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生きることと、誠実でいようとすることの両立が難しいと知る:INFJの意想

ちょくちょく「INFJ」の(ワタシが思う)特徴について書いた記事にスキをもらうので、そのたびにこんなこと書いたっけなぁと見返すこともあります。そこにですね、「生きることと、誠実でいようとすることの両立が難しいと知る」ということが書いてあったんですね。これつまりどういうことかというと、人間と言う生物が生きることは、どうあっても正当化することが難しいということを言おうとしたんです。必要以上に消費するし、人を陥れようとするし、戦争も殺し合いもするし、裏切るし、イデオロギーに支配されるし、自分がどこかで正しいと思っているし、他人を理解できると勘違いしているし。そういう側面が、時に嫌で嫌で仕方がなくなるというわけなんですが、この問題(?)をもう少し考えてみたいと思ったんです。

暇かと言われれば、完全に暇というわけではないですが、時間が無い訳ではないのも事実なので、久しぶりに誰も寄せ付けないかもしれないものを書いていこうと思います。

なぜ、「生きることと、誠実でいようとすることの両立が難しいと知る」という言葉が気になったかというと、理由は他にもありまして。ちょうど今、湯浅博雄さんの「贈与の系譜学」という本を読んでいて、この言葉に関連しているというか、なんとなくヒントになりそうな気がしたので、この本を参考にしながら、書いていこうと思います。

さて、「生きること」そして、「誠実でいようとすること」とは、どのような関係にあるのか。これに関してはは、さっそく「贈与の系譜学」から引用したいと思います。

つまり、ある行為がモラル的価値を持つということにおいて本質的なのは、命法=法則が直接的に意思を規定しなければならないということである。自然的因果律への依存とか、感情性、性向、衝動への依存を免れて、独立した、自由による自律が肝心なのである。普遍的な法則化の形式のみが意志を直接的に規定するということが、要になるのである。(湯浅博雄、2020、82)

これは、カントの「定言(的」命法」についての説明だと思います。さて、これを「INFJ」の特徴としてワタシが示した「生きることと、誠実でいようとすることの両立が難しいと知る」の、「生きること」と「誠実でいようとすること」の関係に当てはめてみること、どのようなことが言えるか。勘の良い方はわかってしまうかもしれませんが、両者は二律背反的というか、一方を意識すると、一方がまたその行為が容易ではなくなるということです。

「生きること」は、引用文の言葉を借りるのなら、「自然的因果律への依存とか、感情性、性向、衝動への依存」です。つまり、何か一つの信念の実現を目指して行動し続けるというよりかは、あらゆる法則、自分の感情、性格、欲動など、自分の(周りの)環境に依存し、影響されながら、行動し生きるということになると思います。おそらくワタシも含めて、多くの人がこちらの生き方をしていると思います。というか、こちらの方しか出来ないとも言えます。

そして「誠実でいようとすること」は、引用文中の「普遍的な法則化の形式のみが意志を直接的に規定するということ」だと思います。まぁ「定言命法」と言い換えても良いと思いますが、環境がどんなものであれ、常に自分が絶対に信ずることの出来る戒律というか、信仰を目指して、それが実現するように行動すること、と言い換えることも出来ると思います。例えば、簡単な例をあげるなら(合っているどうかは分かりませんが)、「嘘をつかない」ということを、目指すべき、達成されるべきものだとします。ところで自分の知り合いが、浮気をしているとします。知り合いの家族はそのことを知らず、知り合いも本当の事を言わないように云うものの、それでは「噓をつかないこと」を達成することが出来ないので、浮気の件について伝える。という感じだと思います(大分簡単な例ですが)。

この例において、「生きること」(あらゆる法則、自分の感情、性格、欲動など、自分の(周りの)環境に依存し、影響されながら、行動し生きるということ)という選択をすると、おそらく浮気のことについて口をつぶっているでしょう。やはり、「生きること」と「誠実でいようとすること」はなかなか馬が合わないようです。INFJに近づけて言うなら、INFJは、ワタシの惟う限りでは、非常に考え屋さんです。くどくど、頭のなかで常に、壮大なこと、或いは人間の生や、よく分からないことについて考えています。その中の一つに、環境に合わせるか、自分の信念を達成することに誠実でいよう(?)とするかという二項対立でよく溺れているのではないでしょうか。というか、ワタシは常に溺れています。

しかしこう書いたところで、「誠実」の道を選択するなら、ワタシはきっと痛い目にあうでしょう。そのことは聞きたくなかったとか。そんなことを言われ続ける人生になると思います。結局「生きること」の道を選ぶ度胸しかありません。しかしながら、「誠実でいようとすること」の道は一つではありません。なぜなら、「噓をつかない」以外の、自分が絶対に達成するべき定言命法があるかもしれませんから。「誠実でいようとすること」は、あくまで「定言命法」そのものに近いのであって、「噓をつかないことを達成しつづける」ことではありません。そこの所、勘違いせんといてね、と。まぁ、何かしらの「定言命法」を設置したところで、「生きること」との衝突はなかなか避けられることではありませんから、難しいんですけどね・・・。う~む。今日は、ちょっとあったかい日でしたね。




今日も大学生は惟っている


引用文献

湯浅博雄.2020.贈与の系譜学.講談社選書メチェ



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