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ニュー・オーダー小論

ニュー・オーダーのニュー・オーダー

神の手に触れられて。「タッチド・バイ・ザ・ハンド・オブ・ゴッド」(87年)は、ベス・B監督(スコット・Bと共同制作・監督したリディア・ランチ主演のノー・ウェイヴ系探偵映画『ヴォルテックス』(81年)で知られる)によるテレビ伝道師の世界の深い闇を戯画化して暴いた映画『サルヴェーション!』のサウンドトラック盤においてニュー・オーダーが発表した楽曲である。コラボレーター/リミキサーにはニューヨーク・エレクトロ・サウンドの帝王、アーサー・ベイカーを迎えて、パーカッシヴなトラックにオーケストラヒットをちりばめた、ほのかにラテン・フリースタイル調のサウンドに、ヨーロッパ的な叙情が香るしっとりとメロディアスな歌心を織り交ぜた、ハイ・クオリティなシンセポップ曲へと仕上げられている。
メンバーがそれぞれに様々な問題を抱えていてバンドの内外が常にゴタゴタしていた時期にも拘わらず、80年代中盤から後半にかけてのニュー・オーダーは、信じらないほどに歴史的な傑作を連発しいてる。この楽曲もそのうちの一曲(リリース時期が少しズレていたため、編集盤の『サブスタンス』には収録されていない)である。アーサー・ベイカーが制作に参加した84年の「夢盗人」とは、「罪」と「赦し」として対をなす一曲と目することもできるであろう。
神の手といわれてもちょっとピンとこないが、仏教でいうと称名(ナムアミダブ)によって極楽浄土から来迎した阿弥陀如来に突如として捉えられる感じであろうか。そう考えると、特に信仰がなくてもグッとくるものがある。のだが、この楽曲のMVを見ると、そういったことは一瞬にしてもう全てどこかに吹っ飛んでいってしまう。この何処か厳かささえ漂う秀麗な楽曲で、ニュー・オーダーの面々は、なぜかヘヴィ・メタルな髪型と衣装で、飛び跳ねたりステージに寝転がったりアンプを投げつけたりとまるでLAメタルのポイズンを思わせる派手なアクションを繰り広げるのである。
音楽と映像が全く噛み合っていなくて(主調として繰り返されるヨーロッパ的なクラシカル風味のリフは重厚さがあり、広義にはハード・ロック的と受け止められないこともないとは言えるが)、もう何がしたいのかてんで分からない。というか、ただただ普段の自分たちが絶対にやらないようなことを(ちょうどいい機会だがら)やってみたかっただけのようにも見える。そして、それ以上でもそれ以下でもないとしか思えない。たとえ深読みをしたとしても、ニュー・オーダーのことだから実は何もないのだろう。あえてその線を狙って、あらゆる意味を探る行為を撹乱させる戦略として、既成のイメージやニュー・オーダーらしさから正反対へ踏み出ようとしてみたということなのであろう。あえていうならば、ニュー・オーダーのニュー・オーダーによる脱構築である。
神の見えざる手といえば、『国富論』のアダム・スミスである(実際には、その手が神のものであるとはスミスは述べていないらしい)。ルックスにあまりインパクトのないアーティストは、視聴者からのヴィジュアルの需要と市場へのイメージの供給のバランスをとるために、見えざる手によってヘビメタ風のコスチュームを着付けられるくらいがちょうどよいというような業界の暗黙のセオリーみたいなものを揶揄しているのだろうか。
音楽そのものよりも映像の出来を重んじる傾向にあった、極めてアメリカナイズされたMTV文化への皮肉として、ちょっとやり過ぎなくらいに見栄えにテコ入れしてみたMVを敢えて撮ってみたのだろうか。誰もが売れるためにルックスを重視していた時代に、全世界のブラウン管にバカバカしい映像を供給してシニカルな笑いのマトとなったという時点で、あれはあれで成功であったのかもしれないが。
サッカーW杯イタリア大会に出場するイングランド代表の公式応援歌「ワールド・イン・モーション」(90年)のMVでは、なんの脈絡もなくバーナード・サムナーはエルヴィス・プレスリーのコスプレで登場し、いつになくハイ・テンションな様子でオープンカーを運転していたりする。サッカーの世界でキングといえば、ペレやベッケンバウワー(もしくはカズ)のはずなのだが、なぜエルヴィスであったのだろうか。ニュー・オーダーのセンスは、とても謎めいている。
ジョイ・ディヴィジョンがニュー・オーダーになった時、このバンド名がドイツの独裁者アドルフ・ヒトラーによって構想されていた第三帝国の新秩序を思わせるという多くの指摘があった。それ以前のバンド名やシングルのジャケットのアートワークなども度々ナチスとの関連性を指摘されていた過去があり、バンドのメンバー(特に故イアン・カーティスとベルナルト・アルブレヒトことバーナード・サムナー)がナチ・シンパであるという疑惑は常について回っていた。
だが、そうしたナチス風のイメージを匂わせたり身の周りにまとわせるようなことは、もしかするとあまり見栄えの良くないタイプの彼らにとってはコスプレやなりきりといった一種のプレイ(遊戯)に近いものであったのかもしれない。実際には、その対象は遊び感覚で手を出していいものでは決してないのだけれど。エルヴィスとヒトラーは決して並列ではない。
だが、少し角度を変えてみれば、往時のナチ党の支持者もほとんどは決して特別な人などではなく、どこにでもいる普通の人であったことを、目に見える形にする試みとしての(パンクな)なりきり遊戯であったのだと考えられなくもないであろうか。あの暗い時代を生きた人々もまた、今を生きるわれわれと何も変わらぬ(暗い)近代社会においてごく普通に息苦しさを感じながら生きていた市民であったのだろうから。

