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【海士町】ここにずっとい続けるっていうのが当たり前だと思っていない人


海士町イン旅ュー2024夏はっじまるよ~🌊

今回ご参加いただいたのは さとうなな さんです!


現在:表現するのは難しいんですけど、私はすごい身の丈に合ってるなって。

一休誰絵:
まずお名前とご年齢と、今何されているのでしょうか。

佐藤奈菜:
佐藤奈菜です。年齢は27歳です。
株式会社海士に所属して、主にEntôというホテルや菱浦港のレストランや売店でマーケティングをやっています。広報だったり、企画です。

一休誰絵:
そもそも海士町に来られたきっかけみたいなものは、なんだったのでしょうか。

佐藤奈菜:
わたし、札幌出身なんですけど。今所属してる株式会社海士って、Entôを運営してる会社なんですがその代表が、私が通ってた高校の13個上の先輩なんです。

出身校が一緒で、その方が青山さんっていうんですけど。青山さんと同窓の縁で繋がりました。共通の先輩がまた同じ高校出身の方でいて、その方に海士町でホテルをやっている方がいると青山さんを紹介してくださって、それがきっかけで、2年前に海士町に来ました。2022年3月末です。

一休誰絵:
2年間ほど滞在されて、どんな感じですか。

佐藤奈菜:
表現するのは難しいんですけど、私はすごい身の丈に合ってるなって

自分では分かんないんですけど、いつも人から言われる言葉で多いのが、「まだ海士町に来て2年なの?」って。「もう6年ぐらいいるんだと思ってた」って。

普段一緒に、それこそ代表の青山さんとか、近くで働いてる人とかにも言われるんで、すごく海士町が自分に合ってるんだろうなって。ずっと前からいるようなそんな感じです。

一休誰絵:
だいぶ、自分でもすごく気持ち的に馴染んでるなって感じますね。

佐藤奈菜:
なんだろう。確かに馴染むって言葉がすごくしっくりくるかもしれない。

一休誰絵:
どういう場面で馴染んでいるな〜、と感じるのですか。

佐藤奈菜:
自分がどういうときに馴染んでるって感じるんだろう、難しい。

でも、歩いてて気楽なんですよね。今、Entôからここ学習センターまで、私の家はすぐそこなんですけど、気負わずに歩けているのが、すごい、いいなって思って。

普段地区の集まりとか結構あるんです。それぞれの集落で祭りがあって、ここは菱浦地区っていうところなんですけど、祭りをやった後の打ち上げとか、そういう集いにすっと自然と輪に入れる。

もちろん、私の心持ちもあると思うけど、地域の人たちが受け入れてくれるので、居心地は悪くない。この感覚は海士町が初めてでした。

初めて会う人とも居心地が悪くないっていうのが、自分は馴染んでいるなと思う。今このインタビューの場もそうな気がするんですけど。
もし違う場所で海士町以外の場所で一休さんと出会ってたら、すごくかしこまった感じになるのかもしれない。

ありのままの自分で人と接していられるってのが、合ってるんだな、馴染んでるんだな、身の丈だな、と、そんな感じです。

一休誰絵:
この空気だからこそ、人と会っても、溶け込みやすいというか。

佐藤奈菜:
私の中で比較対象がそんなにはないのですが、私がこれまで住んだ場所でいうと、実家の札幌とか、あとはアメリカの大学に行っていたんですけど、そこだったり、日本で短期で半年間住み込みで働いていたりしていました。そこと比べると、海士町はすごく合ってるなっていう気がする。

一休誰絵:
なんですかね。たどり着いた地?っていう感じなんですか。

佐藤奈菜:
たどり着いた感はある、と思います。もしかしたらそう思いたいだけかもしれないけど。

なにでそう思うのかっていうのがわからないですけど、本当に気楽で、ありのままでいられるっていうのがあって、ここがいいな、ここでいいなってなんか思える。
言葉にならない、「なんかいいな」みたいな。

それこそよく話すのは、私、ホテルがすごく好きでこれまでにリゾートホテルとか、ベッドアンドブレックファストとかで働いてたんですけど、今が一番すごくホテルマンとかホテルの人っていう肩書きなしに、自分1人の人間として仕事ができてる感覚があって。それがすごいいいなって思うことの一つ。

それはやっぱり、仕事を抜きにしても、普段の海士町の暮らしの部分でも、一個人として立ってる感じがすごくあって。

一休誰絵:
言葉にならないよさというのは、ホテルっていう場所なのか、それとも島?

