普段温和な父が何であんなに怒ったんだろう?  怒られたあの人はかわいそうにと思った。

  女性が帰った後、義弟がポケットから封筒に入った写真を出して父に見せた。

 その写真には岡田の兄妹3人が写っていた。

父の義弟の村落で行われた村祭りに出かけたときに、義弟が撮った写真だった。

 父はその写真を手に取って見ながら、

 「いい写真じゃねぇ、いいね… この写真はいい」

としみじみとした声で言って、何度も眺めていた。

 普段そんなこと言うこともなく、子供の写真をしみじみ眺めるのを見たこともなかったので、どうしたのかと思っていると、義弟が父に声をかけてきた。

「義兄さん、そろそろ行こうか」

という声に促され、父は義弟の運転するオートバイの後ろに乗って出かけた。

 二人が出かけてしばらくして外に出ると、粉雪が舞っていた。

 ふと、前方に目を向けると、隣の家から先ほどの和服の女性が傘もささずに雪の舞い散る坂道を、とぼとぼと下って行くのが見えた。

 岡田は隣でも売れなかったんだろうな、かわいそうにと思って家の中に入った。

  家の中でラジオを聞いていると、誰かが階段を駆け上ってくる音が聞こえたと思った瞬間、息せき切って、

 「清が死んだ! 」

 と祖父が叫んだ声が聞こえた。

  びっくりして外に出ると、3歳の弟を負ぶった祖父が引きつった顔で外にいた祖母と母に、父がオートバイの後ろから崖の下に落ちて亡くなったことを話していた。

  間もなく、戸板に乗せられて変わり果てた父が運ばれてきた。

  オートバイの後ろに乗っていた父は酔っていたせいかカーブで義弟に掴(つか)まっていた手を放し、そのまま振り落とされ崖下に転落し頭を石に打ちつけて亡くなった。

即死状態だった。

父は直ぐに訪れる死を予感して、反物を月賦で買えば月々負担がかかることを防ごうとして怒り、岡田達子供の写真をしみじみ眺めていたのかも知れない。

  父が始めたばかりの建設会社は、突然の社長の死で後継者もいず会社をたたんだ。

  その後の生活費用は母一人の働きにかかっていた。

  義父、義母、幼い3人の子供の生活を母親一人に依存している状態で岡田が高校に進学することは無理なことだった。

 昭和30年代当時中学を卒業すると働きに出ることは大半の家庭では当たり前のことだった。

 生活の苦しい家庭であり岡田は高校入学を諦めていた。

 しかし、母は子供の教育に熱心で仕事を休んでも必ず子供たちの授業参観に来ていた。

 母の良枝は子どもを高校、できれば大学を卒業させたい気持だった。

 学校では卒業する生徒の就職先の斡旋(あっせん)をしていたが、母は学校から岡田に提示された就職先の斡旋を断り、自分で職業安定所に出向くと働きながら高校に通学できることを条件に会社を探した。

 その結果東京近郊の自動車部品製造会社が、夜学に通う従業員を初めて募集していることを知った。

 当時、岡田の地域から就職する者は大阪や名古屋周辺が大半で、首都圏に就職する者はいなかった。

 会社の総務係から派遣されていた田口という係長と面接した。

 田口係長は、岡田と母に、

「私たちは向学心のある若者は会社のためにも必要だと考えています。

 卒業するまで面倒見ますから安心して下さい」

と言った。

 この言葉で岡田は入社することを決心した。

  岡田は山奥から都会に出ることができることと、高校に通える希望に胸をふくらませ就職した。

 会社は昔の軍需施設の跡地を整備した広大な工業団地の一角にあった。

 寮は会社から送迎バスで約30分の小高い山の頂上付近だった。

 戦国時代の古戦場跡が目の前に広がり周囲には民家が数軒と養鶏場しかない寂しい場所だった。

  そんな場所に、場違いのコンクリート3階建ての建物が2棟建っており、1棟が家族寮、もう1棟が独身寮だった。

  寮に最初に連れられてきた時、岡田は都会にあこがれてきたのに、まだ自分の田舎の方がましだとがっかりした。

  夜学に通学する者5人が同室となった。

  岡田を含めて4人が高知県出身で一人が新潟県出身だった。

  同郷の者は、崎山、内田、尾中で新潟県出身者は市川と名乗った。

  同郷の崎山は頭がよく入学試験では200人中2番という成績だった。

 勉強家の崎山は一番が取れなかったと悔しがっていた。

  会社の仕事はバイクのハンドルグリップや車の窓枠にはめるゴム製品等を製造することだった。

  岡田が配属されたのは、ゴムを溶解して型枠に流し込んでプレスする作業の係だった。

  工場内は熱気が立ち込め、重い型枠を外して出来上がった製品を取り出す作業に、それまで大した力仕事をしたことのなかった岡田は、一日の仕事が終わるとくたくたになっていた。