ニュー・オーダーというバンドは、いつもどこか思わせぶりである。それは、彼らにとって何か大切なものを護ろうとして、生来の不器用さゆえにそうなってしまっているようにも思えるし、ただ周囲からの勝手な思い込みをはぐらかすのが好きでそうなっているだけのようでもある。
何かあると思わせていて、実は何もないような。でも、よくよく考えてみると、そのまた裏をいっているようにも思えてくる。真意や本質を露わにせず隠匿することに、このグループの真意や本質の部分があるようにさえ見えたりもする。
しかし、そんな裏も表もどちらもものすごく深いようでいて、実はかなりのらりくらりと成り行きまかせな面もあるのではなかろうか。新秩序を打ち建て構築してゆくような前のめり感はニュー・オーダーには実際のところ微塵もないし、どこか全面的に他力本願的でなのである。そして、バンドの本気がどこにあるのかさえも一度として掴めたためしがない。
それでも、何か困難や障碍があればすぐにでもキャリアを終わらせてしまいそうな雰囲気は常々あるというのに、はた目には至極ふんわりとしていてあまりバンドらしくないバンドをもう40年近くも続けている。ニュー・オーダーがニュー・オーダーであるということも、もはやコスプレやなりきりに近い遊戯の一部となってきているのかもしれない。
自力で道を切り開いて前に進み続けることは、膨大なるエネルギーを必要とする。だが、端っから他力であるのならば、運命と偶然に任せてただ流されているだけでも、その漂よう動きがそれすなわち前進ということになってしまったりするものである。そして、その全ては周りからもたらされる他力次第でしかないから、あれこれとそれについて思い悩まされることもない。
唯一無二のカリスマ性をもったひとりの若者の死によってもたらされた、突然の大きな名声と約束された成功。ニュー・オーダーは最初から不安定に揺れるスターダムの上に立たされていたバンドであった。まだ何も持たず、何の準備もできていないにも拘わらず。その知名度と評価に対して、音楽性も技量も全く追いついていなかったのが、紛れもない実情であった。
だがしかし、あの圧倒的なまでに高度なレヴェルで高純度の真と美が凝集した「アトモスフィア」や「ラヴ・ウィル・ティア・アス・アパート」の後で何を歌うことができるであろうか。
ぎこちない歌と演奏による、ぎこちない音楽。ぎこちなくスタートしたバンド活動は、イアン・カーティスの永遠の不在をドラマーのスティーヴン・モリスのガールフレンドであったジリアン・ギルバートをギター兼ヴォーカルの助っ人として迎えることで埋め合わせて建て直されたものの、それでもまだ相当にぎこちないものであった。
そんなニュー・オーダーのメンバーの姿勢や佇まいは、現代社会において非本来的なぎこちない生き方しかできない者たちからの熱烈な支持と共感を静かに集めるものでもあった。その決然とありのままのニュー・オーダーらしさしか表出しないうつろでぎこちない作品は、オルタナティヴであることや孤立しインディペンデントであることを全面的に肯定する、時代の賛美歌のようにさえ響いた。
そして、そんなバンドの存在と作品は、時代を超えて多くのオルタナティヴ・ロックやインディ・ロックのアーティストにも影響を及ぼしたのである。既存のロック・バンドの枠を最初から大きくはみ出していたり逸脱していたという点において、ニュー・オーダーはポストロックの草分け的存在であったのかもしれない。
アンダーグラウンドのディスコやナイトクラブは、現代の厳しい競争社会に適合できなかったあぶれ者たちの吹き溜まる場(アジール/逃避場/シェルター)であった。そこには、いつもニュー・オーダーのシングル曲がDJによってプレイされるダンスフロアがあった。エレクトロ/ヒップホップからハウス、テクノ、トランス、エレクトロニカ、ビッグ・ビート、エレクトロクラッシュ、EDMまで、どのスタイルのダンスフロアにおいても、ニュー・オーダーの楽曲はダンサーたちに愛される不滅のアンセムとなっていた。勿論、所属レーベルのファクトリーが経営(オーナーはニュー・オーダーのメンバーであった)していたマンチェスターのナイトクラブ、ハシエンダにおいても。

89年に発表されたアルバム『テクニーク』は、折からのアシッド・ハウス・ブームに触発されたダンス・ミュージックの新解釈によって享楽と情動が混濁するポスト・アシッド的なんでもあり感覚に染め上げられたバレアリック・サウンドを生み出した、地中海に浮かぶリゾート地、スペイン領バレアレス諸島のイビザ島に滞在して制作される予定の作品であった。しかし、スタジオ作業そっちのけでアムネシアやパチャといったナイトクラブに夜な夜な繰り出して遊び呆けていたせいで、アルバムの完成には程遠い状態で用意していた予算をあらかた使い果たしてしまい、無念の帰国をする羽目となる(その後、ピーター・ガブリエル所有のリアル・ワールド・スタジオを借り、さらなる莫大な製作費用を費やしてアルバムは完成する)。そんな曰く付きの身をもってダメ人間っぷりを体現したアルバムゆえにか、社会不適合者やあらゆる除け者たちが吹き溜まるダンスフロアのもつ眩いばかりの光と底の知れない闇の部分の両義的性質が、湿り気ゼロのカラリとしたダンス・ビートとギター・ロックの彩り豊かなミクスチャー・サウンドで浮き彫りにされた、稀代の名盤になっている。
このアルバムのタイトルは、マルティン・ハイデガーが第二次世界大戦後に展開した独特の批判的かつ創造的な技術論(講演論文『技術への問い』など)をどこか思い起こさせる。ハイデガーといえば、1933年4月から翌年4月にかけてフライブルグ大学総長の座に就いており、当時独裁体制を確立したばかりであったナチ党政権下で大学組織の長として積極的に改革に取り組んだことで、ヒトラーのナチズムの政策に積極的に加担していたと後に告発され大きな論争を巻き起こしたことでも有名である。しかし、そのことについては当人は戦後に一切を語らず、最期まで沈黙を貫き通した。その生き様というか人としての姿勢には、ジョイ・ディヴィジョン/ニュー・オーダーとナチズムの関連性がなんとなくずっと曖昧なままにされているところと妙に似通ったものを感じてしまったりもする。

