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人類学とデザインの気まずい関係 (Anthropology and Design) #270

パーソンズ美術大学のTransdisciplinary Designでデザインを学んでいます。選択科目で「Anthropology and Design」という授業を受講していたので、その学びをまとめてみます。

歴史をざっくり振り返る

人類学とデザインの歴史をそれぞれ簡単に振り返りながら、この二つがどのように近づいていったのかを見てみます。

人類学の歴史

1922年にブロニスワフ・マリノフスキが『西太平洋の遠洋航海者』を上梓したことなどによって、文化人類学の基本的な方法論とされるフィールドワーク(参与観察)やエスノグラフィーが一般的になりました。

ブロニスワフ・マリノフスキ@トロブリアンド諸島

また、フランツ・ボアズらによって文化相対主義が唱えられ、「全ての文化は対等である」という人類学の基本姿勢も生まれていきました。

デザインの歴史

現代のデザインの起源は産業革命にさかのぼります。機械でモノが大量生産できるようになってからウィリアムモリスによるアーツ&クラフツ運動を経て、アーツ&インダストリーという芸術と産業の両立を目指す今のデザインの原型が誕生しました。

第二次世界大戦以降は全体主義への反省があらゆる分野に広まった流れを受けて、デザイン界もデザイナーのアイデアを形にするよりもユーザーの声を取り入れるのが主流になっていきました。そのため、ユーザーを知るためにエスノグラフィーをするようになったり、UXがデザインの対象になったりしました。

デザインと人類学の交流

ビジネスの現場では1970年代頃からPARC(Palo Alto Research Center)をはじめとして、デザイン思考やビジネスエスノグラフィーなどを通して顧客のニーズを的確に把握したプロダクトやサービスを生み出すという手法が生まれ、デザインと人類学の交流が少しずつ始まります。2010年代頃からは『Design Anthropology: Theory and Practice』(2013)や『Designs for the Pluriverse』(2018)、『Ethnography by Design』(2019)が出版されるなど、アカデミアの領域でもデザインと人類学のコラボレーションが本格化します。

ただし、デザインと人類学のコラボレーションがビジネスやアカデミアでも進むようになった中で大きな壁としてあるのは、デザインと人類学はまったく異なるアプローチを採用している点です。というのも、人類学はできるだけ観察対象の文化に影響を及ぼさないように心掛ける一方で、デザインはユーザーが抱える問題を解決しようとするという違いがあるのです。むしろ、この違いがあるからこそお互いに必要としているとも言えますが。

ただ、ビジネスやデザインの文脈でエスノグラフィーが使われるようになった歴史はまだ浅く、万人が合意する方法論が定まっていないのが現状です。そのため、人類学者の中には「従来のエスノグラフィーしかエスノグラフィーと認めない」という人もいれば、「新しい方法でもエスノグラフィーだ」という人もいるようです。


暗黙の上下関係を越えるための当事者性

「する側」と「される側」

介入したがらない人類学と介入したがるデザイン。両者は相反するように思えますが、実はどちらも「主体と客体が分かれている」という共通の前提があります。人類学は「観察する人ーされる人」という関係、デザインは「問題を抱える人ー解決する人」という関係があるということです。主体と客体の関係を前提とした時、そこには力関係の非対称性・暗黙の上下関係が存在しています。

たとえばビジネスで人類学やデザインを使う場合、リサーチと称してユーザーを観察したりインタビューをしたりした後、リサーチ結果を踏まえてプロダクトやサービスを改善します。しかし、ユーザーには謝礼としていくらかのお金を渡すだけで、このリサーチのおかげでプロダクトやサービスを改善して得られた利益はリサーチをした会社のものになります。リサーチで得られたインサイトですら企業秘密として共有されないのです。

「される側」の不快感の体験

ところで、私はNew York Zen Centerに最近通っているのですが、先日テレビの撮影クルーが来ていました。カメラマンと音声さんのペアで坐禅や法話の様子を撮影していたのですが、この時に私は「撮影する」ということによる関係の非対称性を意識することになりました。

彼らは本来は居てはいけない場所にも縦横無尽に動き回り、ベストな撮影スポットを探し続けます。もちろん坐禅が始まっても撮影は続き、私が坐禅をしている姿を私の斜め前から撮影もしていました。彼らが歩き回る音や気配は目をつぶっていても分かるものです。それでも彼らはまるで自分たちが存在していないかのように振る舞っていました(少なくとも私はそう感じました)。

でも、彼らは無視するのは無理な話。先生は法話の中で「自分のことを客観視する自分を意識しましょう。まるでテレビのカメラマンのようにね」と言ったり、カメラに向かって手を振ったりしていました。「カメラはいないものとしていつもどおりに」と建前ではわかっていても、本音では気になってしまうというのが人間の性です。

テレビ撮影は坐禅や法話の様子を撮影することで禅の修行の様子を記録しようとしています。でも、私からすれば「いくら外から撮影していても実際に坐禅した時の感覚はわからないだろうな」と思い、なぜか不快感を覚えていたのです。これはきっと「撮影する側ーされる側」という関係性を感じたからだったのだろうと今では思います。

当事者として関わり、対等な関係を目指す

さて、人類学もデザインも主体と客体という暗黙の上下関係があるとするならば、どうすれば対等な関係を築けるのでしょうか? それに対する答えの一つとして、当事者として関わるというアプローチがあります。