佐藤奈菜:島だと思います。Entôはあくまで島の一部なので、その空気感はもちろんEntôにもあります。本当にありのままでいられるとか、肩肘はらなくていいとか、それが島にもあって、Entôにもある感じですね。

一休誰絵:
島が空気を作り出していって、その中に、ホテルがあるという感じでしょうか?

佐藤奈菜:
そうですね。けれど、Entôは、開業してまだ3年で、まだまだ島の人との距離はあって、もちろんホテルだから気軽にスーパーみたいに行く場所ではないんですけど。

Entô の前身でマリンポートホテル海士っていうホテルが25年間くらい営業していて、料金も今のEntôよりもずっと安かったんです。

ホテルの大きな会場で、島の人が結婚式あげたり、宴会開いたりみたいな、今よりももっと島の人に近くて、使用頻度が高かったんですけど、それが今はなくて。もちろん徐々に徐々に距離が縮まってきて、遊びに来てくれる人もいたりするんですけど。

だから今は、島の人にとって姿勢がちょっと、すっと姿勢を伸ばしたくなるような場所になれたら良いのかなっていうふうに、ポジティブに捉えています。

島の一部ではあるけど、ちょっと違うかもしれないです。Entôの空気感に関しては。

一休誰絵:
ななさん的には、海士町という場所のホテルは理想には近いですか?

佐藤奈菜:
近いですね。今まで働いたところに比べると、もてなさなきゃいけないっていうプレッシャーがすごくなくて。

もちろんホテルとして最低限クリアしなきゃいけないベーシックなものはあるんですけど、例えば、料理は当然美味しくなきゃいけないし、部屋は当然綺麗でなきゃいけない。だけど、それ以上のホテルとしてこれぐらいできて当たり前でしょっていうちょっと過剰なリクエストを意識しなくていいっていうか。ゲストからもあまり求められない。

「今すぐ何々してください」とか、無理難題があまり聞かれない。もし言われたとしても、「ごめんなさい、私達は今それできないです」ってちゃんと断れる。

「その要望には答えられないです。でも海士町にはこんなものがあるんです。」っていう、お客様と対等な立場でいられるっていうのが、私が思うホテルの理想なので。

じゃないと、なんでもかんでもリクエストを受けると、働いてる人がなんかサーヴァントっていう、サービスという範疇を超えて、本当に召使みたいになっちゃって、ただ疲れちゃうだけで。
それじゃホテルは続かないよなって、いつも思ってて。それがここではあまりないので。

対等でいられるから、あんまり求められすぎないのは、結構理想に近い、と思ってます。ホテルマンとしてお客様の声には何でも応えなきゃとか、あんまり気負いすぎないのが、すごくいいなって思います。

もちろん、もし友達が遠くから来たら、これしてあげたいとか、おすすめのこの場所行ったらいいよとか、サービスではないけれど、自然とやってあげたくなる気持ちってあるじゃないですか。

それはそうしたいなっていう自然な気持ちから、お客様にやってるので、それはすごくやっててつらいとかはないし、それで喜んでくれたら嬉しいし、という感じですかね。

一休誰絵:
そしたら、逆にちょっとネガティブな質問になるかもしれないんですけど、海士町のここがちょっと、って思う部分というか、単純に不便だなっていうものがあれば。

佐藤奈菜:
地元の野菜が手に入りにくい。
もうこれは完全なる愚痴なんですけど(笑)、お店に並んでる野菜で島外のものが多い。自然がたくさんあるのに、並んでいる野菜は外のもの。輸送費かけて運んできてて、その分値段は高くなるし、鮮度も落ちるし、お金は島外に流れる。でもそれしかないから買うっていう瞬間は便利だけど不便だなって思っちゃいます。

もちろん畑とかやってる人はいて、前の3月までは菱浦港の1階が産直所みたいになってたんですけど、そこに海士町の野菜が並んでました。役場の運営だったんですけど。

今年の3月に役場の運営が終了して。その野菜の調達は大変で。各集落に行って、野菜を生産者さんからもらって店頭に並べて販売して、っていうその運搬とかやり取りとかも全部役場でやってたので。

色々あって、一旦それもこの3月でなくなっちゃって、4月から私達の会社で売店を運営をすることになりました。でも特にこの港周辺の地区の人にとっては港の1階の産直所が、地元の野菜を買う場所としてすごい大事なところだったから、私含めて、それがなくなって今はつらいな、みたいな。