いくつかの予期せぬハプニングや偶然の幸運が、これまでのニュー・オーダーの歩みにおいて、大きな転換点や前進の契機となっている。
80年9月、元ジョイ・ディヴィジョンの三人は、初めて大西洋を越えてアメリカ東海岸の三都市で四公演を行う11日間の小規模ツアーに臨んでいる。まだニュー・オーダーとしては三回しかステージに立っておらず、ジリアン・ギルバートも加入していない段階での海外ツアーであった。イアン・カーティスの死を乗り越えてやっとの思いでアメリカに渡った三人であったが、その異国の地の大都会でツアー用の演奏機材を運搬車からごっそりと盗まれるという不運に見舞われている。
しかし、そこで何もかもを失ってしまったからこそ、ようやく初めてニュー・オーダーというバンドの活動が始まったともいえる。盗まれた機材は戻らなかったが、その代わりに時代の最先端をゆく街で新しいシンセサイザーや電子楽器をしこたま買い込んだ。帰国後の最初のライヴ、地元マンチェスターのザ・スクワットでのステージは四人体制での初パフォーマンスとなった。
その翌年の11月には約一ヶ月をかけて北米大陸を縦断するツアーが行われ、再び因縁の地であるニューヨークを訪れている。そこで四人は公演の合間にダンステリアやファンハウス、パラダイス・ガラージといったナイトクラブに足繁く通い詰め、プレリュードやウェスト・エンドからリリースされるニューヨーク・ディスコ・サウンドやブロンクス発祥のエレクトロ・ファンク、そしてクラブDJたちがイタリアからの輸入盤でこぞってプレイしていたイタロ・ディスコと出会うことになる。
バーナード・サムナーは、ジョイ・ディヴィジョン時代から基板などのキットを揃えて自作のシンセサイザーを組み立てて使用していたようである。そして、悲運や不運に見舞われ続けた日々は、かえってニュー・オーダーを本格的にエレクトロニック・サウンドへと急接近させてゆく後押しともなった。こうした追い込まれた状況での迷いのなさや決断を間違わない肝の座り具合というのは、とにかくいつだって他力であらんとするところからくるものなのであろうか。いくつもの偶然と新しい出会いが、ニュー・オーダーをニュー・オーダーらしい方向へと導いていった。

まだ彼らがワルシャワと名乗っていた頃(77年7月18日)に、新人のパンク・バンドを探していたRCAに売り込むためのデモ・テープが制作された。このデモ録音に際して、色々とバンドの面倒をみたのがリチャード・シアリングである。この人物は、70年代前半からウィーガン・カジノのボールルームでDJを務めていたノーザン・ソウル・ムーヴメントの立役者の一人であり、当時はマンチェスターのクラブ、ペンジュラムを拠点に活動していた。また、DJ業の傍ら60年代のレアなソウルやR&Bを再発するインディ・レーベル、グレープヴァインのリリースにも携わっており、RCAがこのレーベルの制作配給を行っていたことから、シアリングが両者をつなぐ仲介役を買って出たといわれている。
イアン・カーティスとスティーヴン・モリスは、以前からよくペンジュラムに遊びに行っていたようで、リチャード・シアリングとは顔見知りの間柄であった。ノーザン・ソウルやディスコ・ダンサー、ジャズ・ファンクのディープなグルーヴの世界に日頃から親しんでいたワルシャワのメンバーが、よくありがちな破壊衝動的な面を強く打ち出したパンク・バンドのスタイルを目指していなかったことは、こうした逸話からも明らかであろう。
翌78年、俗にRCAセッションズと呼ばれるお蔵入りになったアルバムのレコーディングが行われた(ワルシャワのデモ・テープが審査を通ったのだ)。この時に録音された「インターゾーン」(後にジョイ・ディヴィジョンの『アンノウン・プレジャーズ』に再録音ヴァージョンが収録されることになる)は、ノーザン・ソウルのダンスフロアでは定番曲であったノーラン・ポーター(N・F・ポーター)「キープ・オン・キーピング・オン」(71年)のサウンドを焼き直ししたものであることはよく知られている。おそらく、入れ知恵をしたのは、やっぱりリチャード・シアリングなのであろう。
70年代後半、時代はノーザン・ソウルのラギッドからスムーズなジャズ・ファンクへと移り変わりつつあった。レヴェル42、ライト・オブ・ザ・ワールド、ベガー&カンパニー、インコグニート、ハイ・テンション、セントラル・ライン、アトモスフィアーなどの良質なバンドが続々と登場し、ブリット・ファンクは一大ムーヴメントとなる。ジョン・ロッカ率いるフリーズもその渦中から登場したバンドであった。
フリーズは、80年に自ら設立したレーベル、ピンク・リズムから「キープ・イン・タッチ」でデビューし、シャープでキレのある演奏がべガーズ・バンケットの目に留まり契約を交わした。そして、83年にアーサー・ベイカーをプロデューサーに迎えたニューヨーク録音のアルバム『ゴナ・ゲット・ユー』をリリースしている。このアルバムからは世界的なディスコ・ヒット「I.O.U.」が飛び出した。ファンハウスの人気DJ、ジョン・ベニテス(ジェリービーン)とベイカーの懐刀、ジョン・ロビーがミックスに参加したこの楽曲は、今なおエレクトロ・クラシックとして高い人気を誇っている。
ニュー・オーダーがアーサー・ベイカーをプロデューサーに迎えたニューヨーク録音のシングル「コンフュージョン」をリリースしたのも83年であった。パンクとジャズ・ファンクと出自は違うものの、二つのバンドは同じ時期に同じ場所に流れ着いていたことになる。早くからシンセサイザーを積極的に導入し、細かく刻まれるミニマルで機械的なビートを身上としていたジョイ・ディヴィジョン/ニュー・オーダーは、もっとジャズ・ファンク寄りのバンドとして世に出ていたとしても、全くおかしくはなかったのかもしれない。しかし、演奏能力というものが圧倒的に欠如していたため、パンクの門を叩くしかなかったのが本当のところだったのではなかろうか。
ニュー・オーダーの最初期には、ジョイ・ディヴィジョン時代から引き続いてマーティン・ハネットがプロデューサーとしてバンドの音作りに力添えをしてくれる態勢がとられていた。独特な音響制作によってサウンドのリアリズムを先験的に形にし、それをさらにリコンストラクトすることでサウンドを超現実的レヴェルにまで強化してゆく、この奇才プロデューサーが後見となっていたこともあり、装飾を削ぎ落としたポスト・パンク的なシンプルなバンド・サウンドと素の歌声(メロディ)がくっきりとした輪郭をもって浮かび上がる、ありのままの人間的実存性を表現するニュー・オーダーの音楽様式の土台が、早くから構築されていた。
そして、ロック史上において最も人間というもの瑣末さや非力さというものを真正面からまざまざと刻印してみせた驚愕のデビュー・アルバム『ムーヴメント』が生み出されたのである。全体的にゆるくダブ処理されているサウンドが、感情面や精神面の揺らぎと見事にダブって聴こえてくる「エヴリシングス・ゴーン・グリーン」。これなどは、80年代初頭のニュー・ウェイヴ時代に発表された数多の作品の中でも最も群を抜いて白眉といえる代物である。まさに、あの時代ならではの「どれがほんと」的な感触をもつ唯一無二の音に仕上がっているのがよい。