  昼間働いて夜学校に行くということは、岡田が考えていた以上に心身に厳しいものだった。 

  入社して1か月後に給料が支払われた。

  岡田は給料袋を開けて愕然(がくぜん)とした。

 ―― これでは、こっちの生活に精一杯で仕送りなんかすることができない。どうしよう…… ――

  支払われた給料は、岡田が考えていた給料の額とはかけ離れて少なかった。

  田舎の母一人の働きで生活している皆の助けのためにと、遠く離れた場所に就職したのに、この給料では仕送りをすることができない。

  これなら、せっかく入学した高校だけど諦めて田舎に帰って働いたほうが家のためになるのではないか。

 考えれば考えるほど田舎に帰ろう、帰れば何らかの仕事はあるだろう。

 日雇いの仕事でもここで働いているよりは家の生活のためになるだろう。 と思った。

 入社して寮室も学校のクラスも一緒で仲良くなった崎山に、

「こればぁな給料じゃ仕送りできんけん、俺は田舎に帰るぞ」

と打ち明けた。

 崎山は、

「まだ、最初の給料じゃけん少ないんじゃろう。来月からはもっと多いと思うけん、来月の給料もらってから考えてもおそうはないろう。そんなに先走らんほうがいいけんね」

と岡田に忠告した。岡田は

「けんど、そんなに違いはなかろう」

と言うと、崎山は

「どうしてもって言うなら止めんけんど、会社の田口さんが辞めさせてくれるろうか?」

「多分ダメじゃって言うろうし、辞めんように説得されるろうけん、それが嫌ながよ。じゃけん黙って出ていくけん出ていくまで誰にも言わんちょいてくれんか」

「そうまで言うんなら分かったけん、好きにすればええがよ」

と言ってくれた。

 岡田が田舎に帰ろうと決心したのには、給料が少なくて仕送りができないことが大きな理由だが、仕事が思ったよりきつくて辛いことも田舎に帰る決心を後押しした。 

 バスで最寄りの私鉄駅に向かい、そこから国鉄の駅まで約30分かけて着き、大阪行きの普通列車に乗った。

昭和41年の東京~大阪までの普通運賃は1,730円だった。

約10時間かけて大阪に着いた。

岡田は弁当を買おうと売店の前のベンチにバックを置いて、弁当を買って戻ってくると置いたはずのバックがなくなっていた。

 1分も経っていないのに無くなっていることに驚いてホームを探したが、見つからない。

 都会ではいつ何が起こるか分からない。

 こんな殺伐(さつばつ)とした都会で働くことはやはり無理だ。

 田舎に帰ることにしてよかったと自分を慰めながら列車に乗り込んだ。

 列車に乗ってしばらくすると、車内に

「岡田健一さん、大阪駅の事務所まで連絡下さい」

と岡田に呼びかけるアナウンスが流れた。

 岡田は自分のことかな? なくした荷物が届いているのかな?

