さまざまなセラピーを見てきた後で、セラピー的アプローチを捨ててしまった。
以前は、問題に自分の意識をフォーカスさせていた。
が、今は問題や心配ごとではなく、人やこの世界の可能性にしか関心がない。
そしてある意味で、人もこの世界もこのままでも完全なのだとも思っている。
自分から見て違うなと思っても、その人や起きている事象は今の最大最善を生きているのだと。
違うとみなしている自分のまなざしを問い、それよりは人や世界の力や可能性を信じている自分でありたいと。
よくしようというまなざしよりも、あなたには力があると自分を信じてくれるまなざしの方が、人をエンパワメントするし、その人がその人本来の力を思い出すのを助ける。
さまざまなセラピーを見てきた後で、セラピー的アプローチを捨ててしまった。
(私自身が人から変えられるのが大嫌いな人間だし)
セラピーよりも今は「場」そのものに関心がある。
「場」を作る者が、場の中にいるすべての人に対等なまなざしを向け、その場にいるひとりひとりの可能性と力と自分の可能性と力を信じて、意図してその場にいるなら、その意図は瞬時にその場全体に共鳴し、その場にいる人ひとりひとりが自分の力や自己価値を思い出すのを助ける。
ただし、その意図を持っている人が少なすぎる。
ほとんどが自分個人を充たすためだけに、場が使われているから。
また、その場自体はひとりひとりの居場所を確保した上で、ひとりひとりの主体性が尊重されなければならない。(ヒエラルキーがあると瞬時に主体性が失われる)
そのためには、誰も無理してないリラックスした場が必要で…。
そんなことを考えながら、いつも、場を作りたいと思っていて。
何も考えていないように見えるでしょうが。笑
でも、これはあくまでも個人的見解で、だからと言ってセラピーを否定しているわけでも、さまざまな場を否定しているわけでもなく。
そうなってしまったら、私が一番大嫌いな原理主義的なものになってしまうわけで…。
ただ自分はそうだというだけ。それが自分の個性というか。
それからセラピー的な技法を使っていても、上に書いたような考え方に意識的な人もいればそうじゃない人もいて、所詮、道具はなんでもよくて、大事なのは在り方だけじゃないかと。
こんな考え方自体が多様性のひとつだとして、自分で自分を認めていこうと思っている今日このごろ。
世の中の趨勢と違っていたりすると、すぐに自己否定に陥りがちだからね。
ひとりひとりがそれぞれに自分の在り方にイエスと言って、自分以外の人や、パワーある誰かのモノマネじゃない生き方を始めたら、この世界はもっと豊かに美しくなるんじゃないかと。そんなことを夢想している。
*2018年に書いた文章の再投稿です。
今は、セラピー的アプローチを使わないセラピー(笑)をやっています。
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