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不都合な限界

自分の性格、能力、癖について、乗り越えたくても簡単に乗り越えられない限界みたいなものがある。あって欲しくないけど、ある。

悪いのは自分の中身だから、自分でなんとかするしかないと分かってはいるけど、それを乗り越えるのは、ものすごい苦痛と努力と、できるのかなという不安、途方もない感じに打ち勝つ気力が必要で、気後れしてしまう。

生まれとか、育った環境とか、今まで出会った人達との関係性だったり、その環境のせいとかにしたくはない。

でも、理由とか、原因とかを見つけようとすると、そういう言い訳みたいなものが頭の中をうろつく。

理由や原因を何かに求めている時点で、なかなか前に進めないのだとも分かっている。

私の不都合な限界とは、「嫌な物事の原因は自分が悪いせい」と、自分の中で物語を完結し、(ある意味で)自己憐憫に浸ってしまうこと。「自分、可哀想」と思いたくて、自分が悪いと思っているわけでは決してない。だからこそ根深いというか。

自分が悪い。自分のせいだ。自分が至らないせいだ。

それは、とり方によっては「謙虚」な姿勢でいいように見えるかもしれないけど、やりすぎは誰のためにもならないし、何の解決にもならないし、何より自分に毒だ。自己犠牲精神は、自己憐憫と表裏一体、紙一重だ。

私のnoteを読んでくださっている方は、私の考え方が、往々にして「またまた極端な」と思われることがあると思う。

例えば、最近では「薬味のスプーン事件」とか。

2人以上の人間が関わる事柄で、どちらか一方が完璧に悪いということは稀だ。普通はない。

どちらかが悪いと判断できたとしても、それはその時の状況や2人の関係性や、事件が起こった場所による。時や状況や関係性や場所が違えば、良い悪いの立場が逆転することもある。

それを全て度外視して、「全部私のせいです」と自分を責めて、「自分は馬鹿です」と嘆くのは、不健康だし、現実的じゃないし、極端だ。

認知行動療法では、「認知の偏り」とか「自動思考」とかいう。

自然に任せていると、考えが走っていってしまう方向がある。それが「自動思考」。その考え方の偏りを「認知の偏り」という。

人はピンチな時、苦しい時、困った時選択肢をあまり持たない。それは大概の人の共通点。

一番慣れ親しんだ方法や、経験済みで、安全(?)なやり方に走る。

私の場合、「全て自分が悪い」になるということ。

困ったり、悲しかったり、辛い場面で、「それは自分のせいだ」と話を完結してしまうのは、私にとってはとても楽な方法。楽だけど、とても苦しいし、元々がマゾっぽい性質だとしても、そこに自由はないし、幸福感もない。成長もない。

この間、それを主治医に指摘された。

もう何年も同じことを言われている。同じループから抜け出せていない。

自分の限界というか、抜け出せてない現実というか。

甘えるな。成り行きのまま同じ考え方をして、めそめそするな。いい加減学べ。

そんな言葉を直接言われたわけではないけど、結局はそういうことだ。

同じように悲しんで、同じように卑屈になって、同じように負のループに埋もれる。そういうのを卒業したい。

もう少しましで、少しでもまともな人間になりたい。限界とか言う前に、何とかならないか。

そのために必要なのは、同じ失敗をしつつも、反省の仕方を変えることだ。

「自分が悪い」と結論づけるまえに、何か他にないか考える。人のせいにするわけではなくて、もっと現実的な結論を出せないか考える。悲しみに引っ張られて、「自分のせいだー!」ってなる前にすることがないか立ち止まる。

本当は、自分の性格なんてそうそう変えられるものじゃないと思う。

変えたくて変えられるなら、誰も苦労しない。悩まない。自己啓発的な本も売れない。

どうしたものだろうと、なかば嫌になっているのも事実。自分は変わったとこっそり思っていたところもあって、主治医の意見にがっかりしたのも事実。これ以上できんわ!と思っているのも事実。

でも辛いできごとに、「自分のせいだ」と言ってるうちは、自分の本来の苦しみもなくならないと分かっている。

私は変わりたい。
私は、変わる。

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