野菜を食べる頻度がなんかすごい減ったな、っていうのがありますね。商店には野菜全然あるんですけどね。並んでるものが熊本産とか、鳥取産とか。

でもその分、おすそ分けとかよく聞きます。余ったからあげるよと。でも食べたいときに食べたいものがないみたいなのは、ありますね。

商店で自分の欲しいものが、地元のものが欲しいってなったときにすぐ買えないっていうのは、もう慣れたけど、言われてみれば「ん?」って思うところかもしれない。

でも車とか?私、車がないんですけど、その代わり原付持ってて。

それも島の方から「使わないのあるから」って借りたんですけど、つい最近、それが壊れて動かなくなっちゃって。

仕事はすぐ近くなので、全然暮らす分には困らないんですけど、ちょっと遠くへ行きたいときとか、車がないとね。歩く道はあるけど、歩くのはちょっと大変なときもある。そのときに、そこらへんに停まっている車とか、なんかうまいこと使えたらいいなって思う。

友達の車を借りたりするときもあるんですけど、毎日そういうわけにもいかないし、でも私1人で車1台ずっと持ってても、ガソリンも高いし…っていうので、シェアできたらいいのに、とかはありますね。

使ってない車とか結構あったりするって聞くので。車と野菜。仕方ないんですけどね。

一休誰絵:
その辺りってもう、住む前からはある程度不便になるっていうのをわかった上で?

佐藤奈菜:
そうですね。あんまり求めてなかったって言ったらあれですが。

逆に、あったらあったで使うし、なかったらないで結構どうにかなっちゃうんで。

それはいいかなって最初来るときは、むしろない方がなんだろう、ない方がいいなって思ったのかな、そのときどう思ったんですかね。

一休誰絵:
ない方がいいっていうのは。

佐藤奈菜:
選択するのって大変じゃないですか。ABCDDF交通手段あるよ、どうしようかってなったときに、私結構悩むタイプなので。悩まないこともあるけど、決めてくれたら楽だなって思うことがたまにあったりします。

「もうこれしかない」といった、もう塩はこれだけですとか、もうどっか行きたいってなったら、この船に乗らないと行くことはできなないとか、意外と選択肢少ないの楽だなっていうのは結構、多分これまで思うことがあって。

今まで他の地域に住んでて、悩むことが多かった。野菜が高いなとかほしいものがないとかもあるけど、これしかないって言われたらもうこれを買うしかない。

でもそれでも食べたいなら買うし、高いな、やだな、他のもので代用しよう、本当はさつまいもがほしいけど、ジャガイモしかないってなったら、ジャガイモ買うし、みたいな。

選択肢がいっぱいあるのもいいけど、なかったらないで即決できる。それは、結構私にとっては楽だなって。うん。多分そう思ったんですかね。いや、来る前は考えてなかったかな。

一休誰絵:
へえ。

過去:でも、確かに言えるのは、やっぱりホテルが好きだったなっていう。

一休誰絵:
ちょっと冒頭で少しお話していた、いろんなところも飛び回ってたみたいな話についてお聞きしたくて。ここに来る前、いつ頃飛び回ってたんですか。

佐藤奈菜:
大学がアメリカだったんですけど。

札幌の高校を卒業して、大学入学のタイミングでアメリカの大学に入って、4年間通い、途中、1年休学をしたときに、日本に帰ってきて、いろいろ旅してました。ニセコって北海道にあるリゾート地なんですけど、そこに半年間、スキーリゾートなので、ウィンターシーズン、11月から3月、4月ぐらいまでかな。行って住み込みで働いて、その後、湯河原って神奈川県の温泉地にまた住み込みで行って、札幌戻って、沖縄とか旅行をして、札幌に戻ってからアメリカに帰って復学みたいな。その1年は何かいろいろやっていましたね。

一休誰絵:
まず札幌の高校からアメリカの大学へ行ったきっかけみたいのは?

佐藤奈菜:
きっかけはもうホテルなんですけど。

小学校の頃からホテルがすごく好きで、旅行とかするのがすごい好きで。

ホテルに入った瞬間なんか異世界の感じとか、そこで過ごす時間、家族との時間が本当に楽しくて、それを自分で作れたら、もう一生楽しいじゃんって思ったんですよ。

その小学生のときの思いが、ホテルの社長になりたいっていう夢になって。

そしたらホテルの勉強をするのに、アメリカにいい大学があるよっていうのを父が教えてくれて、アメリカのコーネル大学っていうところなんですけど。

一休誰絵:
コーネル大学ですか。

佐藤奈菜:
え、知っていますか?