 田舎に帰る予定を書いたメモが入っていたので分かったのか。

 しかし、今さら引き返すことは出来ない。

 大した物も入っていないしこのまま帰ってしまおう。

と、駅員にも知らせることはしなかった。

 郷里の家に着いたのは翌日の昼過ぎだった。

 たった1か月ちょっとしか経っていないのに何年も離れていた気分で懐かしかった。

  玄関を入ると、中にいた妹の良子と弟の誠二が

 「兄ちゃん、どうしたがぞ」

 と驚いて尋ねてきた。

 「会社辞めて帰ってきたがよ。母ちゃんは?」

 と言うと良子が

 「仕事にいっちょるけん、帰ってくるがは夕方がよ」

 と答えた。岡田は

 「そうか、兄ちゃんは疲れちょるけん寝るけんね」

 と言って布団を敷いて横になった。

  昨夜は列車の中で一睡もできなかったことと、家に帰ってきた安心感で泥のように眠り込んだ。

  誰かが呼んでいる気がして目を開けると部屋には電気がついていて、懐かしい母が岡田をのぞき込んでいた。

  心配そうに岡田に向かって

 「健一どうしたがぞ」

 と尋ねた。岡田は

 「給料もらったけど、少ないけん仕送りもできん。じゃけん辞めて帰ってきたがよ。学校はもういいけんこっちで働く」

  岡田の母の良枝は健一を就職させた後、

 ――何もあんなに遠くに就職させなくても、もっと近くに就職先があったのではないか。近くなら時々帰ってくることもできたのに――

 と遠くの町に就職させたことを少し後悔していた。

  そこに予期せぬことに健一が帰ってきた。

  健一が 帰ってきてここで働いてくれれば、 経済的にも楽になるし父親代わりにもなる。妹や弟の面倒も見てくれる。

  帰ってきてくれればどれだけ助かるかと思ったが、ここでどんな仕事がある? 会社があるわけではないし、日雇いの仕事くらいしかない。

  健一の今後のことを考えれば、ここにいたのではためにはならない。

  一時の感情で健一の今後の人生を台無しにしてはいけない。

  心を鬼にして会社に連れ戻さねばいけないと思った。

  母は岡田に向かって

 「健一、それはいかんがぞ、せっかく高校にも入れたがじゃけん、何があっても卒業せんといけん。今辞めたら絶対後悔するのは間違いないけん。今まで母ちゃん一人で働いて、お前らぁを食べさせてきたけん。

健一が働いて仕送りしてくれりゃあそれは助かるけんど、それよりはお前が学校を出てくれることの方がうれしいがよ。

 母ちゃんらぁは、今まで通りの生活ができる、お前に仕送りしてもらわんち何ちゃ困ることはないけん。会社に帰れ」

と語りかけた。岡田は

「けんど、俺がこっちで働いて来年でもこっちの定時制高校受けりゃ同じことじゃろ。家から働きに行った方が母ちゃんらぁも助かるろう」

と反論した。母は

「田舎には仕事がないけん皆都会に働きに出てるがじゃろう、いっときのことで帰ってきても、結局都会に出ていくようになることは目に見えちょるがよ。悪いことは言わんけん会社に帰れ。家にはおかんけんね。

