見出し画像

修行するな。好きなことしろ。

修行みたいだから。

大学に入ってからというのも、していることが修行みたいなだなと言われる。自分では、そのような意識があったわけではないが、どうやらそのように見えていたらしい。影響されやすいというか、紹介されたものやお勧めされたものを存外吸収してしまいやすいらしい。

別に何もかもを真剣になせるわけではない。嫌だと感じるものからは全力で逃げるし、自分には向いていないと察知したものは辞めること”も”ある。

そういった意外のことで、何かしらのなす方法が、「修行」のようになってしまうというか、まるで修行みたいなだなと言われた。そんなことを言われたって、しょうがないですよね・・・と思っても、まぁ実際修行のようなものだろうから、特に反論するつもりはない。

好きな事をしてみたら?と言われる。有り体に申し上げれば、その言葉こそがまさにワタシの身体をぐるぐると縛り付けるのだ。他人が「好きな事」というものを自分に勧めたりする時以上に、思考が停止する時はなかなかにないのが不思議だ。その時にはきっと、「好きな事をしなければならない」という、これまた修行のような感じになってしまう。

思うに、「好きな事をしよう」とか「好きなことをする」という人間は、「好きな事」というものを意識してはいないのだろう。努力だと意識した瞬間に、それが努力でなくなるように、そうでると思った瞬間に、そうではなくなる気がしてならないのだ。

なら少なくとも、文章を紡ぐということに関しては、努力だとも、しなければならないことだとも思ってはいないから、続けることができるのかもしれない。このnoteに書く事。しかしこれが習慣かと言われれば、それとも違う。もちろんしなければいけないということでも、したくないことでも、全力で優先することでも、怠いことでもない。それを、何かしらの枠に当てはめよとは何故か思わない。めんどいし。(あ、理由あったわ。めんどいからだ。)

ただなんとなく、なんかしていること。こういった方が良いというか、いや「言う」という動詞の対象としての明確な対象語(目的語)的なものとは思えないから、「SVOO」(第五文型)の、一つ目の「O(bejct)」かと言われればそうではないような気がするだけなのだ。

何かする時には、その「何か」というものをある程度形容してから、その行動に移るのだと思う。でもそれだけが全てではないし、それを押し付けられるのも変な気がする。行動の対象は常に、それ自身として確立しているわけではない。行動を表す動詞や、主語や、副詞節とかの影響を受けて成り立っているいたりするものだと想う。

まぁつまりは、何もかもを言語化することに疑問があるというとだろう。

(この文章を紡ぎ出していはいるけれども、文章というシステムに操られて、この文章自身が考えているような気がしている。最初の題から逸れている気がする。)

修行みたいだとか。好きなことだとか。物事を形容するということは、それ以外の形容詞を排除するということだ。(まぁそうすることによって、人間はものごとを理解し始めるのだけれどね。)

何かする。しかし依然それは、「何かをする」ということであって、それ以上のことではない。でもそれがどうして、修行みたいだなと言われるのかについては、全き謎である・・・。

好きな事をする。鞄を持っているわけでもないのに、なぜか不自由な気がするのだ。ただ、鞄だけは持ちたくないけれど。




今日も大学生は惟っている



🔵メインブログ🔵

サポートするお金があるのなら、本当に必要としている人に贈ってくだせぇ。