一休誰絵:
結構聞いたことあるところですね。

佐藤奈菜:
そう、そのコーネル大学は、星野リゾートの星野さんが大学院に行かれたり、ホテルの経営者の方とか、有名な方が出てるんですけど、そこに行きたいと思って。

高校卒業して、そこに行こう、って思ってたんですけど。結局行けなくって、もうレベルが高すぎたんですよね、私の語学力じゃ全然たどり着かない。最高峰だったので行けず…っていう。

一休誰絵:
ホテルが好きでアメリカに行った、というのがきっかけですか?

佐藤奈菜:
そうですね。コーネル大学は行けなかったけど、別のアメリカの大学に行ってみるかな。ていう感じですね。

一休誰絵:
一応ホテルだと、日本でも専門学校とかで勉強できると思うのですが、どうしてアメリカへ?

佐藤奈菜:
なんかもうコーネル大学って聞いた瞬間そこ行くしかない、と思った。他の選択肢を考えなかったんです。お父さんに教えてもらったときに、イメージで、ここの道に行くんだって、コーネル大学だっていうのが見えてて。その道だけが光当たってる感じ。

今考えれば、別に高校卒業してすぐ働いたりとか、専門学校行くとかいくらでもあるんですけど、もう何も考えてなかったんで。それがもう絶対的だと思ってたから、ですね。

でも、楽ですよ。他はあんまり考えなくていいから。それだけを、ただひたすらに見てました。

一休誰絵:
実際にアメリカの大学に通って、どうでした?

佐藤奈菜:
いやあ、最初は大変でしたね。まず言語の壁はあるし、もう授業についていくの必死で。日本にいる時からそれなりに英語を勉強してきたつもりで来たんですけど、行ったら行ったで何喋っているのかもう全然わかんないっていうところから始まったので。

授業と、友達作るのも、諸々手続きとか携帯買うとか、スーパー行って何かお願いするとか、本当に些細な日常のことが全部できなくなったので。

日本で当たり前にやったことができなくなる。最初はやっぱり大変だったなっていうのはありますね。

あとは、私も完璧主義だから絶対やりたいっていうか、壁を絶対超えたいっていうのがあったので。

でもそんなうまくいくわけないじゃないですか、異国の地で。
それで結構病んで、1回日本に帰ってきました。それが1年の休学のことなんですけど。

生活の中では、もちろん楽しいこともあった。そう、大学でも陸上やっていました。中高6年間、陸上やっていたんですけれど、今じゃ信じられないんですけど、大学でももう1回走りたいって思ったんです。

陸上競技で現地の人たちとアメリカ人と同じ土俵で戦ったっていうのはすごい楽しかったなって今でも覚えてる。アメリカで楽しかったことで、一番最初にそれが出てきますね。

一休誰絵:
現地の人と一緒に陸上をやって、どういうところで楽しかったのですか?

佐藤奈菜:
面白いのが、さっきの海士町の話と通じる部分があるんですけど、本当に一個人として認められた感覚があって。あなたは日本人だからとか、佐藤家の奈菜さんだからとかないんですよ。

そういう、贔屓目もないし、もう、ただ自分1人のこの肉体で隣にいる人と競る。

すごくシンプルで、フィルターがかかっていなくて、それが故に言い訳ができないというか、ただ1人の人間なんだっていうのを感じられた。認められた感覚もあるし
すごくフラットに平等だったんですよ。授業とか受けてると、やっぱり言語が私はわかんないけど、隣の人はわかるみたいな、その差はすごくあったけど、もう走るってなったら言語とか関係ないし。

もちろん、育った環境とかは運動能力に一部影響はあると思います。でも私はそれら抜きに、本当にただ1人の人間としていられた気がします。それってシビアな現実でもあるけど、でも気楽で。認められたなっていう。不思議な感じですね。嬉しかった、あの場に立てたことが。

レースが始まる前に、アメリカの大会なんでアメリカの国歌が流れるんですよ。
でも、日本ではレース前に日本の国歌が流れるってあまりないじゃないですか。

それを聞いたときに、別に私が日本人だとか関係ないし、何歳でとかもなく、本当にこの横にいる人たちと、平等にいられるんだなっていうのが、高ぶる思いでしたね。面白かった。だからレースで結果を残せば、それは私の結果で。良い結果が出なければ悔しいし、でも授業と違って何も言い訳ができなかった。それがある意味良かったのかもしれない。

