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2024年6月19日 ほんもののきんにく

一時期、週3で通っていたジムをコロナで辞めてしまい、完全な運動不足になったため、
昨年の6月頃からゆるいジム通いを再開しました。
筋肉というものは、つけるまでにはたいそう、時間と根気が必要なのですが、
運動をやめてしまうとあっという間に落ち、跡形も無く消えてしまうものです。
ですから、昨年度ジム通いを再開した際には、数年前の筋肉貯金はゼロになっていました。
筋トレのマシンを動かそうとしてもほとんど動きません。
おもりが1番軽くても、微動だにしないのです。
ぐっと力を込めてようやく、ゆるゆると動く程度でした。
何度も繰り返すという筋トレとして当然のことがあまりに難しく、
「この機械は壊れているのか?」と思ったほどです。
ありがたいことに車を使わない生活をしているので、
足の筋肉は、しばらく通うと、すぐ戻りました。
足の筋肉を鍛えるマシンは、あまりをひとつ増やしても、何とか動かせるようになったのです。
一方、腕の筋力は足の筋肉以上に落ちていたようで、
動かせるようになるまでにひどく時間がかかりました。
少し動かせるようになると、翌日に猛烈な筋肉痛がくる始末です。
また、トレッドミルで走り出しても、すぐ息が上がり、5分走るのも苦痛なくらいでした。
有酸素運動もしばらくしていないと、ただただ辛いばかりです。
「走ってスッキリする」と思えるまでにはかなりの時間を要しました。

そのレベル、
おそらくはサイコロで言うところのふりだし、
最低レベルの筋肉まで落ちていたところから、
少しずつ筋肉をつけてきました。
最近は、力を込めると少し硬くなり、
見た目も引き締まった感じになってきました。
ですから、
「少しは筋肉がついたのかも…」と浮かれていたのです。

しかし、先日、
動くものを押さえる、
それなりに重みのあるものを運ぶという事象が発生しました。
当日はもちろんですが、翌日からしばらく腕がだるく、筋肉痛でした。
「筋肉がついたかも!」というのは、浅はかな考えでした。
筋トレマシンでつくタイプの筋肉は
少しはついたのかもしれませんが、
「実際に使える「ほんもののきんにく」は、ついていなかったのだ」と痛感しました。
ジムのマシンはおもり変えられますし、
あまりは動きませんし、
自分の都合で動かしたり、やめたりできます。
また、グリップがあり、
足場があり、
座るところがあり、背もたれがあります。
そう言った、用意された環境で、
特にある部分の筋肉だけを使うような機械、
それが筋トレマシンなのです。
しかし、本当に身体を使うと言うことは
そう言うことではない、ということなのでしょう。
もっと複合的で、突発的で
不安定で、ランダムです。
筋トレマシンでつけている筋肉は、
そういう筋肉ではなかったのでふ。
筋トレで感じた筋肉痛とは違う、
もっと全体的でどことはいえない、
でも確かにある筋肉痛がそれを教えてくれました。

漁師や猟師、農業者や牧畜関係者、林業従事者が持っているような、
本当に使える筋肉「ほんもののきんにく」は
おそらく筋トレマシンでつくものではないのでしょう。
明治時代の飛脚の写真や農婦の写真が頭をよぎります。
決して大きくない身体にしっかり筋肉がついていたり、
身体と同じくらいの荷物を背負っていたりする、
写真です。
もしかすると筋肉と言えど、質が違うものなのかもしれません。
実際に山を歩いたり、
グリップのない重いものを持ったり、
背負ったり、
動くものを掴んだり、
そうすることでしか身につかない、筋肉というものがあるのかもしれない…と思いました。
それは、筋肉だけではないかもしれません。
心もそうかもしれない、と思います。
他人と直接話さず、SNSでやりとりや会話をしていると
「自分は、普通に人と話せる」と思いがちですが、
それはSNSで使える「話せる」であって、
生身の人間が向かい合うコミニュケーションができる、
というわけでもないのかもしれないのです。
実際にサーフィンをしたことがないけれど、
ファッションスタイルだけは、それっぽい人のことを
「丘サーファー」というそうです。
筋トレやコミニュケーションにも
「丘筋トレ」や「丘コミュニケーション」と言っても良いような、
それっぽくは一瞬見えるけれども、
その実、体験が伴っていないものがあるような気がします。
出来れば、「ほんもののきんにく」がある人間、
「ほんもののこみゅにけーしょん」ができる人間、
「丘サーファー」でなくて、
サーフィンが上手くなくても、
波に乗ろうとして、波の中に沈んだ経験がある人間になりたい…と思いました。

厳しい自然の中で生きる人たちのように
なれないのは百も承知で、
それでも、ジムやSNSだけでなく、実生活の中でも、身体やコミニュケーションを使っていきたいのです。
そう言う力が、思いもかけない時に(災害時や危険に直面した時)
役に立つのではないだろうか、と感じています。
身体を動かすと言うことが、
本来は生活に根ざしていたものであったこと、
コミュニケーションも生活に必要として発展してきたものであることを
これまでにないタイプの筋肉痛で感じました。
ちなみに、まだ、筋肉痛は続いています。
じんわりとずっと痛いです。
「ほんもののきんにく」
それは、ジムの中でなくて、生活の中にあるのです。



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