見出し画像

社会学で見たものを、哲学で捉えてみる

「【社会学】ご飯を食べている。その間に、メッセージをも食べている。」という記事を以前書いたのだが、なんとなくこの社会学の視点から書いた記事について、哲学の要素も含めて、記事を書いていきたいと思う。

社会学と哲学を絡めるのは、初なので、色々とというか、至らないことばかりかと思うが、それでも文章を読んでいただけるなら、望外の幸福である。

さて

「【社会学】ご飯を食べている。その間に、メッセージをも食べているのかもしれない。」

という記事では、「食事」という一見ありふれたものに見える事柄を、「メディア」「メッセージ」という視点から考察してみた。脈絡も、音沙汰もなく、突然頭を打ち付けるかのように、やって来た考えなので、欠陥がおおいところもあるだろう。

そこで次は、食事を「メディア」や「メッセージ」で捉えるという考えそのものについて、最近私の中で流行中の「リマジネール(l'imaginaire)」・「ル・サンボリック(le symolic)」というラカンの概念を使用させていただき、見てみよう。

その来訪の所以


そもそも何故、私は、「食事」という行為を当たり前のこと、それをむしろただの栄養摂取に近いような行為の如きものとして捉えてしまっていたのだろう。

まず、以前の記事において、ワタシは食事をこのようなものと書いている。

「食事」は、それらの材料というコアとなるもの・ある種のメッセージ「a」と、それら以外の大量のメディアから発せられ、人間が受け取るような大量のメッセージ「b・c・d・e・f・g・h・i...」などが組み合わさって生まれる、「メッセージの複合体」

「食事」とは、単なる栄養摂取ではない。それは、数え切れないほどのメッセージが混在する、「メッセージの複合体」なのだと考えた。

なら、なおさら何故この「メッセージの複合体」としての「食事」を、さも当たり前の、当然のことのように考えてしまうようになっていたのか?

そのことについて、「リマジネール」・「ル・サンボリック」を使って、考えていく。


ル・サンボリックとリマジネールの混同


メッセージは、ラカンでいう「ル・サンボリック」(象徴界)の領域におけるものだろう。つまり、地球が誕生した時点で、自然に存在しているようなものではなく、人間が造り上げた恣意的且つ作為的な世界におけるものだということだ。

メッセージは、目に見える形で表せるが、実際の形を伴って状態で伝えられることはない。

そして、そのメッセージを媒介する「メディア」も、言葉・語調・イントネーション・訛り・表情・身振り手振り・地位・状況・心理状態の反映・声の高低などなど、「形」、「見えるもの」として認識することは出来るが、持続性があるというわけではない。

しかしあまりにも当たり前というか、生活を営む中で、至極当然の要素であるので、それを特別視する、疑問視するということは多くないのだろうかと思われる。

換言すれば、それらを極めて「リマジネール」におけるものとして捉えてしまっている、元来から存在し、これからも、来し方行く末、未来永劫、永遠に、存在していくものだとどこかで考えてしまっているものだと思っているのではないか。

ちなみに、「リマジネール」とは、「現実界」と訳されるもので、おそらく簡単に言えば、(ワタシの理解では)言葉で表現する前の常態の世界ということになるだろう。(宇波彰、2017、28)

「リマジネール」、言の葉で表すことの出来ない状態の世界を、「ル・サンボリック」という言葉を使うことによってしか現れない世界と混同するということが、「リマジネール」と「ル・サンボリック」の混同というわけだ。


栄養摂取と、食事


栄養摂取(喰)と、食事(食)という対比は、そのまま「リマジネール」と「ル・サンボリック」という対比に置き換えることが出来るのではないだろうか。

「【社会学】ご飯を食べている。その間に、メッセージをも食べている。」という記事に、割かし書いているが、食事は単なる栄養摂取ではない。これたくさん繰り返して言っている。

「リマジネール」と「ル・サンボリック」の混同

栄養摂取と食事の混同

これが、日々の「食事」という行為を、当然、当たり前、自然、非作為的なものとしてあるという洗脳を、人間は意図せずして行っているいるか、そうであるということを忘れてしまうか、どうでもよくなってしまったか、であろうか。

栄養摂取を、「ル・サンボリック」(象徴界)に持ち込む、こうすることによって、それは「食事」となる。

あらゆる道具(メディア)、あらゆる状況(メディア)、あらゆる人間(メディア)を介して、多種多様なメッセージを受け取り合う。これが、食事であり、決して「リマジネール」においては存在しないものであると私は考える。

まぁ、「ル・レエル」のおいて、「食事」がどう変化するかについては、ああり想像できないけれど・・・焦




今日も大学生は惟っている。



参考文献

宇波彰.2017.ラカン的思考.作品社

長谷川公一.2007.社会学.有斐閣アルマ


🔵メインブログ🔵


サポートするお金があるのなら、本当に必要としている人に贈ってくだせぇ。