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2022年6月の記事一覧
夜霧のような忘却 【超短編】
日が暮れるにつれて先程まで夏の黒ずんだ山体を木々の合間に覗かせていた浅間の峰からひんやり湿り気を帯びた霧がひたひたとこの山荘の窓辺に降りて来た。彼は暗記する程読み返した彼女からの手紙の束を暖炉に投じながら胸中の未練が紫の夜霧のような忘却に溶け去ることを願った。
売られたハンドバッグ 【超短編】
僕だって元はブランドの新作のハンドバッグで白手袋の店員に買主のベントレーまで恭しく運ばれたんだ。それから二度ほどパーティに連れてゆかれたかな。あとはクローゼットで何年も埃を被ってから売られてきたってわけだ。でも今だってけっこう小洒落た袋物のつもりで頑張っているんだ。
運命の王子 【超短編】
叔父の国王に疎まれた王子は言った。
「物事は起きるか起きないか、それは運命が決める」
「僕が反乱すればそれが運命の決めたことだ」
反乱は失敗に終わった。
彼は館のバルコニーに立ち国王軍の嘲笑を浴びながら最期に言った。
「諸君、これが僕の運命、そしてこの国の運命なのだ!」
勝利の確信 【超短編】
他人と共有を拒む正義、それが狂気だ。だから正義の美しさと熱さを帯びている。その日も彼はきらきら輝く眼で正義を胸に彼の言うところの諜報活動に勤しんだ。彼の探す目印は赤いブーツだ。持主の乗る列車の行き先が彼へのメッセージだ。そして彼は新幹線を勝利の確信をもって見送った。
空色の心臓 【超短編】
今のぼくの心臓は露草の空色をしているんだと真顔で言う少年は白いシャツの襟をはだけて襟より一層白く見える胸に右手の細長い華奢な指を挿し入れてふうと一つため息をつくと二重瞼の眼を瞑った。私は教壇にあった自分のハンドバッグから口紅を取り出して彼の唇に化粧を施し始めた。