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ブラックホールの思い出

書かなきゃいけない原稿がたんまりあるのに、人はどうして誰に読ませるでもない文章を先に書いてしまうのだろう。

すみません、どうでもいい独り言です。

注:このnoteは1本完結ではなく、内容が初めから続いているので、よろしければ「心の中の荷物」から読んでください。
とくにこの項は前回の「ベッドの上で心頭滅却」と繋がってるので、そこから読んでもいいと思います。

さてセクシュアリティの話の続きです。
続きというか背景。

いきなり本題に入るのはややキツいので、またどうでもいい思い出話をしたい。

私は東日本大震災の直後からかなりしばらく被災地にボランティアに通っていたのだが、そうすると現地で何度も顔をあわせる「常連仲間」ができてくる。
年齢も職業も生活背景もバラバラないい歳をした大人たちが寄り集まって、被災地の復興に貢献するためにあれこれ頭をひねって試行錯誤するのは単純に楽しかった。
だいたい他人といっしょに楽しむ趣味でもなければ、社会に出てから純粋な友人を作るのは簡単ではない。その点、復興支援ボランティアはみんな向いてる方向が同じという一点だけで容易く親しくなれる。
だからボランティア仲間はちょっと奇特な友人の集まりみたいなものです。

現地への行き帰りは、公共交通機関が復旧してからは列車やバスを利用していたが、自家用車で向かう常連仲間と都合がつけば便乗させてもらうこともよくあった。

そのときは現地からの帰りに、Gさんという仲間のクルマに乗せてもらって帰京した。
時間は夕方で、車外はどんどん暗くなっていった。

Gさんは普段から早寝早起きで、暗くなると眠くなってしまうという。
でも運転中は流石に寝るわけにはいかない。
それで東北自動車道という高速がものすごく眠くなりやすい。高低差が少なく、ひたすら長い直線が続いたりする。

その車内でGさんは何を思ったのか、私と、もうひとりの同乗のボランティアに、「眠気覚ましに、なんでもいいからエロい話をしてくれ」とかましてきた。
Gさんは男性、私も同乗者も女性だ。

断っておくが、Gさんは決してセクハラをするような人ではなく、真面目で礼儀正しくて優しくて頼りになる、立派な人です。
ただちょっと天然なだけです。

それで私は必死に記憶の糸を辿った。たどりに辿った。
もう一人の女性はそういう話をするタイプではないので、ここは私が話すべきだろうと真剣に考えた。

でもいくら考えても、エロい話がひとつも思いつけなかった。
何ひとつ思い出せなかった。
どう考えても私の海馬に巨大なブラックホールがあって、エロい記憶は自動的にそこに収納されてしまっているとしか思えない。
だって私も一応エロい経験はしてなくはない。はず。

なのにいくら記憶をほじくり倒しても何も出てこない。
「干上がってる」、と自分でも思った。
あまりの乾燥具合に自分で笑いが堪えられないくらい、カラッカラだった。

車中では結局、Gさんが自分で自分のエロ体験(つーても大した話ではないのだが)を話した。
なんだそれは。

オチもついたところで、いよいよ本題に入ろうと思う。
意外にくだらない思い出話が長くなってしまった。

私が生まれて初めて「性」というものを意識したのは小学校1年生のときだ。
ひとりで歩いていた学校の帰り道に、痴漢に遭ったのだ。
具体的に何をどうされたかという詳細にはここでは触れない。ついでに申し添えると、この後に続く類似の性被害体験についても詳細を書くつもりはない。なぜなら、世の中には他人の性被害をズリネタにする変態がごまんといるからだ。
私は人間であって「コンテンツ」ではない。

驚き恐怖に怯えた私は一目散に走って逃げて、帰り着いた自宅にいた母に、ついさっき起こったことを訴えた。泣いていたかもしれないが記憶は定かではない。
すると母はこういって私を叱りつけた。
「あんたに隙があるからそんな目に遭うんだ」と。
私はこう思った。
「あ、この人は私の味方ではないのだ」と。

田舎の6歳の子どもに「隙」も何もあったものではない。

私が生まれ育った町は大企業の工場が多く、当時は、うちを含め他所から引っ越してきた移住者が住む建売の新興住宅地と開発中の造成地と、古くからの町屋や農家の集落や農地とがモザイクのように入り混じり、大きな川が流れ山や森や広大な運動公園もあって海にも面した、一見すると長閑な町だった。
一方で、物理的にも心理的にも死角が多い町だった。
大方の人がすぐ近所に住んでいる人のことをよく知らない。その辺に知らない人がいても誰もなんとも思わない。
共働きの家庭が多く、一人歩きの子どもが珍しくない。学童保育などという制度はまだなかった時代だ。
その環境ゆえか小中高生を狙った痴漢が頻繁に出没していて、何かあるたびに学校やPTAや自治会がポスターや防災無線を使って地域に注意喚起をし、警察や消防団が交替でパトロールもしていた。すなわち痴漢騒ぎは、ヤンキーの万引きや暴走族の迷惑走行と同じような、半ば日常的な出来事と認識されていた。