母ちゃんが一緒について行って会社に頼んでやるけん」

 母の理詰めの言葉に押し切られ、岡田はしぶしぶ会社に戻ることを承諾した。

 母は岡田に

「誰にも会わんように行くけん、明日の一番の汽車に乗らんといかん。

夕飯食べたら早よぅ寝よや」

と言った。

 母は岡田が寝床に入ると近所の親戚の家に行った。

 母の実の兄は林業の会社を経営していて羽振りが良かった。

 母は兄に

「兄さんすまんけんど1万円ばあ貸してくれんろうか。急に必要になったけん、金入ったら返すけん」

と頼むと兄は

「急にどうしたがぞ」

と怪訝そうに聞いた。母は

「悪いけんど、理由はきかんちょってや……」

 母の答えに何かあったと悟ったのか兄は

「そうか、何かあったがか。分かった、わけは聞かんけん。返すがぁはいつでもいいけんね。お前のとこが苦しいがわは分かっちょるけんね。

ところで、遠いところに働きに行った健一はどうしちょるがぞ? 」

 母は、健一のことを聞かれてドキッとしたが平静を装って

「元気に仕事に学校にいっちょるって手紙がきたがよ」

と答えた。兄は

「そうか、そりゃあ良かった。働きながら学校行くがは大変じゃろうけんど、いい人生経験になるけんね。それに卒業すればお前んとこも楽になるろう」

と言って母に1万円札を差し出した。母は

「何とか頑張って卒業してもらいたいがよ。兄さんお金すまんのう。貸してもらうけん。おおきに」

 母は兄の家から帰ってくる道すがら、

 夫が生きていれば。また、健一が帰ってくることを受け入れていれば、こんなみじめな思いはしないのに…… でも、こうすることが健一のためにはなる。

と流れる涙をそっとぬぐいながら、心に言い聞かせた。

 村の人たちに気づかれないように出かけるためには、始発の汽車に乗らなければならない。

 バスはまだ動いていない時間で、約8キロの道のりを歩いて汽車の駅まで行かなければならなかった。

 二人は翌朝早く起きて人目を避けて裏道を通って村の外に出た。

 街灯もなく月明りをたよりに未舗装の道を歩きながら、母が岡田に懐かしそうに話しかけた。

「こうやって、毎日町まで通ったね」

 岡田の家は父が建設会社を経営していた時は仕事も順調にあり、比較的裕福な家庭であった。

 しかし、父の突然の死で会社をたたむ際に負債の返済などで貯金も使い果たし、母一人の働きで祖父母、子供3人を養うという苦しい生活になった。

 当時は林業が盛んで林業で生活している人々の中には、あちこちの山の仕事を転々として山の中に設けた簡易の宿泊所に家族で生活している人たちがいた。

 父が亡くなってしばらくして、岡田の母は山で生活している人たちに食料品などを売る行商を始めた。

 行商に使う品物の仕入れのために毎朝、国鉄の駅まで歩いて行きそこから汽車に乗って、一時間ほどかかる港町の卸問屋まで買い出しに行っていた。

 岡田は母が行商を始めた小学生4年生の時から、行商を止めた中学2年生まで毎日母の買い出しについて行き、家に帰ってから学校に行く生活を送っていた。

 岡田は母と歩きながら、小学校時代のことでまだ母に話していなかったことを話し出した。

 「こんなことがあったがよ、あれは小学校2年のときじゃった」

  それは、岡田の父がなくなる一年前の小学校2年生のころ、母がどこで聞いてきたのか、それとも授業参観に来て見たのか分からないが、健一がある朝学校に行く支度をしていると側に来て