史上最も多く売れた12インチ・シングルといわれる「ブルー・マンデー」がリリースされたのも83年であった(この「史上最も」の称号に関しては諸説ある)。二十世紀の最後期に、音楽の歴史を変えてしまうほどの強烈なインパクトと影響力を放った楽曲である。だが、エレクトロニックなビートがひたすらに反復し、全体に平坦でまるで短歌のような短いセンテンスからなる歌が詠じられて、コーラスの盛り上がりらしきものはそこに一切ない。最初から最後まで全く普通ではない作風だ。なのに、なぜか決して色褪せることはない魅力がある。いまだに未来の世界のヒット曲のようにさえ聴こえるのである。
ジョルジオ・モロダーがプロデュースしたドナ・サマーの「アウワ・ラヴ」、リミニのマリオ・ボンカルドとニューヨークのトニー・カラスコがコラボレートしたイタロ・ディスコの代表的なヒット曲であるクレイン&M.B.O.の「ダーティ・トーク」、パトリック・カウリーによる飛び交うシンセ演奏がハイ・エナジーなエレクトロニック・ディスコ・サウンドで武装したシルヴェスターの「ユー・メイク・ミー・フィール(マイティ・リアル)」などの楽曲の要素をパズルのように組み合わせて混ぜ合わせ、そこにクラフトワークの『放射能』から「ウラニウム」をサンプリングして添えたものが「ブルー・マンデー」である。そのサウンドの成り立ちをサムナーやフックは、過去のいくつかのインタヴューで種明かし的に語っている。
84年、シカゴのジェシー・サンダースとヴィンス・ローレンスは、自ら設立したレーベル、ジェス・セイより「オン・アンド・オン」をリリースしている。これはシカゴにおいて発生したハウス・ミュージック、つまりシカゴ・ハウスを初めてレコード盤化した作品として知られている。だが、「オン・アンド・オン」には歴史がある。80年代の初頭、マック名義で同名の作品が出ているのである。これはジョルジオ・モロダーのミューニック・マシーンやドナ・サマー、リップス・インクなどのディスコ・ヒットをメドレー形式でつなぎ合わせたブートレッグのメガミックス盤であった。誰が作り、誰がレコード化したのかも定かではない。サンダースたちは、これを元ネタにしてプレイヤー・ワン「スペース・インヴェーダー」のトラックとベースラインを土台に使い回して模倣しリメイクしたのである。
こうした元ネタありきの制作作業は、クラブDJたちによって70年代半ばごろから活発に行われていた。自らのDJプレイで自分だけが使用する音素材として、一定のビートをループさせたディスコ・ブレイクス、人気の楽曲でダンサーたちをより熱狂させるための特別なリエディット・ヴァージョン、複数の楽曲を立て続けに聴かせるメガミックスなどが盛んに作られていた。だが、それらは、それぞれのDJがナイトクラブにおいて必殺の秘密兵器としてプレイするものであったために、あまり公にされたり作品として発表されることはなかった(大抵は、オープンリールのテープに録音されていて、それをブース内でプレイしていた。中には、スペシャルなアセテート盤を作るDJもいた)。ニュー・オーダーの面々は、ナイトクラブに繰り出して(もしくはハシエンダで)DJがプレイする、決してダンスフロア以外では聴けないそうしたクラブ・プレイならではの音源に日頃から接していたのであろう。そして、スタジオでシンセや電子楽器をいじり回しながら、習作的にそうしたものを作って遊んでいたのではなかろうか。それが「ブルー・マンデー」へと発展してゆくのは時間の問題となる。
それまでDJがナイトクラブという世界と文化の内部で実験的(もしくは必要に迫られて内職的)に行っていたことに、正式に自らの名を冠して作品としてリリースしてしまったところに、ニュー・オーダーやジェシー・サンダースが持っていた型破りな創造性の感覚と時代を先取りした革新性を見てとることができる。そして、そこを起点として、ロック・バンドとダンス・ミュージックの距離は極端に近くなったり、新たにハウス・ミュージックの歴史が開始されたりしたのである。

90年、バーナード・サムナーは、ザ・ビート・クラブの「セキュリティ」という楽曲のリミックスを手がけている。サムナーがリミキサーとして仕事をすることは決して多くはない。これは、その数少ない作品のうちのひとつである。ザ・ビート・クラブは、オニー・ロドリゲスとマレイヤ・ヴォールズからなるマイアミを拠点に活動していたエレクトロニック・ダンス・ユニット。クールなユーロ・ディスコ調の「セキュリティ」は、88年にフロリダのローカル・レーベル、ピサズ・レコードよりリリースされた。だが、耳ざといDJたちがこれを見つけ出し、こぞってプレイしたことによって、瞬く間にダンスフロアで話題になり、後にアトランティックのようなメジャー・レーベルを筆頭にチャンピオン、ベース、XYZなどの数々の欧米のレーベルからライセンス盤が再リリースされるなど、世界的な大ヒットを記録した。当時、アシッド・ハウスやバレアリック・サウンドで大きな盛り上がりを見せていたイビザ島のナイトクラブでも頻繁にプレイされていたはずである。おそらくアルバム『テクニーク』の制作途中であったニュー・オーダの面々も、そこで毎晩のようにこの楽曲を耳にしていたに違いない。
そして、ニュー・オーダーのマネージャーであったロブ・グレットンが運営するレーベル、ロブズ・レコードが、サムナーの手がけたリミックス・ヴァージョンを収録したシングルを企画して、カタログ・ナンバー一番でリリースしたのである。ロボット時代の愛のコミュニケーションを主題としているような楽曲であるため、オリジナル版は機械の無機的な表情を強調した、どちらかというと硬質でラフな仕上がりのエレクトロ・サウンドであったが、90年代という新たな時代に生み出されたリミックス版は、高品質にきっちりと作り込まれたユーロ・アシッド・ハウス的なエレクトロニック・サウンドにアップデートされている。基本的には微妙にサウンドやビートの手触りが少しばかりリッチな感じに変わったぐらいで、アレンジや展開などに関してはそれほど大きく改変されているわけではない。
しかし、このリミックス・ヴァージョンでは、最後の最後になってなぜかバーナード・サムナーが何とも呑気にホニャホニャと歌いだしてしまうのである。あの朴訥としてどこか自信なさげに淡々とメロディを口ずさむだけの歌が滑り込んでくるだけで、それはもう完全にザ・ビート・クラブの曲のリミックスではなくなってしまい、まるでニュー・オーダーの新曲のようになってしまうのが凄まじい。特になんの変哲も無い歌なのだが、だがそこが逆に強烈な個性となっている。まさにサムナーにしか歌えない歌といえるだろう。故イアン・カーティスのスタイルをなぞるところから始まって、とてもとても遠いところにまで到達したように思える。

