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「何もしない」を読む #107

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今回は「何もしない」を読んだ感想を書いてみます。「何もしない」とだけ書かれた究極にシンプルな表紙に惹かれました。

なお、あくまでも個人の感想であり、要約や解説ではないことをご了承の上お読みいただければ幸いです。


はじめに 有用の世界を生き延びる

出版社が一部を公開していますので、お読みいただければ本書の大まかな主張が理解できると思います。

セネカの「人生の短さについて」や、荘子の「無用の木」の逸話などが引用されながら、「無用の用」の思想が本書の中心にあることが示されます。


第一章「何もない」ということ

本書の原題である「How to Do Nothing」というテーマを思いついたエピソードから始まります。また、アーティストとして活動する筆者の作品への向き合い方や、趣味であるバードウォッチングから本書のアイデアが浮かんだことについて書かれています。

「何もない」とは贅沢品でも時間の浪費でもなく、意味のある思考と発話に欠かせない一部なのだ。
自らの手でつくり出せるどんなものよりも、この世にすでに存在しているものに限りない興味を抱いている

また、資本主義の排他性を描いており、これは「人新世の『資本論』」で言及されていた、<コモン>の考え方との共通点が観られます。

公共空間ではそこに滞在するために何かを買わなくてもいいし、何かを買いたいふりをしなくてもいい
公共空間もどきだと、消費者か、その場のデザインを脅かす存在のどちらかにしかならない
なんでもないことに時間を費やすのは正当化できなくなり、時間はすべて経済資源となる

資本主義の無限の価値増殖の流れの中に、人間らしい生活までもが絡めとられて奪われる様子が明らかにされます。この様子を「生きている限りずっと労働と縁が切れない風潮」とも表現しています。

こうした資本主義で生きる私たちはつねに何かを生産することを求められていますが、現実リアルで生きているということを思い出すために「何もしない」時間が必要だと言います。

何もしないでただ耳を傾け、私たちが何者で、どんな時間や場所に身を置いているのか根本から思い出すために休息が欠かせない。

そして、資本主義では使用価値やエッセンシャルワーカーが軽視されていることが、以下のように言われています。

生産性の概念そのものが、新たに何かを生み出すという考えを前提としており、維持メンテナンス やケアが同じくらい生産的だとはなかなかみなされない。

こうした資本主義の生産性至上主義になんとか反旗を翻したいという姿勢が読み取れます。


第二章 逃げ切り不可能

「何もしない」とは、単純に「スマホ依存をやめて生産性をあげる」といったビジネス書あるあるの主張ではなく、生き方そのものを見直す試みです。

デジタルデトックスのためのリトリートなどの企画はたいてい、生産性が上がった状態で仕事に戻るための、ある種の「ライフハック」として商品化されている。
デジタル機器による注意散漫がやっかいなのは、それによって生産性が低下するからではなく、生きるべき人生の軌道から外れてしまう危険性があるということ


資本主義から縁を切る生き方の参考として、古代ギリシャのエピクロスが例に挙げられています(エピクロスについては下記の動画が参考になります)。


ただし、闇雲に資本主義から外れたライフスタイルをすればいいという単純な話ではないとも言います。

(60年代のアメリカの)コミューンの物語が伝える教訓は、世界の政治構造からはどうあがいても逃れられないということだ。(中略)世界はかつてないほどに私に参与を求めている。繰り返しになるが、「やるかやらないか」ではなく「どうやってするか」が問題なのだ。

この「どうやって」の方法として筆者が提案しているのが「距離を取る」という戦略です。以下のように定義されています。

「距離を取る」とは、離脱することなしに、自分だったらどうしていたかをつねに意識して、部外者の視点で考える行為だ。
「距離を取る」というのは、この世界(現在)を、そうなるかもしれない世界(未来)の観点から眺めることであり、その過程で希望を抱き、悲しみに満ちた観想を行うということなのだ。


第三章 拒絶の構造

「距離を取る」方法の実践例が紹介されます。Pilvi Takala(ピルヴィ・タカラ)のパフォーマンスの例からこの章は始まります(パーソンズ美術大学でも講演をしていました。33:00頃から観れます)。

 また、コメディアンのトム・グリーンによる「死んだ男」のパフォーマンスも紹介されています。


そして、最古の「パフォーミング・アーティスト」としてディオゲネスが挙げられています。ディオゲネスはミシェル・フーコーやニーチェにも影響を与えた古代ギリシャの哲学者です。彼の主張する「反転の美学」は以下のような思想に基づいていたのではないかと筆者は考えています。

世の中のいわゆる「まともな」人間というのは、強欲、腐敗、無知が蔓延する世界を支える習慣にとらわれているがために、かえってまともではないのだ

また、「代書人バートルビー」というハーマン・メルヴィルの短編小説でバートルビーの台詞「しないほうがよろしいのです(I would prefer not to do)」を引用しています。更には「市民の反抗」や「森の生活」で有名なヘンリー・デイヴィッド・ソローの生き方も参照します。