 「健一、お前の横の席の中留君は弁当持ってきちょらんがじゃろ」

 と聞いてきた。

  中留は着ているものも継ぎはぎだらけで、時には破れて穴のあいたズボンをはいて学校に来ていた。

  母親が亡くなって、中留と年も大して違わないお姉さんが母親代わりだということは子供ながらに聞いて知っていた。

  昼食の時間になると教室を出て行って、校庭のブランコに乗ったりしていたので弁当を持ってきていないことは分かっていた。

  岡田が小学生の頃は山の仕事を転々として生活している家庭の中には、生活が苦しくて昼食の弁当をもってくることのできない子供もいた。

 「うん。持ってきちょらん」

 と岡田が答えると、母は

 「明日から、母ちゃんが弁当2つ作るけん、お前、一つは中留君に渡してやれや」

 岡田は、中留が弁当を持ってきていないことについて、かわいそうにと思っていたので、母が言ってくれたことに感謝した。

 しかし、どうやって中留に渡そうかと考えた。

  翌日、岡田は弁当を2つ持って行った。

  しかし、いらないと断られたらどうしよう… でも、渡さないで持って帰ったら母に怒られる…

 と、考えれば考えるほどどんどん不安感が高まった。

 よし、黙って中留の机の中に入れておけば食べるだろうと、自分の都合の良い解釈をした。

 1時間目が終わった休み時間に中留が席を外した。

 意を決すると中留の机の中に弁当を押し込んだ。

 休み時間が終わって授業が始まった。

 しばらくすると中留が突然

「先生! 僕の机の中に誰かの弁当が入っちょる? 」

と言って、さっき岡田が入れた弁当を取り出して先生に差し出した。

 先生も中留が弁当を持ってきていないことを分かっていたので怪訝そうな顔をして、岡田から受け取った弁当を持ったまま、

「中留の机の中に弁当を入れたがは誰ぞ」

と、生徒の顔を見回しながら言った。

 他の誰も身に覚えがないので隣同士で顔をみあわせている。

 岡田は心の中で、黙って食べればいいのに、参ったな… とじっと下を向いていた。

 下を向いている時間が長く感じた。

しかしこのまま黙っていてはいけない、名乗りでなきゃいけないと決心して、うつ向いたままそっと手を上げて

「僕です。母ちゃんが中留君に持って行ってやれっていうけん… 」

 先生は、それを聞いて全て納得したようで、

「そうか。それじゃあ、中留ありがたくもろうたらええがよ」

と言ってくれた。

 その後、岡田は毎日自分の弁当と中留の分の2つの弁当を持って行った。

 岡田の父親が亡くなって苦しい生活の中でも母は毎日二人分の弁当を作って、中留の父親の山仕事場所が変わって中留が転校するまで続け
た。

岡田の話を聞いた母は

「そうか、そうじやったがか… 健一が何にもいわんけん、母ちゃんはてっきり最初から中留君が快く弁当を受け取ったものとばっかり思うちょつたがよ」

微笑みながら言った。

  約8キロの道を歩いて駅に着くと始発の汽車はホームに入っていた。

  列車を乗り継ぎ大阪駅に着くころには夕方になっていた。

 無くした荷物を取りに駅の事務所に行くと、駅員が

 「親切な人がベンチにバックがあったので忘れ物として届けてくれたのですよ。名前も住所も言わずに立ち去ったのでお礼は必要ありません」

 と言って、バックを渡してくれた。

  岡田はてっきり盗まれたものだと諦めていたのに親切な人がいたことに心の中で感謝した。

  大阪駅から夜行列車に乗り眠れない一夜を過ごし、朝方、会社の私鉄最寄り駅についた。

  会社に着いて総務係に行くと、田口係長が

 「岡田君、黙っていなくなったから心配していたんだよ。崎山君からあらまし聞いたけど、給料はこれから上がっていくからそんなに心配することはない。お母さん大丈夫です。こちらで面倒見ますから」

 と暖かい言葉をかけてくれた。

 これを聞いた母は

 「誠に申し訳ありません。黙って逃げ帰るという恥ずかしいことをしながら、もう一度雇っていただきたいと勝手なお願いをして… 」

 と恐縮しながら頭を下げた。

  岡田は自分の一時の感情から浅はかなことをしてしまった。

  金に困っている母親を助けようとしてしたことが、逆に散財させ仕事を休ませてこんなに遠くまで引っ張り出すことになってしまった。

  恐縮しながら田口係長に謝っている母の後ろ姿に、本当に申し訳ないことをしたと後悔した。 

  今後は絶対母に心配をかけるようなことはしないと固く決心した。

  岡田の母は、岡田が小学校の時に弁当を持ってきていない同級生のために岡田に二人分の弁当を持たせた。

 また、本当は、岡田が田舎に帰ってきたことに安どしていた自分の気持ちを押し殺して、岡田の今後のためにと恥を忍んで借金してでも遠方の岡田の勤めている会社に出かけて、仕事に復帰できるよう掛け合ってくれた。

 岡田の母は、家の生活が困窮していても、他人が困っていると手助けをするなど人情味があふれており、自分の気持ちを押し殺してでも子供の将来をよく考えてくれる人だった。
 
 岡田は路傍の石のように名もない母ではあるけれども、母の生きざまを誇らしく思った。


  ―― あれから50年以上が過ぎた――

  岡田はその会社に勤めながら夜間高校、大学を卒業して会社の製造部長まで勤め上げた。

 岡田の母はその後田舎で起業された土木会社に入り土木作業員、観光地の旅館の仲居や、山陰に住んでいる弟が創めたラーメン店で働くなど職を色々変えながら一人暮らしをしていた。

 子供たち3人は、働きだして少し生活に余裕ができてからは、分担して毎月、母親が田舎で一人暮らしできるであろう金額を送金していた。

しかし、母は仕事を辞めることはしなかった。

 一人で家にいるより働いている方が、他人と関わることができて気晴らしにもなったのであろう。

  岡田が結婚して自宅を新築する際には母の部屋を造って、仕事を辞めさせ母を呼び寄せたが、1か月ほどで一人住まいの方が気楽だからと田舎に帰ってしまった。


  岡田の妹や弟も岡田の勧めで岡田の近くに就職して、それぞれ家庭を持っていて孫やひ孫もいるが、年寄には昔ながらの兄妹、親戚や近所の人たちとの交わりができる田舎の方が住みやすいようだった。

 母は、職を変えても厚生年金のあるところに勤め、国民年金も支払っていた。

そのため、田舎で一人暮らしするには十分な生活を送ることができる支給額であった。

  また、岡田達子供も毎月送金していたことから働くことを辞め、家の前の畑を耕して収穫した野菜などを、子ども達3人の家庭に送ることを楽しみにして、気楽な生活を送っていた。

  しかし、年月が経って寄る年波には勝てず、足腰も弱っているのでケガや病気が心配なことから、子供3人が入所費用を負担して老人ホームに入所させた。

  岡田は母が施設になじむか心配していたが、母は今まで全て一人で家事をこなしていたが、ホームに入ると介護士さんが全てやってくれるので、快適な生活を過ごしていると喜んでいた。