一休誰絵:
先ほど少しお話されていた、ちょっといろいろ病んで疲れて休学されたときについて、改めて具体的に教えてもらえますか。

佐藤奈菜:
自分自身、行動に起こすのが遅くって。考えて悩んで、悩んで、悩んで、結局アクションしないっていうのが結構あるんですけど。

行きたかったコーネル大学は高校卒業時点にはレベルが高くて諦めて、代わりに別の州立大学に行きました。そこから、アメリカでは大学で編入するっていうのが当たり前で、1年なり2年大学行って、そこから別の大学に行く。それを考えたんですけどどうやったら編入ができるか、受かるかなとか、もう調べればいい話なんですけど、怠った。

本当に行きたいのかなとか、別の道があるんじゃないかなとか、余計なことをすごい考えて、2年生が終わるタイミングで編入手続きを逃したんです。

そのときに、元々アメリカに来たのはホテルやりたいって思いだったけど、2年たって本当にやりたかったのかなっていうのが、自分で答えを出せず、大学3年目が始まったんです。

でも、やっぱりここまで来たからには、チャレンジをしようって思ってコーネル大学を受験をしたんですよ。その3年目に編入試験を受けたけど、落ちちゃって。

編入試験に落ちて、自分がやりたいって思ってたものにチャレンジしたけど、駄目で。いよいよ何をしたいのかわからなくなってきた。

元々、アメリカに来た目的はホテルの社長になる夢を叶えるための一歩だったのに、その一歩を踏み出したい思いもない。アメリカにいる意味あるのかなって思い詰めて、ちょっとこれはいられないってなって帰ってきたって感じです。

自分がそこにいる意味がわかんなくなった、っていうのが休学するきっかけでしたね。

そのときも陸上のクラブチームに入っていたんですけど、チームメイトと一緒にシェアハウスもしてて。

けど、もう何か自分の中ですごい思い詰めてるから誰にもそれを伝えられなくって。でも、練習行ったらチームメイトに顔を合わせるし、帰ってきても顔を合わせていて。

私がアメリカの大学に行った目的とか、「今何々に悩んでる」とか言えない、みたいな。

言えばよかったんですけど、家にいるのもつらくなって、もうなんか、生活も勉強も陸上も、全てがつらくなって、帰ってきた。そんなときでしたね。うん。

一休誰絵:
実際休学1年してみて、そこは心の整理みたいなのがついたんですか。

佐藤奈菜:
いや、多分あまりついてなくて。

でも、確かに言えるのは、やっぱりホテルが好きだったなっていう。

アメリカの大学は9月に始まって5月に終わるんですよ。

5月に夏休みになって日本に帰ってきて半年ぐらいいろいろ悩んで動き出したら、結局ホテルにたどり着いたんですよね。

ニセコのホテルで半年働いて、もちろん楽しいことばかりじゃないですけど、良かったなと思って。

もう1回、また別のところで働こうと思って、湯河原の旅館で働いてみて、結局宿業で。やっぱ好きなんだなっていうのはわかった。

大学は3年もやってきたからせめて卒業しようと思って、その後にアメリカに帰って来ました。

自分が結局モヤモヤしてた原因は、多分自分の決められないっていう性格がすごいあったんですけど。覚悟ですよね

ただ休学していたときはわからず、休学期間のタイムリミットがきたから1年と決まってたので。

だから、とりあえず整理はそんなについてないままアメリカに帰ったっていう感じで、ただホテルは好きだなっていうのは自分のなんか小さくも大きな発見として、1年間休んでわかったことだと感じましたね。

一休誰絵:それはあれですかね、ニセコとか湯河原とかで働いてみて、やっぱり好きだなって感じたのですかね。

佐藤奈菜:ニセコは、私の中では強烈な体験だったんですけど、お客さんの9割が外国人なんですよ。

冬は日本人がほぼほぼいなくて。例えば飲食店に行くにしても、もうほぼ外国人のスタッフで、本当に何か日本にいるようで異国みたいな、面白いなと思って。多分それってニセコの雪を求めて世界から人が来るんですよね。

そこに1泊、1泊じゃないっすね、もう3泊、4泊、1週間、2週間、1ヶ月とか過ごしていく。

ペンションを借りたら、ワンシーズン暮らすみたいな人もいっぱいいた。

ホテルはその土地の何かしらを楽しみにしている人が来る場所。そこでの出会いには面白いものがある。

やっぱ宿がないとなかなか人はゆっくりしに来ないから。泊まるところがなかったら、遊びにきてもすぐ帰っていっちゃう。でもホテルがあると、いろんなところからいろんな人が来て1日を同じ空間で過ごして、名前も知って、みたいな。不思議ですよね。
「どっから来たんですね」みたいな会話が簡単に生まれるって、すごいなっていうのは、ニセコで特に感じましたね。

