見出し画像

INFJの憂鬱:やっべ!INFJと哲学混ぜちった…

INFJと、そう気づいてから、ワタシみたいに狂った想像と、厖大な思索に駆られる人間がいると知った。少し安心。

でもね。今は、一つだけ言いたいことがあるの。

INFJに、哲学には与えてはいけないよ

既にボロボロの、崩れかけの廃墟に、熱濃硫酸をかけるようなものだよ。ほぼ躁うつになる潜在性を持つINFJに哲学を学ばせることは。

普段から既に、ル・レエルに近いような思考に走ってしまうINFJが、ル・レエルに近づこうとする哲学なんか学んだら、全てが無意味になってしまう。INFJの最大の特徴は、「矛盾」と「思索」であるが、おそらくINFJにとって健康や生きる上で良い事は、それら「矛盾」と「思索」を無視すること、考えないことではないか。

今、大学生という身分であるが、大学の講義がおろそかになりそうなのギュゥと押さえながら、薬を吸うように哲学に走り逃げている。これはINFJにとっては、健康上の害かもしれないのに、どうしてもやめられない。中毒だ。でもその毒と、毒からあふれ出ル無が、スキで好きでタマラナイ

今年に入ってから、お前は哲学科かなんかと思われるくらいに、よく分からぬ思索に囚われている。寝ている時以外は、ずっと頭の中が思索だらけだ。実際の身体のことなどどうでもいいというくらいに、延々と頭を働かせている。





グルグルぐるぐる



あの公園の雨垂れ、無限後退を防ぐにはどうすればいいか、その恣意性に対してはどのように対応するべきなのか、達成感の欠如は真理の欠如と似ているのか、アルキメデスの点の危険性、自由とは完全無欠であるか、ニーチェのいう健康とは、正常な人間とは、地球を守りたいというその気持ちの不透明性の認知、生きること自体の正当化、哲学が終わらせるもの、自分の非存在性、ゆるやかな包摂と排除、誠実と正と一にしない生物、あるそれらしい人生の結果の間接的感想、哲学への妄信の危険性と揶揄、ワタシの原理としての不確かさ、存在論的証明、一日一善の定義、哲学に対する三つの考え、歩くこと、人間の多次元性、考えることについて、哲学と反哲学での煩悶、イデアとエイドスの居場所、平等とは、哲学による生物種区分の横暴さ、カラーバス効果、幸福、正しさと不道徳、はるかなる視線、人助けの正当性、「分かる」の規定不可能性と環境依存性、エピステーメー、自己決定性とパブリックへの回路のアナロジーとしてのトロッコ問題、存在と存在者、良い、偏見の曖昧さ、生への疑問、チコちゃん、子どもらしさの演出、線引き、「何」としての私、時間、認識論的誤謬としての期待、虚無、価値判断の暴虐性、真理追究心(理性の如き物)の空しさ、考えることの中動性、不安と一般名詞の記述、分かることの分からなさ、キモさ、他者或いは無の絶対的根拠、コードからの無意識的逸脱、多様性の危うさ、暴力の恐怖、現実世界と象徴世界とナンセンスの認識・・・・・・・・···



まだだ、まだ足りない。これだけじゃないんダ。まだ他の記憶に、外部の装置に、付箋に、ノートに、本に、考えたいことが大いにあるんだ。

キッッモッ...


文字に起こせば、もはや模様である。これくらいキモイことを、哲学を学び始めたINFJがなしてしまう危険性がある。

言っておくが、私はいたって普通の人間だよ。というか人間だよ。普通という言葉に隠れた特殊性を主張したいわけでもなんでもないよ。

これも、おそらく多様性とか、人それぞれというヤッッスイ言葉で片づけられてしまうんだろうけどね。

とういかそもそも、哲学が危ないかもしれないとも思った。木田元さんもそういっていたような、いないような。う~ん。


誰カ~、私と、話しマセンか・・・?



今日も大学生は惟っている。



🔵メインブログ🔵


サポートするお金があるのなら、本当に必要としている人に贈ってくだせぇ。