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長い前フリ

過去記事:
ベッドの上で心頭滅却
ブラックホールの思い出
夢見る透明人間

私には恋愛感情というものがなく、人を、とくに男性を信用することがまったくできず、誰かとパートナーと呼べるような関係を築くことができない。

言葉にしてしまうと寂しい話だが、私自身はあまりそうは思ってはいない。

こういうことを自覚して、納得して腑に落ちるのに、ずいぶん長い時間がかかった。

原因の一部分には生い立ちやトラウマが関わっていることは理解できるし、あるいは、もしかすると私自身が生まれつきそういう素地をもっていたのかもしれない。
いずれにせよ、自分で自分を知るということは、言葉でいうほど簡単なことではないらしい。

(詳細は冒頭に上げた過去記事を参照してください。需要があるかどうかわわからないけど)

うつ病と診断され、何年も専門家の治療をうけたり、人の話を聞いたりしていて思い当たったのは、私は自ら自分を無理矢理何かの型に嵌めよう嵌めようとして嵌まらず、そのことに無駄に苦しみ続けてきたのではないか、ということだった。

たとえば幼いうちは、行儀良くなくてはいけないとか、小さい兄弟の面倒をみなくてはならないとか、家業の手伝いをしなくてはならないとか、いい成績をとらなくてはならないとか、男の子に媚を売ってはいけないとか、ごく一般的な「型」に嵌まり込んでいた。
これは私自身の意思というより、両親の意地のようなものに引きずられていただけだ。
この程度のことなら誰でも大なり小なり体験してるんじゃないかなと思う。

私の生育環境が特異だったのは、その両親の意地の権化たる「型」に暴力が伴っていたことだろう。しかも学校でも体罰が横行していた。

私はいつも、その「型」にうまく嵌っていなければ、いつなんどき誰に殴られるか常にビクビクしていた。

かつ、私は両親や教師が押しつけてくる「型」にうまいことするっと嵌まれるほど器用ではなかった。
要領も悪かった。
だからただただ怖くて、俯いて、誰にもみられたくない、触れられたくない、とにかくそっとしておいてほしいと思っていた。
いまもそう思っている。

とはいえ透明人間でもない限り、人間はどうしても他人と関わりあっていかなくてはならない。
面倒だが仕方がない。
そしてその相手が、思わぬ凶器を隠しもっていることもある。

凶器はあるときは悪意であったり、差別意識だったり、性的欲求だったりする。
何にしたって理不尽な凶器であることに違いはない。

中でもとくに私の人格に大きな影響を及ぼしたのは、性被害だった。

過去記事にも書いたが、私は物心ついたころからしょっちゅう痴漢の被害にあっていた。
父親は何かというと私の身体を触りたがり、性的なジョークでからかっては勝手に楽しんでいた。
部活では同性の先輩が同性の後輩に肉体的なセクハラをはたらいていた。
アルバイトを始めたら必ずセクハラにあった。
就職してもセクハラにあった。
転職しても、出張にいってもセクハラにあった。
ボランティアにいってもセクハラにあった。

こうして書き出してみると散々な人生だなと自分でも感心する。
そりゃうつ病にもなる。
男性恐怖症にもなります。

長くなってきたのでこの稿はここまでにしておくが、次はこのnoteを始める動機となった「ボランティアでのセクハラ」について書こうと思います。


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