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お手紙

 深夜1時。わたしは暗い部屋のベッドの上でパソコンを開いて、お気に入りのnoteの記事を読み返している。CDプレイヤーからは受験期にだいすきだったアルバム。ひさびさに聴くとあの頃にもどったみたいで、つらくもあったけれどなんだかんだほんとに達成したいたったひとつの目標に向かって突き進むのは楽しかったな、なんてすこしあたたかい気持ちにもなる。都会の冬の長い夜、隔絶されているけれど孤独ではない。ひさびさに誰かと何かを語り明かしたいような。ほんとうに満たされていて、完璧に幸せ。わたしは幸せを恐れない(だってわたしは根っからの東京ガール、ですもん。違うけど)。

 さて。この記事を書いているのは、ある記事にお返事したいから。執筆者と同じような感覚を持つひとりとして、あの記事に触発されたきわめて個人的な話によってさらにほかのひとの言葉を導きだせたら素敵だな、と感じたから。

 そう、ひとの言葉がきっかけで自分の言葉が溢れだすことがある。わたしがひととお話しするのは、そういう瞬間を待っているからでもある。たとえば、記事を読んではじめて言葉にできたことには、わたしは誰かが何かを言葉にしたくて、それでもいろんなことが気になって言葉にすることを躊躇ったり上手く言葉にできなかったりする、そんなときにそばにいて、いっしょにじっと言葉を待って、それを受け止めるひとになりたいのかもしれない、ということがある。

 わたしも執筆者と同様に、言葉が好きだし、言葉をつかって生きていきたいと思っている。ひとやひとと関わること、それによって生まれるものごとすべてが大好きだ。だれかが言葉にしたこともしてないことも、できるかぎりすべてを受け止めたいと思って、そういうスタンスで深夜Zoomに入り浸ったりみんなとお話ししたりしている。

 価値判断のために話をきいているわけではないのだし、わたしはどんな言葉でも受け止めることはできる。なにかわたしの好みじゃない言葉をきいたからといって、嫌いになったりはしない。受け入れるかどうかは検討したいし、うまく言葉を返せる自信もない。だけど「ありとあらゆる種類の言葉を知って何も言えなくなるなんてそんなバカな過ちはしないのさ」。言葉を通してみんなと向き合って、自分と向き合って、言葉や言葉以外の手段によって誠実にお返事したい。

 自分語りを忌み嫌うひとが一定数いて、自分語りを否定する風潮があることが以前からとても悲しい。へヴィーなこともライトなことも、すべてわたしに話してよ。たしかに自分を語るのは気恥ずかしくて、勇気がいることだ。そして、そういう言葉を本気で誠実に受け止めることはときに苦しい。それを煩わしく思う気持ちもわかる。けれど、正面から生の調子で誠実な言葉をぶつけることによってしか導きだせない誠実な言葉が確実にあるんだ。そして、わたしはそういう営為とそれを望む気概になにより価値があると思う。

 さてさて、そういうわけで。すこし盛大にヘヴィーな近況報告をしてみようと思う。

 かつてはクラスの深夜Zoom三羽烏に数えられた(らしい)わたしが最近クラスZoomに参加していないことに気づいたひとはいるのだろうか。これは、本質的には忙しいからでもなく、もちろんみんなのことが嫌いになったわけでもなく、ここ数ヶ月のいろんな変化と負担を背負いきれなくなっていたからだ。きっかけは複合的でもういまさら記憶をたどることさえできないのだけれど、結果的に、自分と他人の内省が苦しくてお話を聴けない、言葉にできない状態になってほんとうにつらかった。本来ひとのお話を聴くことや自分の気持ちを日記帳に延々と書き続けることが何より大好きなのに。いまだから言えるけれど、しばらくはほとんど眠れなくなったり、逆に42時間睡眠を3時間間隔で何度か繰り返したり、味のついた食べ物や飲み物が気持ち悪くて何も摂れなくなったりした。最近は仕事を減らしつつ(健康的な時間帯に)ひととお話しすることを意識して生活している(その一環としてこういう記事を書いているというわけ)。ご心配をおかけしたみなさんや支えてくれているひとびとにはほんとうに感謝しています。Mille tendresse. 偏頭痛に耐えながらわたしの愚痴を連日深夜まできいてくれたひと。大好きです。

 ようやくゆっくり時間をかけてすこし前までの自分の状態を言葉にしようと試みると、ひさびさに感情が溢れてきて泣きそうになる。しばらくの間自分の素直な気持ちを、溢れてくる言葉を押し殺さないと何もできなかったのだということをとうとう言葉にしてしまってショックを受ける。すこしだけ手に入れたとても大切なものは、ほんとうに失ったものに値するのだろうか、なんて考えはじめたら止まらなくなる。これほどひとが好きなのに、愛着が義務や執着に変わることが恐ろしくて、わたしは人間関係に深入りすることがほんとうに怖い、とか。大好きで大好きで仕方なかったのになぜだか伝えられなかった、いまでも大切な友人には変わりないひとの優しさにふれたときってどうすればいいの、とか。溢れだして止まらないこういうことを考えて悩む長い夜!いつから考える余裕がなくなっていたのだろう。

 いま、ふたたびいろいろなことを思い悩む余裕ができて、いろんなひととお話しする余裕ができて、やはり誰もが悩んで苦しんでいることを痛感する。それぞれがおのおのの悩みに体当たりして、悩んで苦しんで何かに気づいたり、気づかなかったり。いろんなひととお話ししたり、しなかったり。誰かや何かと出会ったり、出会わなかったり。そういう経験・選択の蓄積としてだれひとりとして同じではない生活が、それぞれの生が存在している。そして、そういう個々の経験や選択において、わたしたちは言葉と時間によってすこしずつ可能性を狭め、自分自身を規定し/されてゆく。人間じゃなくても思いつくような簡単で安易な結論に導いてしまったけれど、わたしだってここにたどりつく過程で経験したこと、考えたことは唯一無二であり、苦しかったことも楽しかったこともすべてひっくるめてわたしのAセメスターなんだ。とにかく幸せと苦しみが過多で、その他の感情を失ったような日々だった。

 この長くてとっ散らかったお返事の相手は、深夜ZoomやTwitterに集まる若くて悲しいみんなである。自分語りによって生まれる価値を信じて、みんなが価値を見出してくれることを信じて。何より、書くことによってわたし自身が救われた。思うように過ごせなかったAセメスターに別れを告げて、いまならもっと素敵で美しい日々に一歩を踏み出せる気がする。読みづらい荒削りな文章であるのは、これがいまのわたしの生の質感と温度感を伝えるのに最適だから。思うところの3割くらいしか書けなかったのはご愛嬌。最後の方が雑なのもご愛嬌。ひとりでも好意的に読んでくれるひとがいると嬉しいな。そしてこの文章がまた誰かの言葉を導くことになればもっと嬉しくて幸せだ。たくさんのひとの手によって(このスレッドでも、ほかのスレッドでも)お返事が続いていくことになれば、それほど素敵なことってないだろうな。


P.S. なぜこの記事を書いたの、と訊かれました。『会話について』とあまりにかけ離れているじゃない、と。

一人分の人生しか生きられないから、今君がここで感じたことや思ったことを、それは口に出さないと多分一生自分は知ることができないままで、それが何だって自分は知りたいと思う。

『会話について』

わたしはこの気持ちに深く共感して、もっとひとの話を引き出したいと思ったのでした。

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