でも、またそこで働きたいかというと…(笑)
海士町の良さを知ってしまったので。ホテルって本当にいろんな形態があるじゃないですか。

クラシックなホテルとか、リゾートホテルも宿泊施設の一つですけど、私がいいなって思うホテルは、本当にフラットにいられる場所。ゲストもスタッフも肩書きを超えて、お互いがあなたのあり方いいねって言える。それを楽しんでもらえるゲストと交流ができる場所がいいなと。

一休誰絵:
あれですか、ニセコっていうよりかは海士町の良さに気づいてしまったから?

佐藤奈菜:
そうですね、はい。海士町びいきの発言になりますが(笑)

私の中では良いところ。多分日本全国もっといいとこいっぱいあるのかもしれないですけど、私が今知りうる限りの場所ではここが今一番、ベストな感じです。それは自信を持って言えます。ここがいいなって。

一休誰絵:
ちなみになんですけど、海士町で一番気に入っている場所ってありますか。

佐藤奈菜:
一番か。難しいですね。

そうだな、Entôの本館の3階はオフィスになっていて。昔のマリンポートホテル海士の宴会場3室あるうち1室がシェアオフィスになってるんですけど、そこに私達株式会社海士スタッフと、あと役場職員さんと、ほかの民間企業のスタッフの人たちが15人とかいるんです。

そこからの海の眺めが本当に最高で、昨日も写真を撮りました。写真フォルダがそれで溢れちゃうぐらいなんですけど、ここは結構お気に入りの場所かも。これが昨日撮ったオフィスからの眺めです。

一休誰絵:
ええ、すごい。

佐藤奈菜:
夕方6時頃、7時には皆さん退勤して帰っちゃうんですけど、夕焼けがこうやって見れるので、まず電気を消すんですね。蛍光灯を全部落として、残業している人たちで窓の外を眺める。

すごいお気に入り。いつも、世界で一番のオフィスだと思っています。オフィス大賞とかあったらアワードに出したいぐらい(笑)

ここ学習センターの目の前の海とかも結構好きで、最近は原付が壊れてるから、家から歩きで通勤してて、朝は急いでるから裏の道を通って行くんですけど、退勤した夜とかはあえてそっち側、海沿いを歩いて帰る。真っ暗なんでほぼほぼ見えないんですけど、昨日とかは月がすごい綺麗で。

月が海面に映るとすごい素敵で、あえてこっちじゃなくてそっち側の道を歩いて帰るっていうのをやってる。菱浦港って言って、冬とか気嵐ができたりすごい素敵ですね。別名鏡ヶ浦っていうんですけど。

一休誰絵:
鏡ヶ浦の語源はなんでしょうか。

佐藤奈菜:
昔、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)という方が、ここに10日間ぐらいかな、海士町に滞在して、そのときに菱浦湾はすごく美しかったから、鏡のように美しいから「鏡ヶ浦」って名前を付けて。

名前は「菱浦湾」なんですけど、愛称は鏡ヶ浦です。風があったら波立つんですけど、ないときは本当に綺麗。そこは結構好きですね。小泉八雲が愛しただけあるな、と。


一休誰絵:
すごい文学チックというか、素敵ですね。

佐藤奈菜:
そうですね。オフィスからの眺めと、鏡ヶ浦、が好きですね。

一休誰絵:
ありがとうございます。ちょっと戻ってしまうんですけど、大学を卒業した後に日本に帰ってきたのですか。

佐藤奈菜:
大学卒業が2020年5月だったんですけど、卒業してすぐは戻らずに、アメリカにそのまま1年間いましたね。

一休誰絵:
そのときは何をされていたんですか。

佐藤奈菜:
B&B(ベッド&ブレイクファスト)をやってるところが大学から近い距離にあって、ニューヨーク州の田舎なんですけど。そこで半年ぐらい住み込みで働いてました。お客さんを出迎えるところから部屋の清掃をして、家主がいるので、その方と一緒にご飯作って提供して、みたいなことをやってて。

その後は、雑貨屋さんで働きながら、スノーピークってキャンプのメーカーあるじゃないですか。ニューヨークに支社があって、そこで3ヶ月ぐらいマーケティングのインターンをして過ごしていましたね。