 やはり、一人暮らしが気楽だとは言ってはいたが、毎日一人で家事をこなすことに負担がかかっていたのであろう。

  施設に入って数年が経つと年齢のせいか、段々認知症が進んできた。

 1年に数回、岡田達子供3人のうち誰かが田舎に帰省すると、施設に会いに行き外泊許可をもらって、家に連れて帰ってきていた。

母は、何冊もあるアルバムのうち自分の気に入っているであろう数冊のアルバムを、何も言わずに何度も何度も繰り返し見ていた。

 また、小さい時は可愛がっていた岡田の孫を見分けることができなくなっているのか、

「玄関を出入りしちょる人は誰じゃろう? 」

と、不思議そうに岡田に聞くので、岡田は

「孫の和利だよ」

と答えると、その時は

「そうか、和利か」

 と分かったようだが、直ぐに忘れて何度も尋ねることが多くなった。

岡田の妻も誰なのかなかなか思い出せないようになってきた、

ある日、施設から

「母の左足先の傷口から細菌が入り、足先が真っ黒になって腐敗している状態なので施設に来て欲しい」

と連絡が入り岡田は妻と二人で直ぐに帰省した。

 施設に行くと母の左足がひざ下からむくんだようにはれあがり、足先は真っ黒で腐敗しているようだった。

 岡田は施設の職員と一緒に、市内の大きな病院に母を連れて診察に行ったところ、医師の診断では、

「このままでは左足を腿から切断しなければならなくなる。また、このままにしておくと細菌によって命を落とす可能性もある。今なら、膝から下を切断することで大丈夫です」

 と言われたことから、高齢で足を切断することは忍びなかったが、命には代えられないと手術を承諾した。

 母は退院すると要介護4の等級になり、特別養護老人ホームに入所した。

 足を切断しても、母は明るく

「あら。足がないねえ、どうしたがじゃろう? 」

と他人事のように笑っていた。

 生命の危険があるとはいっても、高齢の母の片足を切断するということに同意した岡田は後ろめたい気持ちであったが、母のいわばあっけらかんとした態度が後ろめたさを少し和らげていた。

 特別養護老人ホームに入所して2年が経とうとしていた夏のある日、施設から岡田に電話が来た。

―― 母の容態が悪くなったので施設に来てほしい ――

という内容だった。

 2か月前に、3人兄妹が夫婦そろって誕生祝に行った際には元気だったので驚いて帰った。

 岡田は、直ぐに帰省して施設に行き職員の方に母の様子を尋ねると

―― 母は施設の職員が水分を取らすためコップを口元に持って行っても受け付けず、食事も手で払って食べない状態が続いている。点滴で栄養を取らせようとしても点滴を抜いてしまって困っているとのことだった ――

 昔から温厚でいつも笑顔で、人を怒ったことなど見たこともなかった母の変わりように驚いた。
 
 認知が進んで感情抑制ができなくなったのであろう。

 60年近くも一人で生活を支えるために自分の我を出さず、我慢に我慢を重ねて感情を抑制していたのがタガが外れたのかもしれない。

 しかし、母を介護をしている職員の方々には大変な迷惑をかけていることになり、岡田は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

 母との面会は窓際でしかできず、声もあまり聞こえないので、紙に〖健一だけど水分を取って食べ物も食べなきゃだめだ。職員の方に迷惑をかけてはだめだ〗と書いて見せたところ、かすかに笑ってうなずいた。

 それを見ていた介護士さんから

「その紙を下さい。食べない時は『息子さんがこう言っていますよ』と見せますから」

と言われ書いた紙を渡した。

 5日ほどいたが、変化がないことから一旦家に帰って何かあればまた帰省することにしてそのことを施設の職員の方にも伝えた。

 自家用車で来ていたので、次の日の早朝立つことにして、夕方岡田は早い夕食を摂りながら酒を飲んでいた。

 すると、午後6時ころ施設の看護師さんから「看取り」の状態になったので了承して下さいと電話が来た。

 さっき会った時はそんな状態ではなかったのにと驚いた。

 岡田は酒を飲んでいるので運転できないから妻に運転を頼むと、この狭い道はこわくて運転できないと渋っていた。

 岡田はもしも、遠く離れた町の病院に入院しなければならなくなれば、妻はますます運転を嫌がるだろうと思って、近所に住んでいる親戚に連絡したところ、現在、診療所の近くの店にいるとのことだった。

