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電車内のすれ違い2

今日も、アーシュラ・K・ル=グウィン『文体の舵をとれ』を読んで、文章の練習。

〈1〉ふたつの声
Part 2
別の関係者ひとりのPOV(point of view)で、その物語を語り直す 再び三人称限定視点

まだ歳若い女性が慌てて電車に乗りこんできた。顔を赤くさせて、ふうふうと息を弾ませている。外は随分暑いらしい。電車の冷房が心地よいのか、乗り込んだ途端、どこか気抜けした様子だ。若いなと思ったが、大学生くらいに見えなくもない。本当は自分の娘と同じ年頃かもしれないと、彼は思った。電車の発車間際にまた一人、今度は女子高校生が走り込んで来た。危うく先程の女性と女子高校生はぶつかりそうになり、お互いびっくりしたような、ぎこちない空気が流れ、それでも今どきの子たちらしく、するりと視線を外してすれ違った。さすがだなと彼は感心して見ていた。「危ないじゃないか」とか、「邪魔」とか、女性や女子高校生がなにか言っても良さそうな場面だが、淡白なものだ。電車は発車し、梅雨の最中の昼下がり、誰もが蒸し暑さに疲れている。彼もまた心地よい冷房にうとうととしかけた時、ガタンと重たいものが落ちる音がした。何事かと思って見渡すと、先程の女性がカバンを取り落とし、荷物をこぼしてしまったようだった。女性は焦って周りに立つ乗客たちに頭を下げ、揺れる車内で苦労しながら、細々した荷物をカバンに拾い集めている。水筒がころころと彼女の指先で遊ぶようにあっちへこっちへと転がる。ありゃ大変だと、彼は思った。散らかった荷物は雑多なものばかり。筆箱やら、メガネケースやら、書類の入っていそうなクリアファイルやら、首から下げるIDカードやら……。ということは、あの女性は、どこかの務め人なのか。だとすると、娘より年上だ。彼は顔を耳まで赤くして荷物をかき集める女性を、座ったままただ眺めていた。やがて彼が下車する停車駅が近づき、アナウンスが流れ始める。外は暑そうだ。この涼しく快適な車内から出るのは、億劫以外なにものでもなかったが、仕方がない。彼もまた務め人であり、営業で外回りをしていただけなのだから。座席から立ち上がり、ドアに向かうと、女性の拾い忘れと思われる筆箱が、ポツンと落ちていた。ペンが二三本入れば一杯になりそうな小ぶりなものだ。周りの客たちも気づいているはずなのに、誰も筆箱の存在を彼女に知らせようとしない。世知辛い世の中だ。彼は腰をかがめて筆箱を拾い、荷物を拾い終わって、ドア付近の隅でほっとしている様子の女性に、筆箱を差し出した。女性は初め、ぽかんとして彼と筆箱を交互に見ていたが、自分のものだと気づくと、ありがたき幸せと言わんばかりに、頭を下げて差し出された筆箱を受け取った。こういう素直な人間はとても気持ちがいい。彼は満足して、電車を後にした。


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