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がなる木風(がなるって語感かっけェ)


時は

午後四時ほど。

障子に目を遣ると

そこには、日の光を遮る蔭が、映し出されている。


例えば、ノートパソコンやモニターや、スマートフォンに表示できる「動く壁紙」。

でもそれらは、極めて作為的なもの。

動くように設定されたそれらは、目新しさを私に味わわせてくれるものの

一定のパターンで動くプログラム以上の存在ではないと気づかされると

どうにも興ざめの一途をたどるしかなくなるわけで。


しかしながら

そのスマートフォンの縦横の比率に似た障子には

胎動のごとき生を、間接的だが感じ取ることができる。


木々は、それ自身であちこちに動くような動物的な存在ではない。

でもどうだろう。

風という空気の流れが、

熱のまばらなことによる空気の移動が

木々を躍らせている。


いつもは、ただのバックグラウンドにある背景。

それはスマートフォンの背景画像そのもの。


だがしかし

ジッと見つめると、木々や風は生きているじゃないか。そこにはなんら雑念が無い。


朝はどうしよう

シャワーでも浴びよう

寂しいな

そのような瑣末でどうでもよいようなことなど、彼らは触ることさえない。


彼らはただ生きている。

その生がどれほど長く、どれほど短いようなものであろうとも

関係はない。


木々や風は、生きている。

それは存在しているというわけじゃない。


障子に木々が踊っているのを見て、私はその自然の「存在」とやらの本質存在を仮設しようとも考え及ばなかった。

時代や背景が異なるは承知の上。

だが

物事の本質存在というものを見きわめようとした、西洋哲学者たちを理解することは、

身体の底から納得することはできないのだと識る。


木が凪いでいるのを見て



現象世界の先にあるイデア界だのなんだの、エネルゲイアだの、神だの、理性だの

そんなことにたどり着くことを、どうして案ずることがあろうか?


自然はただ生きているだけだ。


意味を見いだそうとすること自体、

意味を見いだせなくなってしまうのと、とてつもなく広大な迷路に、自分からほいと迷いこむようなことと同じじゃないのか?



今日も大学生は惟っている。



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