92年に長年所属していたレーベル、ファクトリーが倒産し、97年にメンバーがオウナーを勤めていたナイトクラブ、ハシエンダが閉店した。ファクトリー消滅後のニュー・オーダーは、メジャーのレコード会社、ロンドンと契約し、度重なるメンバーの変動と活動休止の時期を挟みながら、現在は78年にダニエル・ミラーが設立した老舗インディ・レーベルのミュートに籍を置いている。
07年、ワルシャワ時代からのオリジナル・メンバーであり、独特なベースの演奏スタイルでニュー・オーダーのサウンドを所謂ニュー・オーダーらしいものにする目立ったアクセントのひとつを作り出していたピーター・フックが、ほとんど袂を別つようにしてバンドを脱退した。リヴェンジなどの課外活動で自信をつけたフックは、サムナーを中心とするバンドとなりつつあるニュー・オーダーの一員でいることに、少しずつ物足りなさを感じるようになってきてしまっていたのかもしれない。だが、しかしというか、それでもというか、もはやフックがいてもいなくても、ニュー・オーダーのニュー・オーダーらしさにはあまり大きな影響が及ぼされることはない、というところまできてしまっていたようだ。誰かメンバーがいなくても、それだけでは変わるようで変わらないバンドに、いつしかニュー・オーダーはなってしまっていたようなのである。つまり、もはやサムナーが歌えば、バックのメンバーがもしもア・サータン・レイシオの面々であったとしても、それはきっとニュー・オーダーらしいものとなってしまうのである。ギルバートは家庭を優先するために一時期バンドを離れ、その穴埋めにフィル・カニンガムが加入した。その後、ギルバートは戻ったものの、今度はトム・チャップマンがフックの後任として加入した。サムナーとモリス以外のメンバーは様々に入れ替わってはいるが、ニュー・オーダーのバンド・サウンドそのものには大きな変化はない(カニンガムもチャップマンもフック脱退を受けてニュー・オーダーが活動休止中であった時期にサムナーが結成した新バンド、バッド・ルーテナントに関わっていたミュージシャンである。ともに現在はシャドウパーティのメンバーとしても活動している)。
ずっと、なんとなく強いこだわりもなくやってきたようにも見えるニュー・オーダーというバンド。その緩さや拘泥のなさ、そしていい意味でのいい加減さこそが、いつしかニュー・オーダーの強みとなっていったのではなかろうか。だからダラダラといつまでも続けていられるのかもしれない。いつまで経ってもこれといった目覚ましいほどの上達や技術的な向上はなく、力を入れすぎず、できる範囲のことを気負いなく、音楽というものにあまり大きな期待をせずにやってきたからこそ、ニュー・オーダーは今のニュー・オーダーへと、まさにそうなるべくして形作られていったに違いない。