人間が法に支配された機械になっている社会では、最低の人間が最高であり、最高の人間は最低な存在だ。

自らの信念に従って生きて、それが法律に反するのならば甘んじて受け入れるという態度は、ソクラテスやガンジーの生き方とも共通していると個人的には思いました。

筆者はある企業で働いていたときに、「身勝手でささやかな抵抗の行為として昼休みを長めにとっていた」そうです。私も、秋学期の間は夜7時以降は課題に手をつけずメールも見ないようにしていたり、土日にミーティングをいれないといった「抵抗」をしていたので共感しました。

「スタンフォード大学カモ症候群」という言葉も紹介されています。学生たちが、「稼げる仕事を獲得するプロジェクトに向けて一分一秒も無駄にできないという冷酷な真実」にいて、「学生のみならず誰もが『アクセル全開』でがんばらなければなら」ないことも指摘しています。

睡眠とは、資本主義が占有できない人間らしさの最後の砦であり、だからこそ睡眠は攻撃にさらされやすいというジョナサン・クレーリーによる指摘の引用も印象的でした。


第四章 注意を向ける練習

ピカソやキュビズムの影響を受けたデイヴィッド・ホックニーや「4'33"」で有名なジョン・ケージに触れながら、「注意と好奇心によって私たちは道具的理解――ものやその機能の生産物として一元的に理解すること――から離れて、それらのものや人が存在するという深遠な事実とむきあうことになる」と主張します。

注意のパターンがかわれば描出される現実も変わる。そして、あなたは別の世界の中で動き、行動しはじめる。

また、デザインスクールで学ぶ身としては以下の一文は見逃せません。

私にとって唯一「デザインする」のに値する習慣とは、習慣的な理解の仕方に疑問を投げかける習慣であり、芸術家、作家、音楽家はそのような習慣を身につける手助けをしている。

最後に、筆者がブラタモリの西海岸バージョンをして、生命地域主義バイオリージョナリズム を紹介します。生命地域主義とは、「観察するということ以上に、それは、地域の生態系の観察とそれにたいして責任を持つことを通して、自分自身をその地域の一部とみなす、土地との一体化を示すもの」です。


第五章 ストレンジャーの生態学

テーマとなるのは、「ぼくたちは今ここに一緒にいる。でも、どうしてなのかはわからない」です。

哲学者のアラン・ワッツは、エゴのセンセーションは幻であり、「自分が皮の袋に包まれたエゴだと思い込む完全な錯覚」だとしている。
バイオリージョナリズムは、何かが浮上することや相互依存について、さらに絶対的な境界などありえないということを私たちに教えてくれる。


第六章 思考の基盤を修復する

SNSの情報は、時間的・空間的なコンテクストの欠如した情報しかないことが指摘されます。ゆる言語学ラジオ的には、イビピーオではないことばかりと言えるかもしれません。


そんな空虚なものに注意を奪われるよりも、意識的に時間や注意を使おうと提案しています。

ものごとを考えたり、話し合ったりするには、「孵化するための時間」(ひとりの時間を持つことや定義づけられたコンテクスト)だけでなく、「孵化するための空間」が欠かせない
(SNSに費やす)その労力を、適切なことを適切な人たち(もしくは個人)に向けて、適切なタイミングで言うことに使ったらどうだろうか。

以下の一文に、本書のメッセージが端的にまとめられています。

私にとって「何もしない」とは、ひとつのフレームワーク(注意経済)から離れることであり、それは考える時間を持つためだけでなく、別のフレームワークでほかの活動に従事するということなのだ。

筆者は、「私は自分の『有意義な時間』について、人にお見せできるものがほとんどない」過ごし方をするだろうと述べます。もっと「生産的な」過ごし方をしないのかと問われたら、「しないほうがよろしいのです」と答えるだろうと締めます。


おわりに マニフェスト・ディスマントリング

「明白な解体」は、「進歩とはやみくもに前を向くことだという考え方を放棄するように私たちに迫る」と主張します。そして、福岡正信氏の自然農法を引用し、「オーバーエンジニアリングと放任のあいだに最高の結果をもたらす領域を見出した」と評価しています。

福岡の「デザイン」とは多かれ少なかれ、デザインそのものを取り除くものなのだ。

また、福岡氏の以下の発言も引用されています。

「人間というものは、何一つ知っているのではない、ものには何一つ価値があるのではない、どういうことをやったとしても、それは無益である、無駄である、徒労である」

ただし、本書ではどう生きるかについて指針を提案することは避けると明言しています。ここで荘子の「無用の木」を再度引用し、筆者自身がすべきと提言するのは「何もない」の一言。ただ世界を眺めていればいいのだそうです。


感想

これまで私がデザインスクールで学んだことや、冬休みに読んできた本を総括するような内容で楽しく読めました。「『デザイン』を解体するデザイン "Undesign Design"」というテーマも面白いかもしれないなと思いました。

ちなみに、こちらから訳者によるあとがきが読めます。より端的な要約が読めるので是非。


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