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家が寧静たる所以を申してみむとす

「きちんとした日本語が良い人生をつくる」難波菊次郎著

を繙いている時

日本の特有の公共空間、「電車」や「駅」で生じている状況について述べている文章があった。

「日本語」の諸々も問題は、日本語が存在するあらゆる環境にもかかわって来る、ということだろうか。

電鉄会社はその職員は、乗客というのは手取り足取り誘導しないと、満足に駅のホームや階段を歩くこと、エスカレーターや電車に乗ることができない、と信じ込んでいるように思われる。そのための、幼い子どもと同じように乗客と同じように乗客を取り扱う。いずれにせよ、やたら丁寧なことばを使って、親切心を装っているこれらの放送は、実は乗客の立場をほとんど考えていないのだ。一応乗客に注意を促してさえおけば、事故が起きた時の免責になる。会社の立場しか考えていないことは明白なのである。難波菊次郎、2008、「ことばによる騒音公害」、『きちんとした日本語がいい人生をつくる』、PHP研究所、153

普段はあまり意識しないかもしれないが、電車を利用する際は、かなりの量のアナウンスを目にする。

聞かない方が無い方が珍しいぐらい。

まるで、私たちは、ただ運びさえすればいい貨物のようだ。

そして貨物となった人間は、まさに貨物のごとく、静かに自分の世界に入り込んでいる。

儀礼的無関心という態度なのだから、致し方無いことだとは思うが。

挙句の果てに、最近は日本語だけでなく、英語、中国語、韓国語のアナウンスまで流され始めた。

日本語のアナウンスが流れていない時間を埋めるように、中途半端に聞きなれた言葉が耳に流れてくる。

終ぞ、それを理解することはほとんどないのだが。

なんだろう。オリンピックが開催されている時は、さらに6か国語ぐらい追加されるのだろうか。

そうなったら、いよいよ私の耳が休まるときはないかもしれない。

せめて家くらいは

家は静かなほうがいい。

家には、わざわざ言葉を介さなくても大体コミュニケーションを行うことができる相手がいる。

仮に一人だったとしても、氾濫する乱雑な言葉の濁流から逃れられるのならば、それでも構わない。それに越したことはない。


どうして五月蠅いのか

テンニースによれば、ゲゼルシャフトとは

「人々はそれぞれ一人ぼっちであって、自分以外のすべての人々に対しては緊張状態にある。かれらの活動範囲や勢力範囲は相互に厳格に区切られており、その結果、各人は他人が自己の領分に触れたり立ち入ったりするのを拒絶する。すなわち、これらの行為は敵対行為と同様なものと考えられるのである」(Tönnies[1887]1935=1957〔上〕:91)

とある。

ゲゼルシャフトとは、簡単に言えば「公共空間」のことである。

「家以外」の空間だと思えば、想像に難くないだろう。

公共空間が生まれる前に存在した、大きな親密空間、地縁や共同体としてのつながりが強い空間。

そこでは、公共空間のように雑音の様なアナウンスが流れていただろうか?

いや違う・・・!

全くとは言わないまでも、人々のまわりには「ことば」は氾濫していなかったのだろう。

家族のように、言わんとすることがなんとなくわかるのだろう。

対する、ゲゼルシャフト(公共空間)は、そうしたつながりは無いに等しい。

そのつながりをグチャグチャと無理やり結ぶかのように、雑なことばが溢れる。

アナウンスだけでなく、ほとんど文字だらけの広告。

電車の中にバァァ~ッと貼り付けられている。

呪いのお札か、なんかか?


公共空間には、ことばが溢れすぎている。

溢れすぎた空疎なその言葉たちは、私たちの分離をより一層加速させているかのようである。

マクドナルドで、ポテトが出来上がった時に流れるあの音のようである。

スタッフも、料理も、挙句の果てには、客すらも、電車の乗り降りを繰り返すだけの貨物となり果てた人間のように回り続ける。

さぁ。

今日も日本中で、電車の到着を知らせる合図と、軽快で空虚な音が響いている

今日も大学生は考える。

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