 事情を話して、転院する場合は転院先まで運転をお願いしたら、快く引き受けてくれた。

 診療所で落ち合うことで、診療所まで運転することを渋々承諾した妻の運転で、母のいる施設の近くの診療所に向かった。

 診療所に着くと、親戚の方が車の中で待っていてくれたので一緒に診療所の中に入った。

 診察室の前の廊下には、母がストレッチャーに乗せられて施設の介護士さんと一緒にいた。

 岡田が近づくと、うつろな顔で上を向いていた。

「大丈夫か」

と聞くと力なくうなずいた。

もっと顔を近づけて

「俺だよ、健一だよ」

と言うと、はっきりした声で

「赤いね」

とうつろな顔の頬をゆるめ優しい声で 言った。

岡田が酒を飲んで顔が赤かったのが分かったのであろう。

その後母が亡くなるまで言葉を発したことは一度もなかった。

医師から呼ばれて診察室に入ると、医師は岡田に母のCT画像を見せて

「子宮内が、がん細胞でいっぱいになって膨らんでいる。手術をしたとしても1か月もつかどうか分からない。ここでは手術は出来ないので、もし手術するなら町の病院に連絡するのでこれから、連れて行ってください」

と言われた。

 97歳になって手術をしたとしても、1か月持つかどうかという医師の言葉に手術をすることは忍びなく、延命治療はしないで「看取り」をお願いした。

医師からは、

「それでは今後点滴も一切行いませんので了承して下さい」

と念を押された。

 施設に帰ると看取り部屋が用意されていて、看取り部屋に入ることができるのは2人だけなので岡田と妹の良子にした。

 翌日、岡田からの連絡を聞いた妹夫婦と弟夫婦が急きょ来てくれた。

 看取り部屋に入ってからも、母は全く水分も食べ物も口にすることはなかった。

 こちらの問いかけにもだんだん目を開くことがなくなってきたが、耳は聞こえているようで、こちらの声掛けにかすかに口を開いて答える様子がうかがえた。

 点滴もせず水分もとらなくなって10日間も経った。

 人間がこんなに水分も何の栄養も摂らなくて生らえていることが不思議だった。

 思えば、母は岡田たち子供が田舎を離れてから、こんなに長い時間子供たちと一緒に過ごすことができたのは初めてだった。

 岡田の母は子どもたちと過ごせる時間をいつまでも大切にしたくて、必死になっているのかも知れない。 

 しかし、岡田は母が頑張りすぎて生きている姿が見るに忍びなくなった。

 長生きはしてもらいたいが、必死になって生きている姿があまりにも辛くて耐えられなかった。

 岡田は母の耳元で

「母ちゃん、今まで頑張って俺たちを育ててくれて感謝しているよ。もういい。頑張らなくてもういい。俺たち子供はもう母ちゃんが面倒見てくれなくても大丈夫だから、もう、父ちゃんのとこに行ってよ。もう楽になってよ… 」

と語りかけた。

 すると、見えないはずなのに上を向いていた顔を、岡田が語りかけている方に向けて頬にかすかな笑みを浮かべると、すーと息を吸い込んだ。

 その状況を見ていた看護師さんがあわてて部屋を出て行った。

すぐに医師と一緒に帰ってきて、医師が母を診察し、

「ご臨終です…」

と告げられた。


母の告別式の日は、母がこの世との別れを悲しむかのように大雨だった。

その雨も火葬場を出る頃には上がっていたが、空にはどんよりとした雲が立ち込めていた。

岡田が母の遺骨を、その後ろを岡田の妻が遺影を抱えて葬祭場のバスに向かっているときだった。


岡田の妻がいきなり、

「お母さんが泣いている! 」


と叫んだ。


驚いて振り向いた岡田が遺影を見ると、木の枝から落ちてきた雨の滴が母の遺影の左目の下に当たって涙のように流れていた。

それを見た岡田の妹は、目に涙を溜めて

「お母さんは、悲しくて泣いているんじゃない… 私たち子供たちと最後に一緒に居れたことが嬉しくて泣いている…」

と言った。

 母が亡くなって家で遺品の整理をしていると、母がいつ書いたのか分からないが、村の社会福祉協議会機関誌に投稿したと思われる文書が見つかった。

それは「私の人生」という題名であった。

「『わたしの人生』

                   岩    ○      岡田 良枝

  私は、大正○○年四月○日に、男五人、女三人の八人兄妹の三女として生まれました。

 生まれたのは○○○○○○で、小学校三年までは〇〇で学びましたが、四年の時に○○○に移転し、○○○尋常(じんじょう)高等小学校に高等二年まで学びました。

姉は苦労したといいますが、私は貧乏でしたが幸せだったとおもいます。

子供のころ、私はとても多くのことに不調法で、雪の日に学校に行く時などなぜかよく滑って思うように歩けなかったのを思い出します。

卒業と同時に〇〇郡(ぐん)是(ぜ)製糸に就職・戦争の真っ最中、産業戦士の一員としてお国に御奉公のつもりで堅い決意をし、「欲しがりません勝つまでは」のスローガンのもと、毎日を一生懸命で与えられた仕事に邁進(まいしん)しました。