第三者にとっては「半ば日常的な出来事」であっても、恐ろしく、恥ずかしく、屈辱的な体験をした被害者にとって、そんなものが「日常」だなんてたまったものではない。

私はその後も何度も痴漢の被害に遭い続けたが、母の「あんたに隙があるからそんな目に遭うんだ」という言葉をそのまま鵜呑みにして「全部自分のせいだ」と考え、ほとんど誰にも被害を訴えることなく生きてきた。
いつどこでどんなことがあったか、私はすべて記憶している。忘れようと思っても忘れられないからだ。

アルバイトを始め、社会人になって仕事を始めたら、セクハラにも遭うようになった。
通勤では痴漢、職場ではセクハラ、転職しても異動しても取引先でもセクハラ、出張に行っても、ボランティアに行ってもセクハラ。
私が性被害に遭わずに済む場所なんかこの地上のどこにもない気がした。

そんなバカなとあなたはいうかもしれない。でもこれは事実だ。
たとえば世間的には、痴漢に遭いやすい人は大人しくて抵抗しなさそうな人が選ばれているというイメージが流布している。
私はある朝、混雑した通勤電車で、濃いサングラスをかけ黒の映画Tシャツの上にライダースジャケットを羽織り、迷彩柄のカーゴパンツにレースアップのワークブーツを履いていて痴漢に遭った。それも相当ヘビーなやつだった。以降、私は二度と同じ時間帯の同じ車輌には乗らなくなった。
たとえば大抵の人は、電車の痴漢といえば朝のラッシュ時に発生するものだと考えている。
私はある夜(確か20時前後)、外出先から自社に戻る電車の座席に座っていて、隣に座った乗客にガッチリ身体を触られた。ローカルな路線で車内はガラガラに空いていた。ちなみにこの日の私の服装は黒のジャケットにインナーは濃いグリーンのカシュクール、黒のワイドパンツにパイソン柄で高さ10センチのピンヒールを履いていた。

そこまで痴漢に遭うのは私に何か非があるに違いないと考える人もいるだろう。
だが前述の通り、被害時の私の服装は過度に露出が多かったわけでもないし、人気のないところで無防備な姿態を晒していたわけでもない。
若いころ、大手の取引先との初顔合わせの日に、相応に自分の見え方を意識した装いで出向いたことなら何度かある。そうすればもちろん相手は私の顔やら身体をじろじろ見る。それはそれでこちらの戦略(経験が浅いからと見下されないために外見で圧をかけておく)なので構わない。だがそういう日に、明確にセクハラと判断できる行為をされたり、痴漢に遭ったりしたことはただの一度もない。

ストーカーの被害にも遭ったことがある。
相手は私のまったく知らない人物だったが、相手は私のことを知っていていきなり自宅に押しかけてきたり連日電話をかけてきたりした。最終的にはそれ以上の事態に発展し、このときばかりはさすがに警察のお世話にならざるを得なかった。解決に至るまでは数ヶ月を要した。
知らない人、一度しか会ったことがない人にやたらに付き纏われるといったことは、私にとってはよくあることだった。一大事に至るか否かという程度の問題である。

こんな人生を送ってきた人間がどうなるかというと、当然の帰結として、男性を信用することができなくなる。

私は自分で、そのことに気づくことができなかった。
というのも、私はその辺の他の少女と同じように、同級生の男の子を好きになって手紙を書いたり、バレンタインにチョコレートを贈ったり、いっしょに海に行ったり、年賀状をやりとりしたり、セーターを編んであげたりというごく健全な恋愛を(たまに)しながら10代までを過ごしてきたからだ。

私の男性不信を教えてくれたのは、20代のころに交際していた男の子だった。
都内に住む私と彼の郊外の自宅は電車で1時間以上かかるほど離れていたが、毎回彼は都心まで出てきてくれていっしょに遊びに行ったり、部屋に来てくれたりしていた。
当時の私の仕事は常にスケジュールが過密で毎晩遅くまでの残業だけでなく休日出勤も多く、会う日の都合は彼が私に合わせてくれていた。それがいつも、少し心苦しかった。

先述のストーカー騒ぎが起きたとき、私は自宅を出て近隣の同僚や友人の家を泊まり歩いたり、勤務先の仮眠室に泊まったりしてなるべく自宅に近寄らないようにしていた。警察からそう指示があったからである。
警察はまずこういった。「信頼してしばらくいっしょに過ごしてくれる親族やお友だちはいますか」と。
私は「いません」と即答した。警察は「であれば、当面の間はご自宅にはなるべく帰らないようにできますか。他に泊まれるところはありますか」といったのだ。
まだ携帯電話を持っていなかった私は、彼氏に「当分は家に帰れないから電話はできない」旨を伝えた。ことの成り行きとしてストーカーの件も説明しないわけにはいかなかった。
すると彼は「落ち着くまで俺がそっちに泊まろうか」と提案してくれたのだが、私は言下に断った。あなたにも仕事があるし、うちはあなたの家から遠過ぎる。そんな迷惑はかけられないからと。

