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映画『チャレンジャーズ』──ファイヤー & アイス with ゼンデイヤ


ああ、大声で叫びたい。今すぐに。「テニスについてはあまり知らないけれど、人の欲望についてならよく知っているよ」とルカ・グァダニーノ監督は言っているが、彼のフィルモグラフィーを追いかけている人なら、この言葉に一切の偽りがないとわかるだろう。子供から大人になる過程で、社会という三角形の中で欲望に折り合いをつけなければならないこと、監督はそのシステムをよくわかっている。

ホテルのシーンを思い出してみてほしい。アートとゼンデイヤ(役名では呼びません)が泊まっていた高級ホテルのシーンではなく、アートとパトリックが禁煙室なのにタバコを吸いまくっていたホテルのシーンだ。誰もがそのかけがえのなさに気付けないまま、ただ漠然と目の前を通り過ぎるだけの、あの最高にどうでもいい瞬間。ずっとこのまま続けばいいのにと思うが、ノックの音が聞こえたら、大人にならないといけない。ホテルの扉の前で待っているのは社会そのものだ。

ああ、いやだいやだ。そんなものは観たくない。社会の三角形を視覚的に再現するショットの連続に息が詰まりそうになるーーが、そうならないのが本作。建築物のようにデザインされたショットの中で繰り広げられるのは、いちいち挙げていったらキリもないし、書いたらアホらしくなるレベルの性表象の連打、躍動する若い肉体と滴る汗への揺るぎない信頼、キスやセックスの描写よりも、力を入れるべきは登場人物がわちゃわちゃしていることだとわかっている演出。これが観たかったと悶え続けるあまりに官能的な2時間。『木下グループジャパンオープンテニス2024』の1列目、7日間のパッケージシートの値段は73万なのだが、それに匹敵するものを2000円で鑑賞できる映画文化はなにかがおかしい。そして、それが日本では客入りが厳しいのもさらにおかしい。IMAX上映もないし。アニメ版の『チャレンジャーズ』が公開されることを期待しよう。

本作のファーストカットはテニスコートだ。アスペクト比「1.85 : 1」、アメリカンビスタのスクリーンもそのままコートのようだ。シングルス、ダブルス、真ん中に立ちはだかる巨大な壁としてのテニスネット、ここにはルールと歴史がある。高い位置から見下ろしながら判定を下す主審、ボールがラインの内側か外側か、セーフかアウトかを確認する線審、実際のスポーツやファッションブランドのロゴ、スポンサーである企業の目線もまた、コートに集中している。これがピラミッドのある世界だ。こんなところでテニスをして何が楽しいのだろうか。ジュニアの大会とは大違いだが、これが大人になるということらしい。本当に?

観客の視線はテニスボールの動きに合わせて、右と左に行き来を繰り返し、三角形の構図を作る。アートとパトリックの目の前にゼンデイヤが現れてから、本作はつねに三角形の構図を意識させる。試合の休憩中、ゼンデイヤが席から立ち、画面の外にいなくなると、すかさずアートとパトリックの間には審判(ちなみに演じているのはゼンデイヤのアシスタントのダーネル・アップリング)が割り込み、三角形の構図になる。ふたりにはなれない。

それは車とキス(そう、キスシーンは車と撮るべきなのだ)を描いたふたつのシーンにも言える。ゼンデイヤとアートがキスをしていると驚くような高音が耳に飛び込んできて、音をする方を見てみるとそこにはゴミ捨てをしている店員がいる。一方、風なんか吹かせば吹かすほどいいとわかっているゼンデイヤとパトリックのキスシーンも、後ろのポスターの中にはアートがいる。法律で不貞行為が規定されている世界なんてクソだけど、家に帰ってきてパートナーと寝ている子供に申し訳ないと思う気持ちもウソじゃない。これが三角形の中で生きるということ。

『チャレンジャーズ』はこの三角形に“挑む”。クライマックス、およそダメなことをすべてやる。スローモーションでつける緩急、品のないクローズアップ、突然鳴り響くトレント・レズナーとアッティカス・ロスによるテクノのビートと、それに重なるラケットの打球音と唸り声、テニスボールの主観ショットが挿入され、ボール目線だとこんな感じなのか〜と思っていたら、コートの真下からのショットが挿入され、コート目線だとこんな感じなのか〜となるが、そんなショットは私の人生に何の影響も与えない。そして、目で追えないスピードで展開されるカッティング・イン・アクションの応酬、ダメだ、この子どものような無邪気さはなんだ。心配で目が離せない。近づいていくアートとパトリックの距離、そのふたりの運動に合わせて、三角形を構築していた観客の視線はどんどんコートの中心に誘われていく。だって、面白すぎるから。

全米ジュニアで優勝した2人のストップモーション。『ゴッズ・オウン・カントリー』のジョシュ・オコナーが演じるパトリックと、『ウエスト・サイド・ストーリー』(アンセル・エルゴートとのブロマンス!)のマイク・ファイストが演じるアート、そこにあるのは勝ち負けではなく、リレーションシップだ。しかし、三角形の世界でそれを実現することは難しい。テニスのラリーのように現在と過去を行き来して、回想のさらに回想までいく反則技、始まりと終わりが霧散するハウスやテクノの時間間隔を内包する本作の語りをもってしても、アートとパトリックはあの頃には戻れない。

アートは勝ち続ける。『スパイダーマン:スパイダーバース』冒頭のピーター・パーカーのモノローグがうっすら聞こえてくる。「大いなる力には大いなる責任が伴う」。ハンバーガーは食べられないし、つねにトレーニングの日々、もはやテニスをする喜びなんかない。ただ必要なのは勝つことだけ。

ゼンデイヤはテニスのことを誰よりもよく理解している。足の怪我がキッカケとはいえ、コーチになるのは当然で、どうしても監督のルカ・グァダニーノの姿を重ねてしまう。とにかく最高のテニスが観たいのだ。

パトリックは変わらない。あの頃のままでいいと思っているが、もちろん、そうもいかない。不動産の話や選挙の動向、そろそろ親に頼んで役員にならないといけない年齢だが、ひとまずマッチングアプリで宿探しだ。

ルカ・グァダニーノの映画はつねに登場人物たちがバケーションのような時間の中にいるが、本作も例外ではなく、10代の最後から30代前半へ、13年間をモラトリアムとして描いている。「誰ひとりとして同じままではいられない」。3人が動く。アートはテニスを辞める決断をし、ゼンデイヤは試合をセッティングする、パトリックは冷めたアートの心に火をつけるべく、秘密のサインを送る。

ラストにおいて、既存の三角形(社会)は崩壊する。テニスネット越しに抱き合うふたり、観客の視線はコートの中心にあり、この奇跡を喜んでいる。もう、ボールの行方なんて気にしなくていい。私たちが生きるこの三角形の世界で考えられるかぎりもっとも美しい瞬間、この3人で勝ち取った、この3人だけのバランス、美しい三角形、これを勝利以外の言葉で形容できない。叫ぶ、ゼンデイヤの歓喜のストップモーション。これしかない。ここで本作の舞台が2019年であることを思い出してしまう。このストップモーションから先の世界のことなんて考えたくない。ところで、どっちがファイヤーで、どっちがアイスだったのだろう?まあ、もうどっちでもいいか!

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