たとえば、上平崇仁さんの『コ・デザイン』などはデザイナーの当事者性を論じていると解釈できるでしょう。Transdisciplinary Designの講師であるJohn Bruceは、映像作品のために取材をするのではなく、映像作品をつくるというプロセスを通して他者と関係を築くというアプローチを採用しています。私はこうしたアプローチを「共に生きるデザイン」と呼んでいます。

「観察するーされる」「デザインするーしてもらう」というベネファクティブな関係を越えて、ともに同じ方向を見る関係性が模索されているのが現状なのでしょう。暗黙の上下関係になっていないかを自らに問う姿勢を肝に銘じておきたいものです。

『What is Transdisciplinary Design?』

また、この授業ではエスノグラフィーを実践するために「興味があるコミュニティを調べてzineにまとめる」という課題がありました。私は現在在籍しているパーソンズ美術大学・Transdisciplinary Designについてzineをつくることにしました。なぜなら、Transdisciplinary Designの学生という当事者として参与観察をしながら、『パーソンズ美術大学留学記』と題してnoteに毎週の出来事や学びを記録していてピッタリの題材だと思ったからです。

こうして約1年間の参与観察をもとにして"What is TD?"というzineを作りました。ちなみに、色はパーソンズレッド、フォントはHelveticaにしてパーソンズ美術大学のビジュアルアイデンティティと合わせることで、少しでもオフィシャル感のある冊子を目指しました。

「Transdisciplinary Designの定義は与えられるものではなく、一人ひとりが考えていかなければならない」と言われます。この「Transdisciplinary Designとは何か?」という投げかけへの私なりの回答がこのzineになりました。これを読んだ先生や学生は「たしかに書かれている通り」「自分も欲しい」と言ってくれました。それは同じTransdisciplinary Designに関わる当事者である私がつくったzineだからこその反応だったようにも感じました。


デザイナーとして人類学と向き合う

誰もがエスノグラフィーを発信できる時代

マリノフスキーらが人類学を確立していった時代は、一部の人にしか発信力がありませんでした。ヨーロッパやアメリカの学者といった「特権階級」の人でなければ、非西洋文明の情報を伝えることはできなかったのです。非西洋圏の文化が尊重されるようになったのも、フランツ・ボアズやクロード・レヴィ=ストロースといった文化人類学者によって文化相対主義が広まったおかげでもあります。

近代文化人類学の始まりから100年が経ち、当時とは社会背景も科学技術も変化しました。特にここ数十年の変化は目覚ましく、インターネットに繋がれば誰でも当事者の声を世界中に発信できるようになったのです。それも文章だけでなく、スマートフォンによって写真や動画などで記録・発信できるようにもなりました。エスノグラフィーの民主化とも言える時代を今まさに迎えています。

もちろん学問として人類学を学んだ人が部外者として参与観察をするからこそ見える視点もありますが、その視点が人類学を学校で学んでいない人の視点よりも優れているということではないのです。新渡戸稲造の『武士道』や岡倉天心の『茶の本』が日本文化を西洋に知らしめたように、当事者ならではの視点も同様に意味があるのです。

人類学は現代人の「必修科目」

第二次世界大戦を経験した人類は、進歩史観や全体主義への深い反省を促されました。こうして迎えた現代は、レヴィ=ストロースの提唱した構造主義を代表とする相対主義の時代です。グローバル化が進み、異文化理解や多様性の尊重などがますます求められる今、相対主義的な考え方を人類学を通して知ることは現代を生きる私たちにとって必要不可欠だとも思います。

人類学は学問という枠組みを超えて、現代人が身につけるべき生き方のコツの宝庫でもあります。自分とは違う存在の他者とどう向き合えばいいのかという問いへのヒントを授けてくれるのです。自己と他者は違うという前提に立つこと。ただしその違いに上下関係はないということ。実際に相手と同じ体験をしてみること。こうした他者と向き合う心構えや方法を教えてくれます。

デザイナーがエスノグラフィーを使う気まずさ

最後に、デザイナーという立場でエスノグラフィーにどう向き合えばいいのかについての学びを書いておきます。結論を言えば、「新しいエスノグラフィーの手法を考案していこう」という比較的リベラルなものでした。新しいテクノロジーもどんどん出てきているし、参与観察にも限界がある。であるならば、新しい手法で記録すればいいし、ただ観察するだけでなくて積極的に関わっていけばいいという教えでした。その関わり方の一つとして「デザイナー」という立場があり得るということです。

ただ、この授業の先生のように人類学者がエスノグラフィーを語るのはいいとしても、「デザイナーがエスノグラフィーを語る資格があるのか?」という疑問はあります。異分野のものを勝手に拝借して、都合よく「エスノグラフィー」という単語を使っていいものかという懸念です。冒頭で触れたように、人類学者の間でもデザインやビジネスの文脈でなされている学術的な手法とは異なるエスノグラフィーに批判的な立場があることを忘れてはいけません。

今のところ、デザイナーがエスノグラフィーをどう使えばいいのかという問いに「正解」はありません。フィールドワークやエスノグラフィーが人類学由来であることに敬意を表しながらも、人類学的手法に囚われすぎずに新たな手法にも挑戦するというバランス感覚が求められそうです。


まとめ

人類学とデザインの歴史を振り返りながら、暗黙の上下関係を克服するために当事者性が重要になっていることや人類学者以外の人が人類学を学ぶ意味を書いてみました。副専攻として人類学を学んだとはいえ、まだまだ学ばなければならないことが山のようにあると気づいたに過ぎません。これからもデザイナー&現代人として人類学を学び続けていきたいです。

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