電気グルーヴのピエール瀧が麻薬取締法違反で逮捕され、所属レコード会社のソニー・ミュージックはこれを受けて、すぐさま電気グルーヴ関連の音源や映像の出荷配信を停止し在庫も回収するという発表をした。すると、坂本龍一がこうした過剰な自粛の動きを問題視するツイートを投稿し、多くのいいねが寄せられ拡散されて大きく波紋が広がった。その呟きの締めの部分には「音楽に罪はない」という一文があった。音楽がコカインや大麻を使用したわけではない。それは確かだ。だが、罪はないというのは本当だろうか。
基本的にエレクトロニック・ミュージックというものは、とても罪深い音楽なのではないだかろうか。電子音響を合成するシンセサイザーは自然(ピュシス)にはないサウンドを生み出し、サンプリングやリミックスの文化とともに発展し、パロディや剽窃やカットアップやリサイクルも日常茶飯事で、演奏しないでボタンを押すだけ、あとは機械にすべて任せて時折ツマミをいじったりしていればよい。
電子楽器とは演奏する機械であり、電気仕掛けのマシーンである。『欲望の資本主義2019』でマルクス・ガブリエルは、マシーンの語源はギリシャ語のメカネーであり、これは策略を意味する言葉であると話していた。エレクトロニック・ミュージックとは、それ即ち策略であり、ピュシスを不自然なものへと変形させることによって成立している。
ニュー・オーダーのアルバムのタイトルとなったテクニークという言葉の語源は、ギリシャ語のテクネーである。マルティン・ハイデガーによれば、テクネーとは、ものに備わる本来的な真理や本質をあばきだす(アレーテイア)ことである。技術を用いることによって、自然の状態ではものの中に隠匿されていた本質が暴かれ、何かが出来上がる(見えるようにされる)のである。
テクネーを駆使した制作(ポイエーシス)の作業が高度なものとなってゆくと、次第にそこには余計なものが付け加わわるようになる。つまり、そこに滑り込んでくるのが、メティス(知恵/狡知)なのである。過剰なまでのポイエーシスの追求は、ギリシア人にとって は悪しき労働とされていた。本質を暴くだけでなくそれ以上のものを見えるようにしてしまえるポイエーシスは、勤勉かつ積極的な労働と結びつくことで技術(テクネー)を高めてゆくことにもなるだろう。それは人間にとって計り知れない利益をもたらしもする。だが、度を越して利益を追求することは、大いに問題含みなことなのだ。そんなメティス的労働の最たるものとして見なされていた高利貸などの貸金業は、近世に至るまでずっと忌み嫌われる存在であった。
楽器の弾けないミュージシャンと自称していたピエール瀧、そしてライヴでのぎこちない演奏でさえもがほとんど機械まかせだと揶揄されていたニュー・オーダー。こうした存在こそが、古代ギリシャの時代から変わらぬテクネーやメカネーを最大限に駆使した策略と狡知の権化であるといってもよいのではなかろうか。
電気グルーヴには偉大なる先達であるニュー・オーダーに対して(さりげなくもミエミエに)オマージュを捧げた楽曲「N.O.」(94年)がある。オールドスクールなテクノ・ポップ調をわかりやすく伝承した軽妙なサウンドに、意味がありげでなさげな結局のところ何の解決にも結論にも到達しない歌詞がのる。まさに躁状態でスポーンと抜けきったサムナーが、意味もなく「フォー」とか「ウッ」と調子っ外れな奇声を発しまくっているときの、世界に渦巻き社会を覆い尽くしている些事の数々には目もくれないような達観しきった境地にあるニュー・オーダーを連想させる一曲である。
この「N.O.」を演奏する際、担当楽器のないピエール瀧は、真面目に歌う石野卓球の傍らでせっせと綿菓子を作ったりしている。ザラメ糖を綿菓子機に投入し、割り箸にふわふわの綿をグルグルと巻きつけてゆく。綿菓子機は機械(マシーン)であり、ここではメカネー(策略)そのものの実践がパフォーマンスされている。しかし、ザラメを白い綿状の菓子にすることは、砂糖の本質を露わにすることであって、これは正しいポイエーシスであるとも考えられる。ただ、ごく少量のザラメから、その何十倍もの体積に膨らんだ綿菓子を出現させる技術(テクネー)は、大いにメティス的でもある。綿菓子を作るピエール瀧は、「N.O.」という楽曲を通じて電気グルーヴに影響を及ぼしたニュー・オーダーがかなり罪深い存在であることを、誰の目にもよく見える形であばきだす役割を果たしていたのではなかろうか。
05年のアルバム『ウェイティング・フォア・ザ・サイレンズ・コール』と13年発表の姉妹盤『ロスト・サイレンズ』のタイトルにあるサイレンという言葉は、その語源を遡ってゆくとギリシア神話に登場するセイレーンへと行きつく。これは、美しい歌声で航行する船の船員を魅了し難破させ一人残らず喰ってしまう半人半獣の怪物だ。トロイア戦争に参加し木馬作戦を企て勝利を収めた英雄オデュッセウスは、故郷へ帰る苦難に満ちた船旅の途中でセイレーンの棲む海域を通ることになる。ここでオデュッセウスは、お得意の策略をめぐらせて狡知によって(自然を支配し)危機を切り抜ける。
これらのアルバムは、ギルバートが家族との時間を作るためにバンドを離れ、カニンガムが新加入し、ゴタゴタの末にフックが脱退した時期のものであり、バンドはなかなか新作のレコーディングに取りかかれずにいた。それでもニュー・オーダーは、セイレーンの歌声による呼びかけを待ちわびて、策略に陥り海に身を投げ波間に消えたセイレーンを追想してさえもいるのである。これはつまり、(現代版オデュッセウスたるサムナーが)まだまだ策略を駆使する場と機会を求めていることの表明であり、機械(メカネー)任せの罪深い音楽活動への意欲を前面に押し出した現役続行宣言であったのだともいえそうだ。
アーティストの反社会的行為を受けて当該アーティストの関係した作品の販売や配信を自粛するのはちょっと行き過ぎではなのではなかろうか。元東京都知事の舛添要一は、この一件に関して「芸人はマージナルマンである」とツイートしていた。古くから大道芸人や役者、音楽家、傾城などは社会の外側にはじき出された被差別民(アウトサイダー)であった。日本では河原者や非人であり、彼らはメティス的な知を駆使して一流の芸を生み出していったのだ。庶民はそれを見て聴いて大いに楽しんだが、基本的にはそれは卑しく罪深い行いであるともみなしていた。藝術とは、そもそもそうした社会の内と外の境界や周縁地で、そこに生きるものたちによって生み出されるものだ。そこでは一般的な社会のルールがそのまま通用することはない。今回の件では、音楽そのものが現行の刑法上の罪を問われているわけではないので、作品はシロだと擁護する声が広く受け入れられつつある。だが、音楽というものが全てなにがしかの神聖かつ罪のない真っ白なものであり、絶対的に善であるとされてしまうと、やはりなんだかとってもつまらない。
親鸞の悪人正機説に照らし合わせれば、罪深いものほどよく救われる。神の手で触れられて、清いものよりもそれはより清くなるだらう。そして、罪深きエレクトロニック・ミュージックは、それを聴く者たちをも罪深き愚者にするとともに大いなる救いをももたらしもするのである。そこに、もはや慈悲は示されない。神は御身の名を名乗らない。唯、エレクトロニックな称名のみがある。愚禿たれ、さらば許されん。


☆本論のあらまし
「レコード・コレクターズ」2019年6月号、「ジョイ・ディヴィジョン/ニュー・オーダー」特集にニュー・オーダーに関連する記事(「型破りな創造性と時代を先取りしたニュー・オーダーの革新性」)を書いた。まず様々な論点を盛り込んだメモを書いて、ぼんやりと全体像を思い描きながら原稿に取り掛かったのだが、あまりにも様々なものを盛り込みすぎたせいか、序盤のあたりをラフに書き連ねていっている段階で、これはもう規定の文字数に収まりきらないことが早々と判明したので、急遽構想を練り直した。そして、特集用の原稿には、当初のメモ書きの後半部分の論点のみが使われることとなった。本稿は、その特集原稿用のオリジナルなコンセプトとして書き散らかされたメモをもとに、改めて原稿の全体像を再構築してみたものである。おそらく発表されなかった前半部分を加えて、分量は倍以上になっていると思われる。ただ単にだらだらと長くなっただけのような気がしないでもないが。どうかお許しを。