大学卒業後のインターンとしての滞在期限っていうのが1年間と決まってるんですけど、そのビザが失効してから3ヶ月ぐらいアメリカに滞在できたんですよ。

だから、その3ヶ月の間にアメリカをいろいろ旅行して、日本に帰ってきたのが2021年の8月。

日本に帰ったのは8月で、海士町に来たのは2022年の春なので、結構間は空いてましたね。

札幌の実家があったところの近くに、おばあちゃん家があるんですよ。そこで居候して、特に何もせず、アルバイトしたり旅行したりみたいな半年を過ごして海士町に来ました。

一休誰絵:
そのままアメリカにとどまって働こうとはせずに?

佐藤奈菜:
言い訳だけど、ハードルが高かったので。コロナ禍で、しかも日本人がアメリカで働くにはビザが必要で。

就労ビザを取得するには、企業がスポンサーになって、ビザの申請代金ウン十万を支払わなきゃいけないんですよ。

ということは、現地のアメリカ人を雇うんじゃなくて、数十万円という費用を払ってまで雇うほどの価値がその人にはあるってならないと私をわざわざ雇わない。

あの時私の中でそこまで自分に自信がなかったっていうのと、そこまで何かをやりたいって気持ちがなかったのでアメリカにとどまらず日本に帰ってきたっていう感じですね。今は、もっとチャレンジしたらよかったのに、とか思うんですけど、日和りましたね。無理だって思って。

一休誰絵:
それに対しては、もしそのときの時点でやり直せるとしたら、チャレンジはしていましたか。

佐藤奈菜:
もっと資本主義ど真ん中を見たかったなとか思いますね。

多分、もう行けない、わかんないけど。ホテル開発とか、お金がすごい動く、ビジネス色の強いところでちょっと働いてみたかった、知りたかったっていうのはある。

それこそニューヨークってまさにその経済の中心地、「なんであの世界を見に行かなかったんだろう」みたいなのは今あります。

これまでの自分の暮らしは結構選択肢があった方だと思うけど。でも「ない」ことの対極を知れる機会を逃したのは結構心残りかもしれないです。ニューヨークには住めないな、とか思うけど。

未来:本当は非現実的でもそれを、その希望を持てるって何か犬とかは考えないけど人間だから。

一休誰絵:
5年後、10年後、何年後でも全然大丈夫です。自分が何をしているのか、どうしてみたいなみたいなものはありますか。

佐藤奈菜:
ついつい言っちゃうんですけど、世界の舞台で活躍してたい。1週間に1回ぐらいはこの質問をしてもらえるんですよ。

一休誰絵:
そうなんですか。

佐藤奈菜:
代表の青山さんとかもそうだし、同じ菱浦集落の方とかから。その度に定型文みたいに、世界で活躍してたりとか、世界と繋がってたりとか、何をするってわけじゃないんですけど、自分の中では、それをいっつもぱっと思いつくんです。

どこか別の国で暮らすのもそうだし、どこか別の国で仕事をするのもそうだけど、ここにいながら、ほかの違う国の人と繋がるとか、今海士町でやってることをしながらも、世界からここに来てもらうとか。

何かしら、今よりももっと世界と繋がりたいって思いがすごいあります。イコール、ここ海士町とも繋がっていたい。これは5年後も、10年後も。

一休誰絵:
5年後も10年後も、住み続けようっていう意志みたいなものは。

佐藤奈菜:
1回出たいなって思っていて、社会人としては、ここしか知らないんですよ。それって結構勿体ないなっていうか、隠岐に貢献し続けられないというか、自分の限界がすごく見えてるので。自分を磨くためにも、1回外に出たい。
そしてまた帰ってきたい、という思いはあります。
10年後も自分の人生にこの場所があるのは、もう何となく思ってはいたりして。絶対ではないのですが。

37歳になったときに、私の人生にこの島はあると思いますね。どこに住んでるかわかんないけど。でも、島を出たとしても帰ってきたよ、と。そして今みたいに祭りをしている、みたいな感じです。オフィスからの眺めを見ていたいですよね。そういうイメージがすぐ思いつくんですよね。具体的に何をしているのかわかんないですけど。

思いつきますか?10年後って聞かれて。

一休誰絵:
ちょっと不思議に思ったのが、よく1週間に1回ぐらいの頻度で聞かれるって、あんまり聞かれるものではないような気がします。友人などと話すときはたいてい、今しているの、とか、こんなことあったよね、といった思い出話が多いので。