昭和二十年の終戦の日まで、ただひたすらにお国のためとばかり、また、八月十五日の昭和天皇のお言葉を聞くその日まで勝つものとばかり信じていました。

終戦になり、第一線で指揮をとられた軍人は、戦争犯罪人となり現地で死刑になり、あのみじめさは言葉になりませんでした。

 残されたご遺族のことを考える時、やりきれない気持ちでした。

終戦となり、張りつめた気持ちもゆるみ、 今までやってきたことはなんであったのかと思うようになり、会社を退職しました。

昭和〇〇年に〇〇にこの家に嫁いできました。

しかし、結婚式が終わるまで私の夫が誰か分かりませんでした。

結婚式が終わって、一人だけ男の人が玄関の引き戸を開けてたり閉めたりしているので、あの人が私の夫だと思いました。

随分前、高等小学校に行く頃、〇の忠(ちゅう)霊塔(れいとう)の下で慰霊祭があった時、〇〇〇から〇まで歩いていくのですが、岩〇を通る時に「なんて日当たりのいい家なんだろう、あんな所で暮らしてみたいな」と思いながら通ったものです。

 今思えば、それがこの家でした。不思議な縁を感じます。

  この家には子供が生まれなくて、舅(しゅうと)の甥(おい)を四歳から育てたそうです。そこに私が来たのです。

 結婚してから四年は子供ができませんでした。

 そのころ私はトイレでこけて落ちてしまいました。

 昔はトイレでこけたら名前を変えないといけないと言われており、隣の親戚の人が「よし、子供ができる名前をつけちゃる」といって「ヨシエ」という名前をつけてくれました。

 不思議なことにそのあとすぐに長男が生まれました。

この家に初めて男の子が生まれたと両親の喜びは普通ではなかったです。

子供の着る物は舅(しゅうと)が買ってきてくれましたし、姑(しゅうとめ)も自分のお乳を吸わせて可愛がってくれました。

昭和〇〇年に長女が生まれ、〇〇年に次男が生まれ、長女の入学を楽しみにしていた矢先の出来事でした。

昭和〇〇年〇月○○日午後四時ごろ、オートバイの事故で夫が亡くなりました。

 まさか即死とは思ってもみませんでした。悲しみのどん底でした。

 今考えてみれば四歳の時から育ててくださった両親は、先立つ子供をどんな気持ちで送ったであろうかと思います。

夫が亡くなった時、世の中が変わったと思いました。(それは多分自分自身が変わったからだと思うのですが)でもそんな時、庭の梅の木がいつもと変わらず、美しい花を咲かせているのに気づきました。

それを見て私もこのままではいけない、しっかりしなければとがんばる気持ちになれたのです。

まだ上の子が小学校三年生、一番下の子はわずか三歳でした。でも、子どもたちが笑って遊んでいる姿もまた、私を支えてくれました。

幸い子供たちの嫁も婿も良い人達で、私の面倒をよく見てくれますので、今は気楽に暮らしおります。

踊りや体操、ゲートボール、旅行などいろんな行事に参加するのも楽しみです。

ここで気楽に暮らせるのも〇〇〇の福祉のあり方のおかげです。

社協の中で働いて下さる方々の献身的な態度や言葉でやる気を起こさせて下さいます。

これからも出来ることがあればやらせていただきます。教えてください」

                         
 岡田の母は、社会福祉協議会の活動に恩義を感じて自分にできることがあれば教えて下さいとこの文章に記していた。

 しかし、人生の最後は社会福祉法人特別養護老人ホームで職員の方々の献身的な介護を受けて、一人暮らしでは味わうことができなかったであろう快適な生活を送った。
 
 また、幾つになっても心配していた3人の子供たちとその伴侶全員に看取られ、路傍の石のように名もなき母は97歳の生涯を終えた…… 






 

 

 

 

 

 

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