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ベッドの上で心頭滅却

注:このnoteは1本完結ではなく、内容が初めから続いているので、よろしければ「心の中の荷物」から読んでください。

暗い話ばかりが続いたので、ちょっと違った側面について書いてみます。

私のセクシュアリティについて。

のっけからぶっこんでんなと思う方もおられるかもしれませんが、そこまでディープな話ではないので安心して(?)お読みください。

最近よく、「性別って何だろう」と考えてしまうことが多い。
医学的には、誕生した際に目視できる外性器の形状で性別を見分けると聞いたことがあるが、この時点ですでに男女どちらかが不明確、というケースは少なくないらしい。これを「性分化疾患」というそうです。

一方、外見的には明確に男女がわかっていても、後に生殖器に障害が見つかることがある。一見して何の問題もないけど、生殖行為ができない。さまざまな症状があって、それらを(ごく大まかに)総合して不妊症という。

外性器が曖昧な形状だったり、生殖行為ができなかったりしても、当事者には明確な性自認があることもあれば、ないこともある。
あるいは、自らの意志で不妊手術や性転換手術を受ける人もいる。

とすると、世の中の人全員が、世間一般でよくいう「生物学的・医学的には男」「生物学的・医学的には女」にスパッと分けられるとは限らない。

それから最近やたら語られることが多くなったLGBTQ+という形の「セクシュアリティ」、性的指向(この解釈ちょっとズレてると思ってる)も多数派少数派あわせて無限に広がりがあることも認知されるようになってきた。

ここでいう多数派とは、性自認が出生時と同じ男性で女性を恋愛対象もしくは性的対象と見做す人、あるいは性自認が出生時と同じ女性で男性を恋愛対象もしくは性的対象と見做す人、シスジェンダーでヘテロセクシュアルの人々を指す。

近代以降、人間社会はシスジェンダーでヘテロセクシュアルしかいない、それ以外の人はいないもの、と設定されて築かれてきた。
要は社会そのものが拡大して軍事化や経済活動が盛り上がれば盛り上がっただけ、効率化が崇め奉られ、多様性のプライオリティはほったらかされたともいえる。と思う。

で、世の中の経済的な豊かさや権威主義の限界点が多くの人の感覚に表れてくる段階に至って、「いや待てよ」と立ち止まってものいう人の存在感が大きくなり、これまで余計なもの、いらないものとして(勝手に)置き去りにされてきた価値観の評価が変わってきたんじゃないかと思う。

それはすごくいいことだと思う。

ここからが本題なんだけど、よく性自認・性的指向は先天的に決定されているという主張がみられるけど、果たしてそういいきれるのか、というのが、最近になって鮮明に感じられるようになってきた。

先天的に決定されている人もいるだろう。
自ら求めてマイノリティになったわけではない、気づいたらどうしようもなかった、だからマイノリティにもマジョリティと同じ人権を保障しなくてはならない。
その主張自体に異論はない。

けど、実際には、てっきり自分は性的にはマジョリティ(シスジェンダーでヘテロセクシュアル)だと思ってたけどよく考えてみたら違った、とか、年齢とともになんとなく変わってきた、という人もいる。

というか、私自身がそうだ。

私は出生時と変わらず性自認は女性で、男性を恋愛対象もしくは性的対象と見做す人、シスジェンダーでヘテロセクシュアルだと思って生きてきた。
初恋の相手も、交際相手もずっと男性だった。

ところがそれで違和感がまったくなかったか、と改めて振り返ると、「ん?ちょっと待て?」。
いや、違和感ありすぎでしょう。
めちゃめちゃ違和感だらけなのに、なぜ全無視した自分?

ということに気づいてしまう。

それが先天的な資質だったかどうかはもう確認しようがない。
ただ、明確なのは、男性を好きになることはあっても、交際していて性的に問題がなかったかといえば山ほどあって、それは誰とどういう交際をしていても変わらなかった、という事実だ。
そもそも交際以前に、誰か男性にアプローチされて、それを(あくまで性的に)クールにフラットに受け止める、ということが、私にはまず不可能だった。

個別具体は脇に置くとして、とりあえず、私自身は男性にしか恋愛感情を抱いたことはない。女性を好きになった経験はない。あくまでいまのところ。

なのに、男性からアプローチされると、反射的に恐怖感を抱いてしまう。ちょっとでもそういう雰囲気を出された時点で全力猛ダッシュで逃げたくなる。実際逃げてきた。逃げきれるかどうかはまた別なのだが。

そんなこんなあって交際することになったとする。
楽しいこともあれば退屈なこともあり、いっしょにいるだけで幸せなこともあれば、うざい、めんどくさいと思ってしまうこともある。
それはみんな同じだと思う。

問題は例の「営み」で、これを「楽しい」とか「気持ちいい」とか「満たされる」と感じたことはただの一度もないということだろう。
私には、このことに対する当事者意識がさっぱりなかった。理由もなく「そんなもんだろう」と勝手に思っていた。

そういう雰囲気になったら相手に合わせてどうにかこうにか乗りきるけど、「営み」中の私の感情は限りなく無の境地に近い。
何も感じない。
感じた記憶が全然ない。
相手が誰でも。
好きで好きで一生そばにいたい、と思った人でも。
この人の子どもを産みたい、と望んだことすらない。

何も感じないうちはまだ良くて、なぜか屈辱を感じることが少なくない。
そういう感情が相手に伝わると、これはもう完全に終わりになる。
誰だって「心頭滅却」状態の相手と抱き合っていても楽しくないし、ぶっちゃけしんどいだけだろう。
私自身は逆の立場になった経験はないから推測するしかないんですが。
そういう気分にさせてしまった方々には、心から申し訳ないと思っている。いやほんとに。マジで。

ここまで読んだ方の中には「恋愛経験が豊富なんだなあ」と感じた人もいるかもしれないが、ここに書いたような経験はギリ30代初めまでの話です。
実をいうと、それ以降は恋愛感情自体が完全に枯渇してしまった。うっかりちょっとでもそういう雰囲気を出された時点で全力猛ダッシュで逃亡一択。

これが世間一般でいう「フツー」とは、ちょっと思えない。

というわけで、私はセクシュアリティという点においてもマイノリティな方なのかな、ということに、最近やっと納得がいった。腑に落ちた。
けど、こういう人って意外と結構いるんじゃね?とも思っている。

私がなぜそうなったか、という話も大事なんですが、長くなってきたのでこの項はこれでいったん終わります。


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