ストーカー騒ぎがなんとか収束して、彼と毎晩のように電話をかけあい、ときどきいっしょに出かける生活は戻ったが、ほどなくして私たちはうまくいかなくなった。
どうしてそうなったのかはまったく覚えていないのだが(こういうところが私の人間性の歪なところだと思う)、些細なことで言い争いになったとき、彼は「あのストーカー騒ぎのとき、あなたは俺を頼ってくれなかった。俺を信じてくれなかった。寂しかった。傷ついた」と告白してくれた。
穏やかな性格であまり感情を表に出さない人だったから、そういうことを口に出すのも勇気が要っただろうと思う。私は素直に「申し訳なかった。傷つけるつもりはなかった」と謝ったが、関係が元に戻ることはなかった。

このとき私は、「ああ、私は男の人を信じることができない人間なのだ」という事実を、いやというほど痛感せざるを得なかった。

私と彼は10代のころからの仲の良い友人で、男女交際に至るまでは友だちとして長い間親しくしていて互いのことをよく知っていたし、何より私は彼のことが大好きだったからだ。
好きで好きで、傍にいられるならいま死んでもいい、と思うぐらい好きだった。
その彼にすら、私は心を許すことができなかった。
いつでも私を尊重し、大事に思い、優しくしてくれた彼の心を傷つけてしまったことを、私はいまでも深く悔いている。

私がそんな風に傷つけた男性は、彼ひとりではないはずだ。

それ以降にも男の人と交際したことはあったが、私と相手の間には常に、透明な見えない壁があった。それはもう私自身の手ではどうしようもないことだった。男性と接近すると勝手に身体が、心が、いつなんどきでもすぐに逃げ出せるように身構えてしまう。
そんな女とつきあいたい人なんかいない。
やがて私は恋愛感情そのものを忘れた。
きっと私は、人を愛することができない人間なのだろう。
それはそれでいい。
仕方ない。

けど、私が男性不信になったのは性被害だけが原因ではない。
ここがまためんどくさい話なんだけど。

私が幼いころ、近所に住んでいる同世代の子どもたちはたまたま男の子が多く、私はいつも男の子と遊んでばかりいた。保育園や幼稚園で仲良くなるのも、なぜか男の子ばかりだった。
そのころの私が男勝りな性格だったかどうかはわからない。
単純に事実として、小さいうちは鬼ごっこやら隠れんぼやら探検ごっこやら木登りやらザリガニ釣りばっかりやっていて、その仲間がみんな男の子だった、というだけのことだ。

仲の良かった男の子たちのことは、いまも懐かしく思い出すことが多い。
やんちゃだけど優しくて頭が良くて、私を対等な仲間として受け入れてくれるだけでなく、女の子=まもるべき仲間としてきちんと遇してくれていた。

いま思えば、そういうフワッとした特別扱いが楽しかったのかもしれない。
逆上がりも、縄跳びも、自転車に乗るのも、みんなそういうボーイフレンドたちが教えてくれた。
当時もいまも、そのことにはとても感謝している。

私が男の子とばかり遊ぶのに、両親は相当にがりきっていた。
男の子は危ない遊びをするから心配していたのかもしれない。
実際に危ない目にあったことがなくもないし。

そこで彼らは私を習い事に通わせることにしたらしい。
毎日、学校が終わったらすぐさまクルマに乗せられ、スイミングスクールやらピアノ教室に連行される。それが終わったら家の手伝いが待っている。
大好きな幼馴染みたちと遊ぶ暇なんかすぐなくなった。
うまいこと隙を見つけて男の子と遊んでいても、しつこく「早く帰ってこい」と怒鳴られる。叱られる。

母は私が親戚の男の子と遊ぶことすら忌み嫌った。
子ども心に、彼女が「男の子」を警戒し、極端に見下していることははっきりとわかっていた。
男の子はバカだ。行儀が悪い。言葉遣いが汚い。乱暴だ。
そういう偏見が、彼女の男の子たちへの態度に満ち溢れていた。そこにちゃんとした理由があったことを、いまの私は知っている。でも当時はどうしてなのかはよくわからなかった。
わからないなりに、母のその歪んだ感覚の影響に染まっていった。

そんなこんなで、気づけば私は友だちを全部失ってしまっていた。

結果として、私にとって男の子・男の人といえば、「やんちゃだけど優しくて頭が良くて、私を対等に扱ってくれる人」がスタンダードと勝手に思いこんでしまい、この条件に当てはまらない男の子・男の人は決して信じてはいけない、心を許してはいけない、恐怖の対象になってしまった。

三つ子の魂百までとはよくいったもので、幼少期に刷り込まれたこの固定概念はまずひっくり返ることはないと思う。

それにしても話が長くなってしまった。
続きはまたにします。

(この項には以前別のところに書いた文章を流用した箇所があります。盗用ではないのでご心配なく)





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