「分かる」ってどういうことさ?
「分かる」という一言一句の意味が、自分の言葉でうまく表現できずに、落とし込めないと感じることがある。
それは「どうして分からない?」「私には分からないんだけど」「分かった分かった・・・」という言葉を日常的に耳にする中で、解消したように見えては、また蓄積されていくような、生きている間中延々と消えることの無い生理的欲求にも似たなにか。
「分かる」とは、「分ける」と関連した言葉であると聞いたことがあるような、無いような。もし仮にこれが正しいとして、物事の具体的な像を、その詳細な部分に関しても、知っている、解説することが出来るということが「分かる」ということなのか。
では、ある例を考えてみよう。
「りんご」というものに対して、「分かる」とは、畢竟するとどういうことだろうか。
もちろんここには「りんご」を称するあらゆるなにかに対して「わかる」とは何かという事態もかかわってくるかもしれないけれども、ひとまず停止して、赤く、比較的円く、甘く、英語ではappleという「りんご」に絞って考えてみよう。
「りんご」に対する「わかる」という行動は一体に何を意味するか?あなたは、まずどうお考えになるでしょうか。
「りんご」の組成物を知っていること?
「りんご」の原生種を知っていること?
「りんご」の栽培方法を知っていること?
「りんご」がどのような環境で育つのか知っていること?
「りんご」の甘さを数値化できること?
「りんご」の料理方法を知っていること?
「りんご」の種類に関して知識を持ち合わせていること?
「りんご」の伝播について知っていること?
「りんご」の進化について知っていること?
「りんご」というものに対して、「分かる」とは?
「りんご」の価値をしっていること? では、「りんごの価値」ってなんなんだ? その「りんごの価値」をあなたは分かっているのか?
「りんご」の意味に通じていること? なんだ? 「りんごの意味」ってどこにあるんだ?あなたはそれを一体どのように、いつ、どこで知ったというのだろうか。
「りんご」がおいしいと知っていること? つまりどういうことだろう。「りんごの美味しさ」への認知が、どのように「りんご」に対する「分かる」という行動につながる?
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「分かる」ってどういうことだろう。
アリストテレスは、物事を理解することを、「それがどう歩くか識る」ことだと言っていた。
では、「りんご」の歩き方を知ればいいのか。それで「りんご」っていうものが「分かる」のか。
「分かる」という行動には、基準があるのだとしたら、その基準を「分かる」にはどうすればいいのか。
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「分かる」ってことは、どこかで「分からない」ということを認めているのと同義ではないのか。では、「分かる」とは、つまりは「分からない」ということではないのか。しかし、「分からない」とは、終局どういうことだろう。単に知らないこと?それでは、「分かる」と「分からない」は同義ではないね。でも「分からない」という言葉の最果てが見えないね。
「わかんないだけど」「私には分からないんだが」「分かれよ!」「分かってくれよ!」「分からないんだよね・・・」「分かったかも」
多分全部おんなじ言葉だ。異音同義語の究極だ。
「分からない」という言葉に何がある。それは「分からない」ではなくて、「自分が受け入れることができない」の間違いなのか。「分かる」という言葉に何がある。それは「自分には受け入れられる」の間違いなのか。
「分かる」という言葉を「分かる」にはどうすればいいのだろう。辞書には書いていない。
「自分に都合の悪いもの」は「分からない」のか。「自分に都合の良い物」は「分かる」のか。すべては自分の方へ転覆させたもの勝ちか。それなら「分かる」のか。じゃあその「分かった」って、究極的にどういうことさ。
「分からない」が分からない。「分からない」が分からないが分からない。「分からない」が分からないが分からないが、私には分からない。
突っ込みすぎてるな。ボケてんのか?
さあ、どうだろう。
「分かる」ということが分かれば、「分かる」が分かるということもあなたには分かるのかな。
分かる
ってどういうことさ?
と
今日も大学生は惟っている。
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