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ガンになりたくなければコンビニ食をやめろ!/坐忘を極めて自分を敵視する人をも救えるように思えるようになろう

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■前回までのお話

続きものになっているので前の話から読んでいただくとより楽しめます。

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仏教には「坐忘」という五体から力を抜き去り、全ての感情を消失させて、肉体も精神も虚となった状態を指す言葉がある。

坐忘で言う感情とは、①欲、②期待、③疑い、④法則の四つであり、それぞれの感情を細分化すると以下のようになる

欲とは性欲、食欲、睡眠欲に加えて家、財産といった金欲という意味。

期待とは誰かが助けてくれるだろう、誰かが問題を解決してくれるだろうといった甘えの気持ち。

疑いとは「本当に悪いのは他の誰か」など、他人に押しつける気持ちのこと。

法則とは、例えばお金が足りない時にも他人や銀行から借金しないなど、既存のルールから逸脱すること。


2

そもそもこの世界はビッグバン以前は1つだった。138億年前にビッグバンが発生して全てのものが1つから複数に分裂して複雑化し、素粒子が生まれ、素粒子から電子や原子が生まれ、そして星となり、星雲となり、地球が誕生して人間が生まれて我々となった。

ビッグバンは誰かの「意志」で発生した。その誰かこそが創造主だ。

この創造主はビッグバン以前に存在した「何か」そのものであり、何かから分裂した我々は本来は創造主である「神」そのもの、あるいはその一部なのだ。

我々に我欲などが存在する場合、創造主(神)の一部の、あまだが、前述した4つの感情を完全に捨て去り、「坐忘の境地」に立った時、我々は神と一体化=神となる。


3

4つの感情を完璧に消滅させるのが坐忘の世界であり、それに成功すれば創造主である「神」と一体になることが可能だ。

究極の瞑想とは自分の存在すら理解不能となる状態であり、これが釈迦が唱えた「入滅」(迷いを捨てて悟りの境地に入る状態)を意味する。その際、本当に自分が生きているのか、死んでいるのか判別できなければ世界そのものが消失して二度と現世に戻る機会を失う。

大仏様や菩薩様が半分目を開いている理由は、世の中の嫌なものや汚いものを、やむを得ず認めているからだ。自分が美しくなった結果、他の人をも美しくするというのが本来の「心」なのだが、瞑想を行うだけでは自分だけが悟る形になる。

やはり坐忘を行い、自分を清めると共に、自分に対して恨みや嫉妬や怒りの感情を抱いている人たちを幸せにしたいと考え、その結果、潜在意識の願いは叶うことになる。これは表層的なものではない。

吉野さんは毎朝自宅のベランダで瞑想の後に坐忘を行っている。これをしている時、彼は全知全能の神と一体化しているのだ。その際に坐忘を行わなければ恨みや妬みの感情を持った単なる「神の一部」になってしまう。

神と一体化するというのは願い事を叶えるという意味ではなく、仏教で言う十戒の頂点、菩薩界の上の仏界に到達し、再び人間界に降りるという意味だ。

吉野さんは常に神と一緒になって人々と相見(あいまみ)えたいと考えていると言う。

(終)

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