【追記】1983年のエレクトロ

83年に発表された、ともにアーサー・ベイカーをプロデューサーに迎えてニューヨーク録音がなされたダンス・ヒット曲、フリーズの「I.O.U.」とニュー・オーダーの「コンフュージョン」。この二曲の似通っている部分は、驚くべきことに決してそうしたバックグラウンドに限られた話ではない。なんとなくMVも妙に近い雰囲気のものに仕上げられているのである。
「I.O.U.」のMVでは、レコーディング・スタジオの裏口のドアから出てきたフリーズのメンバー、ジョン・ロッカとピーター・マースの二人が、街中でBMXを乗り回すキッズたちに次々にカセット・テープを手渡している。このキッズたちは街角のあちこちでブレイクダンスを踊っているストリート・ダンサーたちが所有する巨大なラジカセにフリーズのメンバーから託されたカセット・テープを勝手にセットして再生ボタンを押して逃げ去ってゆくのである。そして、気がつくと街中のストリート・ダンサーたちがフリーズがキッズたちを使って撒き散らしたカセット・テープの音源に合わせてブレイクダンスしているという事態になる。つまり、フリーズがスタジオで録音し終わったばかりの「I.O.U.」をカセット・テープにダビングして配布して、ダンスするビートに強いこだわりをもつブレイクダンサーたちの反応を見たということなのであろう。結果は大成功であった。アーサー・ベイカーのエレクトロ・ビートは、まんまとダンサーたちを魅了したのである。
その後、今度は出来上がったばかりのプロモ盤シングル(スタジオでカットしたアセテート盤だろうか)を手にしたフリーズのメンバーがスタジオから出かけてゆく。行く先は、アンダーグラウンドなダンス・パーティの会場である。すぐさま出来立ての「I.O.U.」のシングル盤がDJの手にフリスビー状にトスされて渡り、ターンテーブルに載せられる。レコードに針が下され「I.O.U.」のイントロがプレイされると、その場にいる全員がDJブースの方を向いてレコードを一斉に指差すというMVの冒頭のシーンにつながるという構成となっている。そのパーティに来ていたほとんどのダンサーたちは、もうすでに昼間のうちに街角に置いた巨大ラジカセから大音量で流れるその楽曲を聴いていたし、散々ブレイクダンスしていたのである。いつの間にかラジカセに入っていたカセット・テープで耳にしていた「I.O.U.」が、いきなりDJによってレコードでプレイされたので、一斉に「あの曲は、これだ」とダンサーたちの注目が集まったのだ。こうして、フリーズの「I.O.U.」は、最初にプレイされたその日からブレイクダンサーたちにとってのパーティ・アンセムとなったというわけである。
おもしろいのは、フリーズのメンバーがパーティの会場に向かう際に、建物の外側の非常用ハシゴを階下へと降りてゆくシーンである。普通に建物内部の階段を使っていないところを見ると、このパーティはスクワット(不法占拠)した建物の地下階で開催されているアンダーグラウンド・ダンス・パーティであるという設定なのではなかろうか。そこには思い思いにダンサーたちが身体を躍動させるストリートと連動した良質のダンスフロアがある。「I.O.U.」という楽曲は、こうしたポジティヴなストリート・カルチャーのシーンから生み出されたのだということを、フリーズのメンバーたちはこのMVで表現したかったのであろう。
片や「コンフュージョン」のMVでは、冒頭から狭いレコーディング・スタジオのブースの内部でノリノリになって黙々と作業をするプロデューサーのアーサー・ベイカーの姿が映し出される。するとちょうど作業が終わったのか、オープンリールのアナログ・テープが全て巻き戻されて、立ち上がったベイカーが完成したばかりのテープのリールを手にして、スタジオのブースを後にする。これがミックスと編集を終えたばかりの「コンフュージョン」が出来上がった瞬間である。テープを持ってタクシーに乗ったベイカーは、賑やかな夜のニューヨークの街を移動する。行く先は、ウェストエンドのチェルシー地区にある人気のナイトクラブ、ファンハウスである。
それと時を同じくして、一人の若い娘もナイトクラブへと向かっている。マンハッタンのピザ・スタンドで忙しく働いているが、シフトが終わり退勤すると急いで家に戻り、シャワーを浴びておめかしをし、スポーツバッグに着替えのTシャツや踊りやすい靴を放り込み、家族に白い目で見られながらも夜の街へと遊びに繰り出すのだ。途中、友達と待ち合わせをし、一緒に地下鉄に乗り込んでウェストエンドを目指す。
彼女の自宅の部屋にはディプロマを取得した免状が飾られているが、どうやらその先の大学へは進学はしていないようだ。イタリア系(もしくはヒスパニック系)の家庭のあまり裕福ではない経済環境が映像の端々からもうかがわれる。学校を出て若い頃から毎日朝から晩まで働いて、唯一の楽しみといえば週末の夜に遊びにゆくナイトクラブでのダンスぐらいしかないという生活なのであろう(映画「サタデイ・ナイト・フィーヴァー」の時代よりも、より経済格差が広がり一度ドロップ・アウトしてしまった若者たちの明日はさらに見えないものとなっているようだ。実に身につまされる)。そんなささやかな愉楽に飢えた若者たちが集まるナイトクラブであるからこそ、最高のDJと最高のダンス・ミュージックが最低限そこに備わっていなくてはならなかった。エレクトロ・ファンクのビートを生み出したベイカーには、そうしたダンサーたちが求めるものに応え続けなくてはならない一種の使命感のようなものがあったのかもしれない。
そして、ニューヨークのライヴハウスでの公演を終えたばかりのニュー・オーダーの面々も、ライヴ直後のテンションの高さからかメンバー同士でふざけ合いじゃれ合いながらファンハウスへと向かうのである。タクシーでナイトクラブの目の前に乗り付け、ドアマンたちの間をすり抜けて四人が店内へと乗り込んでゆく。もうその頃には、まるでピザの配達でもするかのようにテープを抱えて携えてきたベイカーは、ファンハウスのDJブースに到着していて、当時若者たちに絶大な人気を誇っていたスターDJのジョン“ジェリービーン”ベニテスに出来立てホヤホヤの「コンフュージョン」を託している。テープを受け取ったジェリービーンは、すぐにそれをオープンリールのテープデッキにセットしてプレイする。満員のファンハウスのダンスフロアでは、あのピザ屋で働く若い娘が日頃の憂さを晴らすかのようにバキバキにキレのよいダンスをぶちかましている。
誰もが初めて耳にするものであったであろう「コンフュージョン」のエレクトロ・ビートで、ファンハウスのダンスフロアが沸騰しそうなくらいの盛り上がりを見せているところに、タイミングよくバックルームでの取材を終えたニュー・オーダーの四人がDJブースに到着する。小柄なジェリービーンを囲むように四人が立って、新曲の「コンフュージョン」で熱狂するファンハウスをとても満足げに眺めている歴史的な瞬間を映像に収めたところでMVは終了となる。
どこか似通ったところのある二つの楽曲のMVは、当時のストリートでのプロモーションやクラブでのヘヴィ・プレイが最新のダンス・ヒットを生み出す重要な役割を担っていた流れのようなものを、わかりやすく映し出している。まだインターネットが一般化されていなかった80年代、既存のラジオやMTVといったメディアとは異なる経路で草の根的にヒット曲が誕生する流れがあった。そのような流れの舞台となっていたのが、ストリート・ダンスが行われている街角やナイトクラブのダンスフロアであったのだ。それはまだ実力のある音楽プロデューサーや人気DJが、野心をもって新たな時代の音楽を作り出して行ける時代でもあったということでもある。そこでは、ジェリービーンのようなスターDJをはじめとして、最先端の踊れるサウンドを嗅ぎ分ける能力に長けたクラブDJたちが実に大きな役割を果たしていた。ダンサーたちが集まるナイトクラブは、ベイカーのような音楽プロデューサーにとっては、最新楽曲を出来立てのアセテート盤や編集用のテープのまま持ち込み、それをクラブDJにテスト・プレイしてもらってダンスフロアの反応を確かめる作業を行うために、なくてはならぬ場所でもあった。こうしたテストを幾晩も繰り返すことで、よりダンサーたちを熱狂的に踊らせることのできる楽曲が形作られていった。さらにDJは、いまだ正式にはリリースされていない楽曲のプロモーション盤(プロモ盤)をプレイすることで、その真新しい楽曲の前評判を高める一種のストリート・プロモーション活動の一端を担ってもいたのである。ナイトクラブのダンスフロアは、新たなダンス・ヒットを作り出す製造工場であるとともに、最新のダンス・サウンドが日々追求される大いなる実験場でもあった。
「I.O.U.」と「コンフュージョン」のどちらのMVにもDJプレイの場面が登場するのは、決して偶然の一致などではない。エレクトロ・ファンクは、クラブ文化やDJ文化と密接に結びついた音楽スタイルであったのだ。そして、「I.O.U.」や「コンフュージョン」といった楽曲は、ジェリービーンのDJプレイでブレイクダンスするようなダンサーたちからの圧倒的な支持がなければヒット曲にならない楽曲でもあった。ふたつのMVは当時のアーサー・ベイカーのサウンド・プロダクションが、しっかりと時代の流れの趨勢を捉えていることを証立てするような内容でもあった。それは、まさにクラブDJがラジオ・スターを凌駕する瞬間そのものを映し出していたのかもしれない。
ジェリービーンは、常にダンスフロアのダンサーたちと真剣勝負していた。ジェリービーンのDJで思い切り心地よくブレイクダンスできなければ、ダンサーたちはダンスフロアから潮が引くように引き上げて、ファンハウスも当代随一の人気ナイトクラブの座から一気に陥落することになる。ダンサーたちにしてみても手を抜くことなくブレイクダンスしてダンスフロアを常にホットな状態に保っていなければ、DJのジェリービーンから最高のプレイを引き出すことはできない。そして、新しいサウンドと新しいビートをダンサーに提供したジェリービーンは、多くのエレクトロ中毒者の足をダンスフロアに釘付けにしたのである。その中には、両親に白い目で見られながらもファンハウスに通い詰めるあのピザ屋の娘のような若きパーティ・アニマルも数多く含まれていた。なんの楽しみも未来への希望もない、味気ない毎日。若き情熱をダンスに傾けるしかないうたかたの人生。その週末の夜が輝かしいものになるかどうかは、全てジェリービーンのDJプレイの腕前にかかっている。ゆえに、そのキレやフレッシュネスを鈍らせるわけには決していかない。当代随一のジェリービーンの看板は、週末の夜のダンスフロアに集まるダンサーたちを心底楽しませる義務と責任を負って掲げられているのだから。


