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#2 手触り

手触りのない体験、経験が過剰に消費されるようになって20年くらい経つ。それが当たり前の世の中に生まれ育った世代と、少なからず「身体に聞いて」育った世代とでは、身体感覚のありようから差異があるんじゃないかと思う。

「20年」と区切ったのはインターネットの普及を軸に考えているからで、もちろんテレビのない時代に生まれ育った人たちと僕ら世代の間でも違いはある。縄文人と現代人で比較したら、なおさらだ。

ただ、いずれにしても今の世界は、五感のうち視覚があまりに優位になっていて、まだまだその優位性にブレーキがかかりそうにない。ちょっと偏りすぎじゃないかと思うし、他の感覚を疎かにするのはなんだかもったいないな、とも思う。

思っているだけではなんなので、試しに視覚を閉じてみた。アイマスクをしたまま、3日間過ごすことにした。外出はなし。勝手知ったる6畳間での籠城生活である。

夕方5時。電気をすべて消してアイマスクをする。その上からタオルを結んで完全に光を遮断する。「よし、これでスタートだ」と思った矢先、自分の愚かさと想像力のなさにげんなりした。

「やば。スタートしたけど、どんだけ時間が経ったかわからんやん」

仕切り直して、3日後の午後5時にスマホのアラームをセット。あとは腹が減ったら何か食えばいいし、眠くなったら寝ればいい。

暗闇の世界は、おもしろい。一人暮らしでこんな簡単に異世界体験ができるのか、と思う。まず、何をすればいいのかわからない。パソコンもスマホも使えないし、本も読めない。誰かに電話しようと思っても、スマホ画面が見られないから掛けられない。

とりあえずストレッチをして、ちょろっと小踊りしてみた。案の定、足の小指をどこかにぶつけてうずくまる。うずくまるときに今度はどこかに額をぶつける。「ううっ」と声が漏れる。無観客、無配信ドリフコントは、リアクションもこの程度だ。

暗闇のなかで身の回りに何があるのかを知るには、つまりこの世界を把握するには、視覚以外、まずは触覚に頼ることになる。水ダウで、目隠しクロちゃんがそうしているように、両手を前方に出し、虚空をさぐりながらよろよろと歩く。

まずはトイレに行ってみよう、とユニットバスを目指す。3歩くらいで着くはずなのに、やたらと慎重に。

慎重に、と念仏を唱えていたはずなのに段差に足を引っ掛けて、ドンガラガッシャーンとすっころんだ。何かが落ちて転がったけれど、何が落ちたのかわからない。落ちるようなもの何かあったっけ? ていうか、痛ぇ、いろんなところが。

大いに転んで、やっとわかったことがある。

床に転がったまま、白杖をついて歩いている人をイメージする。そういえばみんな、一歩半ほど先の地面を「カンカン」と小づいて歩いている。足腰が悪くなって杖をつくのは身体を支えるため、3本目の足の代わりだが、白杖は、あれは手なのか。

3本目の足ではなく、手。イチローがバットやグローブを身体の一部と語っていたように、目の見えない人にとっての白杖は手先指先と同じ、身体の拡張部分なのだ。

なるほど。痛い思いをして、トイレに転がって、やっと理解した。馬鹿なのでなんでもやってみないとわからない。なんでも「身体に聞いて」、ようやく学べるタイプなのだから仕方がない。

転んだけれど、それでも自分がズルしていることにも気づいた。そもそも視覚情報として家の中の空間的イメージができている。どこに何があるのかという配置、その形、硬さや色までもわかっている。そういう映像記憶をなるべく忘れようと、「真っ暗な空間に放り込まれたのだ」と自分を洗脳する。触覚や聴覚を頼りに、ゼロから「この世界のマップ」を編み直すように努力した。

二日目以降、痛い思いをしたせいで何をするにも動きがのろくなったが、次第に慣れてくる。普段触らないようなところにもたくさん触れる。気にしたこともなかった壁のちょっとした凹凸にも気づく。隣人が帰宅した音を感じて時間を把握できたりもする。枕の加齢臭にも敏感になる。

視覚がおよぶ範囲まで世界が果てなく広がっていたのとは違い、視覚を閉じたとたん、この世界は手の届く範囲だけのものになる。自分の手の届く範囲が、認知できる世界。だから、光のない世界にはすべて温度があり、固さがある。視覚があれば、ずっと遠くにある月も把握できるけれど、月に手触りはない。視覚のない世界には、すべてに手触りがある。

目から手へ、身体の主感覚を禅定しただけで、この世界のありようはまったく違うものになった。

見えてしまうから僕らは視覚に頼りすぎてしまうのであって、それ以外の感覚でも僕たちは世界を理解することができる。違うかたちで。それを身をもって「わかった」だけで、この3日間には意味があった。

と同時に、腑に落ちたこともある。いくらお互いの顔が見えていても、ZOOM飲みがいっときのブームで収束してしまったのは、どこか物足りないからだろう。その物足りなさはどこにあるのか。それは僕たちが普段、五感をフルに使って、その場の相手の表情や感情を読み取っているからだ。対面すればそれができるはずなのに、パソコン画面上ではそれができない。だから物足りない。できれば居酒屋に行きたくなる。

テキストだけで情報を伝えるよりも、電話で声も聞けたほうが伝わる。オンラインで相手の顔が見えたらもっと共有できる。でもそれよりも、実際に出会ったほうがいい。お互いに精度の高い交流ができるのだから。

実際、3流エセジャーナリストとして仕事していても言えることだが、より確からしい情報を得るには「現場に行け」が鉄則だ。まずは「出て会うこと」。科学技術は日進月歩だけれど、まだ対面して会うことで得られるものを、カバーできるレベルにはなっていない。

だから、たとえばホームレスのことを知ろうと思ったら、話を聞いて、声を聞いて、くせぇ臭いも嗅いでみてやっとわかることがたくさんある。本やテレビで見るだけでも、路上で眺めるだけでもなく。一緒に路上に座ってみたり、寝てみたり、食事をとってみたりしたなら、よりわかる。視覚だけの世界に手触りのある世界を重ねていくことでわかることが、間違いなく、ある。居酒屋で呑んだほうが仲良くなれるのと同じだ。

と、どれだけ僕が五感を使って彼らを理解しようと努めてきたとしても、結局、文字という視覚情報に還元しなきゃいけないのがつらいところだ。明日からはちょっとずつ、そのつらいことをしていこうと思う。




『トーキョーサバイバー』は、大学生が実際にホームレスと「出会い」、感じたことを描いたものでもあります。もちろん、それだけじゃないけれど、学生たちが「手触りのあるホームレス」から得たものは、きっと多くの読者にとっても気づきをもたらすものだと思います。
現在、出版に向けてクラウドファンディングを行っています。ぜひ、ご支援、拡散のほどよろしくお願いします。
(なお、僕は本書には執筆しておりません。発行者兼編集者兼noteでの宣伝広報担当です。)



追記:クラウドファンディングは皆様の温かいご支援のもと、SUCCESSし終了いたしました。ご協力・ご支援いただきました皆様、誠にありがとうございました。うつつ堂代表 杉田研人拝(2022/3/17)

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