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大学へ行くのに数百万も要るはずが無い

よくこのように聞く事がある。

「大学に行くのに数百万もかかる…」

私はこの言い方に対して、不図あることを感じた。

「行くのに」数百万

私が気になったのは「行くのに」という部分だ。

私はこの部分に日本人特有の偏見の様なものが隠れている風に見えた。


これは、恐らく多くの「大学」に関わる人が認識していなければならないことだと私は思う。


大学は学ぶ場所である、ということ。

少なくともこう認識している私には

「行くのに」という表現がいたく奇妙に思えて仕方がない。

「大学に行くのに数百万もかかる」をより正確に言うのならば、

「大学で学ぶのに数百万かかる」

と、言うだろう。まぁ高いことには変わりないけど…

消えない偏見

日本では、何故か大学は「行く」場所らしい。

いや正確には

大学は「入る」場所のようである。

一体全体何故このような考えが広まったかは、別の機会で考えることにしよう…。

さて、大学が「入る」場所だと認識されるのは

つまり大学での「学び」「過程」「研究」というものが軽視され

大学を卒業することが、それらよりも重視されているということだ。

おぉ…。何ということでしょうか。

これでは大学は、

唯の卒業証書発行機関ではありませんか!

いつから大学はこんなにもダルダルと甘くなったのでしょうな。

まるでMAXコーヒーに角砂糖を一億個加えたぐらい甘いです。甘すぎて、逆に味が分からないぐらいです。

さて、もしあなたが大学に入学するのなら

あなたが金を払うのはどっちに対してですか?

入って、出ること?

それとも

勉強すること?

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