「終わる」のはまだ先です
内館牧子『終わった人』という本を読んでいる。
主人公は銀行を定年退職した63歳の男性。
定年退職によって、社会に属することが自然な成り行きではできなくなって、「俺は終わった人だ」「散る桜残る桜も散る桜」とか言って、ぼやくぼやく毎日。
自分の学歴、経歴からくるプライド、企業戦士だった会社員時代への郷愁、まだそんな年寄りじゃないという意固地な思いから、かなりの頑固ぶり、ネガティブぶりを発揮する。
ある日、(定年退職で)ぷつんと自分の意思でもないのに、強制的に社会から切り離されて、何もすることがない日々が現れる。暇をを持て余す。こんなはずじゃなかった。テレビで今もてはやされている若いアナウンサーに、「いつかおまえも散る桜になるんだぞ」とテレビに毒づく。
自分はまだまだ若い。それに、(子会社とはいえ)銀行でずっと仕事をして、仕事を第一にして生きてきた。そこら辺にいる、単なる無職のジジババとは違う。
そんな主人公が、どうやって成長(?)し、「老」を生きていくのかという話だと、最初の方を読んで本の内容を推測している。
社会から「もうあんた、いらないよ」と言われた(ような)主人公の気持ち。だんだんすさんで、ひねくれていくぼやき節に、私はあらあらと思いながら、どこか覚えがあって、なんだか懐かしいような、思い出したくないような気持ちになった。
わたしの無職歴は長い。
社会から離れていた時間も長い。
就職してからのここ1年位の間に、仕事というものが、こんな風に社会との繋がりをもたらすのかと、正直びっくりしているくらいだ。
無職で家に篭もる日々は、自分の趣味を一日中できる日々でもあったけど、私は病気と、それから孤独と戦う日々でもあった。
日々生きている感が薄く、日にちの感覚も鈍い。なんのために生きているのかと思う。人間はいつか死ぬのだから、今日でもいいはずだと思ったりもした。生きている、生きていていい、生きたい、全てがどうにも実感できず、死ぬことばかり考えた。
人間は社会の生き物なのだなと、今になって、やっと分かる。
私はこの本の主人公とは、違う境遇や理由で、社会との繋がりがなかったわけだけども、ぽつんと何をするでもない日々の苦しさは、今生きていることへの虚しさにも繋がってくると知っている。人間として、「病んで」いくのだと思う。
人は何かで外と繋がる必要がある。ベッタリなにかに依存するという意味でなく、誰か自分以外の人間が、生きていく上で必要だ。
主人公は、妻に「散る桜」だとかなんとかぼやいてぼやいて、鬱陶しがられている。喧嘩はしないが、人によったら、毎日喧嘩だろうな。
懐かしい気持ちで、主人公のすさみ具合を読み、こんな気持ちはもう味わいたくないなと思う。私にもいつかやってくる老後という時間。先取りして、老後みたいな時間の経験が微妙にあるからこそ、老後、周りと同じように、自分もジジババなのだ。年老いて、往年の輝かしい(私にはないけど)自分は、ある意味もう別人だと、割り切りたい。そう思えたらいいなと思う。そして、新たにジジババ人生を歩む、というおばあちゃんでありたい。
まずは、我が父上や母上の老後の心配が先に立つけど。。。特に企業戦士のような父上は、この本の主人公みたいになりそうで、すこぶる心配になった。
人生が「終わる」のは、人との繋がりが消えたときではなく、繋がりを作ろうとすることを「諦め」てしまったとき。でも、それでも完璧な「終わり」じゃない。また、やり直せる。「終わる」のはまだ先。