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イチロー似のその人

バンコクには4年半住んだ。本来なら、あと1年短かったはずのバンコク生活だが、コロナの影響で予定が延びた。
タイから日本への帰国は問題ないが、2020年3月時点の日本では、PCR検査がなかなか受けられず、日本からタイに渡ることが難しかった。タイは入国にPCR検査の陰性証明書を条件としていたからだ。夫の後任が入国できないことには、夫は日本へは帰るわけにはいかないので、帰国のタイミングはズルズルと延びていった。

おかげで、「卒業旅行」と称した思い出づくりの国内旅行を何度もできた。今回は、その「卒業旅行」2回目のお話。

もともと滞在中には、ビーチリゾートやチェンマイなど国内旅行も、よくしていた。最後の旅行はいつもより豪華めに、と毎回考えていたので、結果、帰国前の1年間は「いつもより豪華め」な旅行4回とステイケーションと称した、バンコク市内のホテルステイを1回楽しめた。

当時、コロナの感染拡大をおさえこんでいたタイは、国内旅行のプロモーションが盛んで、いつもなら、金額で躊躇してしまいそうなホテルも、比較的、利用しやすいのでありがたかった。それに、まだまだ、海外からの入国を制限しているタイで、微力ながら消費の貢献を、という気持ちもあった。

タイの代表的なビーチリゾートの中で、クラビにはまだ宿泊したことがなかったので、2回目の卒業旅行の行き先はクラビにした。
4泊5日。バンコクからのフライトは1時間。そこから、車で30分くらいの移動をして、20分くらい船に乗る。

船でしかアクセス出来ないそのホテルは、そのこと自体も秘境感の演出で、たしかに自然豊かな環境だった。野生のサルやオオトカゲにも遭遇するし、ダイナミックな洞窟と、透明度の高いビーチの景観も素晴らしい。

石灰岩の岩山と白いビーチにエメラルドの海がなんとも美しい!
遠浅の海に、波も穏やか
元気なサルたちがいました!
サルの他に、オオトカゲやリスにも遭遇します。
ホテルの客室。童話に出てくる森の中のお家みたい!

秘境と言ってもホテルから歩いていける場所には、ちょっとしたストリートがあり、売店やレストランがある。本格的な秘境に行くには、心配ごとが多い私にとっては、それくらいがちょうどよい。
訪れた当時、コロナの影響か、ストリートの多くのお店がクローズしていたことには、胸が痛んだ。


滞在2日目の朝、ホテルのレストランで朝食をとっていると、向こうからイチローが来るではないか!!
と一瞬、本気で思った。
小顔でエラがはっきりした輪郭、とおった鼻筋、それとキャップ。そこにサングラスをかけているとなると、かなり精度の高いそっくりさんとなる。

「お忍びで来てるのかと思っちゃった」と言う私に、「万が一、お忍びでも、一般人が来る朝食会場には来ないでしょ。それに彼が来てるTシャツは、サッカーチームのユニフォーム型だし」と、夫。
「ああ、そうか、イチローがサッカーのユニフォーム着てるわけないもんね」
いやいや、イチローであるわけない理由はそれ以外にもたくさんあるぞ、と思うのだが、そのときは、ユニフォームTシャツで妙に納得した。

サングラスを外すと、彼は、どこの国の人かはわからないが、欧米人であることがわかった。

昼間はここで昼寝と読書

ひととおり、ビーチで遊んだあと、ホテルの中の洞窟レストランで昼食をとっていると、さっきの彼を見かけた。

イチロー似のその人は、すでにシラフとは遠いところにいて、あきらかに、お酒を飲みすぎていた。ふらふらした足取りでレストランの中を歩き回りながら、その環境やそこからの景観に賛美を述べていた。

夜もそのレストランに行くと、彼がいた。昼間からずっと、いたのかもしれない。彼は夜も1人だった。
さっきは、彼女のために、ディナーの下見にきたのかな、と思っていた。ベストビューな席を探りに、または、サプライズな演出をオーダーしに。朝も連れが寝坊か朝食をとらない主義かで、1人で朝食をとっていたのかな、と想像していた。
が、どうやら、彼は1人で滞在しているようである。

洞窟レストラン「The Grotto」。夜もまた、幻想的。
イチロー似の彼のお気に入りの席

海に面した席の左から2番目。そこが彼のお気に入りの席のようで、連日そこにいた。
朝、8時頃から夜の10時頃までそこにいるのが、彼のここでの行動パターンのようだった。時々、水着姿になって、ビーチに降りていったりはするが、基本的に、ふらふらとした足取りでその席の近辺にいる。

目が合うと笑顔で、挨拶してくるし、私達が飲み物だけで去ろうとすると、
「食事しないの?お腹いっぱい?」などと、声をかけてくる。
足元がふらつくほど酔っていても、しつこく誰かに絡んだり、悪態をついたりはしない。きっと、彼はポジティブで、フレンドリーで、とにかくいい人なんだろうな、という気がした。

よく見ると、彼が指輪をチェーンに通して、ペンダントにしていることに、気づいた。
ひょっとして、ここは大事な人と来るはずだったか、大事な人と来た思い出の場所なのかもしれない。その人は今どこにいるのだろうか、健在なのだろうか。そんな想像を勝手に膨らませながら、せつなくなってみたりした。

次第に、私たち夫婦の間でも、イチロー似の彼のことを話題にしている時間が増えていく。
「今朝、ランニングしているときに、すれ違って挨拶をしたよ。すでに、ワインボトルをもっていたけどね(笑)」
「夜遅くまで飲んでいたわりには、早起きだよね」
とか。
「今、ここに旅行に来ているってことは、タイ在住者だよね。バンコクで、ばったりすれ違ったりしたら、すぐにわかるだろうね」
「でも、彼はきっと覚えてないよ。あれだけ酔っ払っていたら、さ」
など。

私たちの記念すべき卒業旅行に、いつのまにか、イチロー似のその人が侵食してきている。彼本人の知らないところで。

「こんなに彼のことばかり気にかけていたら、旅行の思い出、ぜんぶ彼のことで上書きされちゃうね(笑)」
と言う夫に
「いやいや、この景色も料理もしっかり目に焼き付けておこうよ」
と私は言った。

本帰国してから、この旅行を振り返るとき、まっさきに思い出したのは、彼のことだった。結局、バンコクで彼にばったり会うこともなかった。


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