【補足】アーサー・ベーカーとニューヨークのダンス音楽

エレクトロ・ファンクという新時代のサウンドを生み出したアーサー・ベイカーは、80年代以降のニュー・ヨークのダンス・ミュージックにおける最も重要な人物のひとりとなった。当時のベイカーの周辺には、ジェリービーンやラテン・ラスカルズ(アルバート・カブレラとトニー・モラン)などの人気クラブDJがおり、エレクトロ・ビートの時代に彼らはその活動の領域をDJとしてだけでなく、リミキサーやアーティスト兼プロデューサーといった分野へも広げてゆくことになる。すでに「I.O.U.」と「コンフュージョン」のミックスには、ジェリービーンも携わっていてベイカーを補佐しているし、また当時はマドンナ・ルックと呼ばれたチープでチャラチャラしたファッションで旋風を巻き起こしていたポップ・スター、マドンナのプロデューサー/リミキサーとしても全世界から注目を集める存在となっていた。アーサー・ベイカーの多くの作品でエッジの立ったエレクトロ・サウンドを際立たせる神技的なエディットを施すエンジニアとして、大いにその腕をふるっていたラテン・ラスカルズは、86年にニュー・オーダーが発表したシングル「ビザー・ラヴ・トライアングル」でもその特異なアグレッシヴすぎるエディット技術をいかんなく披露している(プロデューサーは、シェップ・ペティボーン)。また、ベイカーが81年にプロデュースしたノースエンドの「ハッピー・デイズ」でダンスフロア向けのミックスを行なっていたのは、DJのティー・スコットであった。そのインストゥルメンタル・ヴァージョンには「ティーズ・ハッピー」という特別なタイトルが付けられていて、まさにティー・スコットの代表作ともいえるようなクラブ・クラシックとなっている。そんなティー・スコットがレジデントDJを務めていたナイトクラブ、ベター・デイズでは、ブルース・フォレスト、シェップ・ペティボーン、デイヴィッド・モラレスなどの多くの若手DJが腕を磨いていた(彼らはみなのちにダンス音楽業界で大成する)。その中には、ジェリービーンの弟分的な存在であったルイ・ヴェガ(のちにケニー・ゴンザレスとマスターズ・アット・ワークを結成する)もいた。DJのロバート・クリヴィリスが、ブース内で即興演奏のセッションを行うキーボード奏者のデイヴィッド・コールとコンビを結成したのも、ティー・スコットのベター・デイズにおいてであった。クリヴィリスとコールは、C&C・ミュージック・ファクトリーとして世界的なヒット曲を生み出すことになる。そして、後に音楽プロデューサーとしてダンス・ミュージック・シーンで活躍することになる多くのヒスパニック系の若者たちが、ベイカーのスタジオで修行時代を過ごしていたようだ。ベター・デイズのDJでもあったジュニア・ヴァスケスを始めとして、フアン・カトー、セヴィン・フィッシャー、ベンジー・カンデラリオ、ヴィクター・シモネリ、レニー・ディー、フランキー・ボーンズ、ロジャー・サンチェスなどの面々が、ベイカーが音楽制作をしているスタジオでテープの編集などの作業をアシスタントとして行なっていたという。彼らはほとんどみなDJとしても活動をしていたため、スタジオで働き機材に精通することは、自分のDJプレイのための特別なエディット・ヴァージョンを手がける際などに大いに役立ったものと思われる。そして、その能力は、のちにリミキサーやプロデューサーとして活動してゆくための基礎にもなっていった。こうしたエレクトロ期にベイカーの周辺にいた若い世代のDJたちは、長じて80年代後半から90年代にかけてのニューヨーク・ハウス・シーンを牽引してゆくサウンド・クリエイターとなってゆくのである。

(2019年半ばから後半ごろ)

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