これから先にどうしていきたいかについて、頻繁に聞かれるのって結構珍しいなと思ったんですよね。

佐藤奈菜:
なるほど、なんですかね。この島にずっとい続けるっていうのが、当たり前だと思っていないからかもしれないです。

佐藤奈菜:
私は、ここが地元じゃないので、いつかは島を出るとか、ほかに行く先があるとか、若いからどっかのタイミングで転職するとか、変化があって当たり前みたいなのが、自分自身もそうだし、そういう目で周りを見てます。だから5年後どうするの?っていうのを相手にも聞くし、自分も聞かれるのかなって。

どうするかって聞かれると嫌なときとかありますけどね。知らんがなみたいな。でもそれを思うときは、自分が何か将来に対して不安なときなんで。

一休誰絵:
今のところ、そんな不安には感じていないですか。

佐藤奈菜:
地震のニュースとか聞くと、明日には終わるかなとか、何かよぎることもあるけどそれはそれだなって思うし、もし続いたら5年先にはきっとこうなってたり、だとかこうなってるなみたいなのは、考えますね。

あんまり不安じゃない。どうにかしかならないんじゃないかな、と思っています。

一休誰絵:
そろそろ時間になったんですけど、最後にこれだけは言ってみたいこと、読者の方のためにでもいいですし、過去とか未来の自分に向けて言いたいものでもいいですし、誰に向けても何かメッセージがあれば。

佐藤奈菜:
一通り話して今思ったのが、たしかに聞いてくれるってすごいなって。

1週間に1回は自分の未来についての質問をされる。

質問されると考えるじゃないですか。そういう機会って本当にありがたいなって。今なんか先週聞いてくれた人の顔が思い浮かびます。
自分の中の希望を語れるのって、もしかしたら、今のこの環境、島やEntôとかだからかも。

ありがたいから、ありがとう。というかんじ。

一休誰絵:
自分のこれからについて話せる島、いいですね。

佐藤奈菜:
そうじゃない人たちもいっぱいいると思うんです。人それぞれみんないろいろ悩むじゃないですか、私も悩むし。もうお先まっくら、みたいな未来なんか見えないこともあると思うんですけど。そうじゃなくて、10年後こうなっていたらいいなって、本当は非現実的でも、その希望を持てるって何か犬とかは考えないけど、人間だから。

人間で生まれたからこそ先の未来に希望を描ける。でもそんなこと考えられない環境も存在するからこそ、今こうして問われて話せるのは、すごいありがたいなって思う。

一休誰絵:
ありがとうございました。

佐藤奈菜:
ありがとうございました。

あとがき

私のはじめてのインタビューかつ、はじめての対面イン旅ューがさとうななさんでした。初対面にもかかわらず、自然体でお話ししてくださり、「お話を聞ける、ってすごく楽しいんだな」と率直に感じました。

インタビュー後、見送ったさとうさんの背中を見ながら「なんてドラマチックだったんだろう」なんて、思ってしまいました。よく「人生はドラマだ」「人生ってジャズよね」なんて言葉を聞くことがありますよね。まさしく、そんな感じです。

そして、インタビュー中に感じたこととして、さとうさんは、「選ばない、選べない」というのを大切にされているのかもな、なんてことを思いました。

私ごとにはなるのですが、海士町から帰ってきて1ヶ月ほど経過しているのですが、都心で生活をしている中で、あまりの情報の多さ、選択肢の広さに、時々疲弊することがあったりします。

そんなときこそ、このインタビューを思い出すのです。
よく、「選択肢はたくさんあった方がいい」と言われると思いますが、案外そうではないのかもしれません。そんなことに気付かされるインタビューでした。

同時に、さとうさんのインタビューを通し、海士町について、こんな土壌を感じました。
「決心してやってきた若者の成長をじっと見守りながらも、未来の姿を想像するよう、促していく」

お忙しい中、インタビューを受けてくださったさとうななさん、ありがとうございました。そして、翌日は、Entôをご案内いただきまして、ありがとうございました!

そしてそして、最後までお読みいただいた画面の向こうのみなさん、ありがとうございました。ぜひ、ほかの海士町イン旅ューもお楽しみくださいませ。

【インタビュー・編集・あとがき:一休誰絵】

#無名人インタビュー #インタビュー #一度は行きたいあの場所 #この街がすき #離島 #海士町 #ないものはない #ENTO#隠岐ユネスコ世界ジオパーク

この記事は海士町関連のインタビューです。

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