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本から効率的に情報を得る事と現代の観光、本を読むことと前近代の旅について


本から効率的に情報を得る事と現代の観光


本から効率的に情報を得る

最近SNSでは、このような文言を掲げて、自分のコンテンツを発信している人をよく画面上で見かける気がする。ビジネスマンにとっては、時間を効率よく使うという行動が、意味のあることだとは思う。

しかしながら、本から効率的に情報を得るということは、本を「読んでいる」というわけではないことだと私は考え及んだ。

それと同時に、私は「本を効率的に使う事」、つまり本をどんどん消費していくことが、近代における大衆観光(マス・ツーリズム)とどこか似ているような感を覚える。

ダニエル・ブーアスティンというアメリカの学者は、「幻影の時代」という著作において、大衆観光についての表現が多々見受けられる。

こうして外国旅行は一つの活動ー経験・仕事ーではなくなり、その代わりに一つの商品になった。〔中略〕旅行者はいろいろな土地に住んでいる人々に出会うために世界を周遊した。しかし今日の旅行代理店の機能の一つは、このような出会いをさまたげることである。〔中略〕私はなんら努力をしないで、気のつかないうちに空間を飛行してしまったのである。飛行機は私から景色を奪ってしまった。(ダニエル・J・ブーアスティン、1964、97.103.106)


本を効率的に見る、消費する、情報を抜きとるという行為は、ダニエル・J。ブーアスティンが提示するような「大衆観光」の在り方に似ていると私は思ったのである。

本は2割ほど読めば、残りの8割はさほど気に留めなくとも、理解できる、と聞くことがある。確かにそれは間違いではないだろう。

ではあらゆる本に対して、そのような「見方」「消費の仕方」を当てはめるというのは、いよいよ大衆観光のような本の読み方と言えるのではないだろうか。


・単なる消費対象としての本

・無駄だと切り捨てられる本の中の多くの文章

・本の中から感じられる空間の排除と、時間的な尺度のみの読書


本を効率的に見、情報を吸収するだけのといった本の取り扱い方は、やはり大衆観光にどこか通ずるものがあるのではと感じてしまう。

本を要約して重要な部分だけを伝える、もしくは要約が記載されているブログや動画コンテンツなどは、引用文にあった、観光代理店とほぼ同義であると私は考える。

本の核となる要素、重要な部分だけを示すという行為は、換言すれば、その他の部分を亡き者とし、作者の言わんとしていることの、彼らが伝えている本の文章という空間から、視聴者や読者は排除されている。

重要な部分だけを伝えるコンテンツやサイトから伝わる文章は、本来のその本の文脈から切り離されているようなもの。博物館に飾られている、どこかの絵画。

彼らは、一見コンテンツの視聴者や読者に有益な情報を与えているようにも見えるけれども、それは極めて断片的な情報に過ぎず、文脈の中で理解されていない、暗記事項と何ら変わりがないのではないか?

本を効率的に見る事、大衆観光は、やはりどこか似通っている部分があるような・・・。


本を読むことと前近代の旅について


しかし私が考え及んだのは、「本から効率的に情報を得る事と現代の観光」の共通点だけではない。

「本を読むことと前近代の旅」に見受けられる共通点をも、意識した。

まず、前近代の旅というのは、前述の「大衆観光(マス・ツーリズム)」とはほぼ逆をいくものと言っても過言ではないだろう。

いわゆる「旅」「冒険」と評される、「大衆観光」以前の旅行は、一部の特権階級における代物であったり、相当程度の知識・知恵・教養、そして時間や労力、そして財力を要するもの。

しかしながら、注目すべきは、それになにが必要になるのかという条件ではなく、前近代特有の「旅」「旅行」というものが、その対象の性質として、どのような特徴を備えていたかである。

もちろんのこと、今の様に消費対象としての観光ではなく、旅に伴うあらゆる体験が省略されるわけでも、空間性が失われているわけでもない。

交通革命が生じる前には、当然鉄道のような高速移動する機関なんてものは利用できるわけではなく、今はほとんど省略されてしまうような移動の間の景色や人の会話、匂い、温度など実に多種多様な、五感を刺激する体験を、前近代の旅行者は味わうことができた。

そして、「本を読む」という行為は、この前近代の旅というものと類似するものだと私は考え及んだ。

ここでいう「本を読む」という行為は、

条件として、

・飛ばし読みをしない

この一つの条件を満たしたときに、「本を読む」という行為である私は見なしている。(たぶん)

飛ばし飛ばしのような、雑多な本の読み方は、観光地から観光地へと移動し、過程や道のりを軽視する観光客のように思えてしまう。

(これらは本を理解するというよりも、純粋に本を本として読むことを楽しむような態度だ。あくまで本の読み方の一種に過ぎないし、本の読み方をすべてこれに当てはめるべきだとも思っていない。)


・単なる消費対象としての本として捉えない

・無駄だと切り捨てられる本の中の多くの文章も読み通す

・本の中から感じられる空間を排除せず、時間的な尺度のみでとらえない

ということが、「本を読む」ことに求められる態度。


これは前近代的な「旅」「旅行」の求められる態度と、共通したものというわけだ。


「本を読むな」という。

それは本から効果・効率的に情報を引き出すという目的の為。


しかしそればかりを続けているのは、「大衆観光」という、観光地を消費対象としてしかとらえず、空間的な経験を失い、自らの「快」の感情のみを優先させる行動でもあると私は考える。

故に

「本を読む」という行為は、そう易々と成し得ることではないのではないだろうか。文章だけの内容や情報に囚われるのではなく、行の間隙も味わい、文章内容の背景や文化を想像してみる。「本を何冊読んだ/~分で読んだ」という消費的な考えに迎合せず、本を本として味わう。これは私なりの「本を読む」という行動だ。

と、観光学関連の授業を受けていて、不図書きたくなった。

本と、旅と、観光と


意外な繋がりを見いだすことが出来ると、少しばかり愉快






今日も大学生は惟っている。





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三木清の「人生論ノート」の「旅について」を読んで、彼の影響を受けまくっている記事ばかりです。



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