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情報の整理方法としての「カード法」―梅棹忠夫『知的生産の技術』より―

以前、梅棹忠夫の本を紹介したが、最近新たに『知的生産の技術』を読んだ。

おそらく梅棹忠夫の本の中では『文明の生態史観』と並ぶ代表作だろう。梅棹がどのように情報収集、蓄積し、それを論文やエッセイの形にまとめているかを記した本だ。すでに60年くらい前の本なので、アナログベースではあるが、現代でも参考になるところが多い。その中でも梅棹自身が重要視していたのは、情報カードというB6サイズのカードに日々の気づきを記していたことだろう。使い方はざっと以下の通りだ。
※読み取った中からざっとまとめたに過ぎない。実際のやり方は同書を読んで確認していただきたい。


1.カードは1テーマ1枚。発見が新鮮なうちに書く

カードには日付と見出しをつけ、そこに発見したことをまとめていくのである。梅棹いわく、これは「発見の手帳」だそうだ。街中で何か発見や気づきがあったとき、カードを取り出して記録していたらしい。

「発見」は、できることなら即刻その場で文章にしてしまう。もし、出来ない場合には、その文章の「見だし」だけでも、その場でかく。あとで時間をみつけて、その内容を肉づけして、文章を完成する。見だしだけかいて、何日もおいておくと、「発見」は色あせて、しおれてしまうものである。「発見」には、いつでも多少とも感動がともなっているものだ。その感動がさめやらぬうちに、文章にしてしまわなければ、永久にかけなくなってしまうのである。

梅棹忠夫『知的生産の技術』P.32

現代で言えば、アプリを入れておいて、何か気づいたときにスマホのアプリに記録するなんてことに近いだろう。いずれにしても、「すぐにかける(記録できる)こと」が絶対条件なのだ。写真やメモでもその時の感動を思い出せるかもしれない。だが、写真もメモも断片に過ぎない。その時の発見や気づきを仔細に残しておくことはできない。だから、梅棹は発見をすぐに記録できるよう、カードを持ち歩き、各所で記録をとったのだろうと思われる。

また、カードを1テーマにつき1枚にしたのは後述するが、情報整理の際に役に立つという。カードを広げ、そこから関連するものをまとめていくのだ。こういう作業はアナログの方が優位性が高い。
注)アナログ、デジタルともども、発見したことを書きながらの衝突事故にはくれぐれもご注意を。

2.文章で記す

将来見返した時に、当時の発見の要諦をきちっと理解することが目的である。カードに書いた内容がすぐに生きるとは限らない。その内容が生きる局面になったときに、きちっと理解できる状態にしておかなければならないというのである。確かに、付箋等にメモ書きをすることもあるが、ほぼ確実に1年後その時の考えを振り返られないだろうと思われる。きちっとした文章を書くには時間を要するが、その方が振り返る必要があったときに、当時の思考を遡りやすい。

情報カードやノートといったアナログなものに記録を残しておくならば、少なくとも将来の自分に「過去の自分はなんて雑なことをしていたのだ」と言われないようにしなければならない。そして、文章で書いていれば、他人と情報共有するときにも役に立つのである。

3.カードに書いた内容は忘れてよい

これはメモ書きと同じ発想だ。メモしていればそれを見ればよい。なので、覚えておく必要がない。もっとも、たいていの場合記録に残しておかなければ、覚えておこうと思っていても、忘れてしまうのがオチだろう。書いておけば、将来その発見を忘れてしまう、そんなリスクを回避できる。大学等の研究室で使われる研究ノートなんかもその発想に近い。

また、梅棹いわくカードは時間を物質化させるものだともいう。

 カードは一種のノートであるが、さらに、ノート以上のものでもある。ノートでは、せっかく記録したものが、そのままうずもれてしまって、随時とりだすのがむつかしい。カードは、適当な分類さえしておけば、何年もまえの知識や着想でも、現在のものとして、いつでもたちどころにとりだせる。カード法は、歴史を現在化する技術であり、時間を物質化する方法である。

梅棹忠夫『知的生産の技術』P.67

ここで言う「時間」とは発見や気づきのあった”時”を指すのだろうと思われる。ひらめきを記録しておくことによって、「すぐに活用する」以外に「機が熟したころに活用する」なんてことも可能になる。今の気づきが今役に立つとは限らない。将来役に立つこともある。そこまで覚えていられるとは限らない。多分忘れ去ってしまう。そのためのカードなのだ。忘れ去った発見を掘り起こすのだ。だから、箇条書きのメモではいけないのである。

そして、カードに書いてしまえば、忘れたとしても、いつかカードを整理する中でそのカードと出会ったとき、「でかした。○○年の自分」ということになる日が来るかもしれない。

4.将来のアウトプット時に”カード”であることが生きる

これまでに記載したことであれば、ノートでも十分だ。だが、梅棹の言うカード法のメリットは、ノートのように文章の形でまとめておいたものを、KJ法の要領でまとめることによって、1つの論文・エッセイのフレームを構築できる点にある。書こうと思っている内容にマッチするカードを取り出し、それらを机に広げ、情報を整理していく。まさにノートでの記録とKJ法による情報整理のコンビネーションである。


読書会メンバーが以前読書ノートをつけているという話をしており、その流れで、一部の本ではそれをOneNoteにつけていたが、同じ要領で日々の気づきを蓄積してみるとまた変わるかもしれない。OneNoteであれば、スマホですぐに記録をとれる。そして、その情報は簡単にPCと同期できるので、整理も容易だ。なにより、蓄積した情報を保管するスペースがクラウド上にあるので、物理的なスペースを食わない。

だが、デジタルにはデメリットも伴う。カードを広げて情報を整理していく過程では明らかに不便だ。画面が狭すぎる。場合によっては32インチの4Kモニターでも狭すぎるだろう。情報整理の過程においては、物理的なスペースがある方が便利な時もある。なんとも悩ましい。

読了後、デジタルベースでの記録の取り方は本に書かれていたことも加味するようにしているが、もしかするといずれデジアナ変換するかもしれない。すべては試してみてからのお楽しみ。デジタルがいくら便利であっても、アナログに勝てないこともある。まずは試してみる。そして、方法を改善し、自分なりの「知的生産の技術」を身につけていく。この発想、案外ビジネス以外の様々な分野に応用できるかも?なんて思ったりしている。

繰り返すようであるが、すべては実験とその修正だ。「決定版」はなく、そして、個々人の特性によって最善策も異なる。カードによる情報整理も、情報カードという道具を使いこなすことが前提となる。梅棹自身も以下のように述べている。

道具はしょせん道具である。道具はつかうものであって、道具につかわれてはつまらない。道具をつかいこなすためには、その道具の構造や性能をよくわきまえて、ちょうど適合する場面でそれをつかわなければならない。どんな場面にでもつかえる万能の道具というものはない。また、道具というものは、つかいかたに習熟しなければ効果がない。道具の形をみただけで、ばかにすることもないのである。おそろしく簡素な形の道具でも、つかいなれればまことに役に立つ。

梅棹忠夫『知的生産の技術』P.69

万人に最適の方法などない、少なくとも現在は。なので、良いと思ったことは、まず試してみよう。試さなければ何も始まらないし、道具の良し悪しもわからない。これはすべてに共通する。それで少しは学んだ知識が整理できるかもしれないし、文章もうまく書けるなるようなる(いや、そう感じるだけかも)しれないのだ。

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