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それが人間ですか

これは、

「スカベンジャーズ」「ご飯を食べている。その間に、メッセージをも食べているのかもしれない。」「社会学で見たものを、哲学で捉えてみる」という記事の系譜を持つものになるかも。

実質、内実としては、つまり、要素ごとに分けてみたとき、動物が生きるために食べているのは、「死体」である。その時に生きていたとしても、腹に収まる時には、大体は「死体」である。

つまり、(これは非常に明らかなことなのであるが)、人間はどういったところで、死体を食べているということだ。もちろん、「肉」といういかにも死体らしい死体だけではない。米やパン、調味料、野菜。あらゆるものが、死体である。死体を捏ね、死体を混ぜ、死体を加工し、死体に火を通し、死体を切り刻み、死体に死体を添える。

生きたものをそのまま喰うことさえするが、最終的には死体となる。人間は、いや動物は、死体を食わねば生きていけない。どんなにしゃれた名前を付けようと、どんなに美味い料理を作ろうと、どんなに見た目を繕おうと、それは死体の寄せ集めに、少しメッセージとメディアを混ぜたものでしかない。(しかしベースは死体である。)

人間は、ある意味で調教されている。親から、或いは他の人間から。口にするモノが、死体であること以上に、メッセージであること。或いは、それが死体ではなく、そのものであること。

ひどいときには、魚の切り身がそのまま海で泳いでいると思っていたと聞いたことがある。まさにそれは、食べ物が死体ではないという「調教」がうまく行っているという証だ。魚という死体ではなく、切り身という「食べ物」であると。

死体ではなく、「食べ物」だと認識して、それを喰らうことが出来ることそれ自体が、死体そのままではなく、「食べ物」というメッセージを受け取っていることにほかならない。

死体を、今日もおいしそうに頬張る。(当人は、「死体」だなんて思わないだろうが)満面の笑みで。

そういう意味で、「食べることは、生きること」は本当に納得させられる言葉だ。いや、「生きることは、奪う事」と言った方がいいかもしれない。だから、「いただきます」なのね、と。「いただきます」にあたる外国語は、なかなか無いそうなので、この言葉は大切にしていきたいんだが。

死体が、死体ではないように思う。振る舞う。勘違いする。演出する。

人間は、どこまでも、「食事」という行為においてさえも、或いは「食事」という行為においてだからこそ、パフォーマーなのかもしれない。食事という演劇を、パフォーマンスを、ほぼ無意識的に行うとは、どこまで健気なことか・・・。

とか書きながら、死体を今日も貪るのですね。




今日も大学生は惟っている。




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