「現代」を悼む(2003)
我々はあらゆる美術、産業、思想、主義などに”現代”と見出しをつけては、安易に歴史を塗り替える癖があるように思える。そしてその趣向の向かう先は常に”現代”と名がついた時点より、それらは時代とともに古くなる傾向にある。
“現代” は格式の崩壊という意味では必要な時代であったのかもしれない。
“現代” 例えばアーティストは、表現をするという基本を逸脱していた。前作より奇抜で斬新なもの、あるいは誰も行なっていないものを追い、受け手もそこに価値基準や個性、オリジナリティとしての見方をしてきたように思う。
ところが、そこにどんな意味があったのだろうか。受け手が吸収しきれないほど多く溢れすぎたがゆえに、人々の心は変わった。
すぐ飽きるもの、すぐ壊れるもの、思いやりが無いものが世界には氾濫したのである。生産者も消費者も、互いにそこに責任を感じないのであろうか?
手は物を創り、また時に、その物を手にする。
その手は、触れ合い、感じ、包みこみ、伝え、守り、繋がり、世界を築く。
時にその手は、傷つけ、奪い、殺め、破壊する。
もしも全ての創作物が装飾品であるならば、それが社会を変え、生活を変え、一個人の人生さえも変えてしまっていた。
何を与え、生産するのか。何を選び、消費するのか。
また、あらゆる装飾品が富の象徴ならば、富とは何なのであろうか?
連綿と続く輪の中で、不要物を巣へ運ぶ蟻はいないだろう。
自尊心のみを得るがために紅を染める花もないだろう。
不純な個性、利益だけを追う送り手の中には、芸術は人間が生きるにあたって付属品であるかの様に答える者もいる。
生産者、アーティストという職業に就きながら、なんと貧しいことだろう。
彼らにとっては、月も雨もインテリアであり、食物もベッドも必要ないのであろう。
アートが装飾品であるならば、富によって付属品を得るわけではなく。装飾品そのものが、人々の心に富をもたらすのだ。
混沌とも呼べるであろう現在、情報を掻き集めるのも必要ではあるが、過去の作家達が、先見として描いた未来を、また一歩先へと描き進める責任があるのではないだろうか。
情報化社会が真意を歪め、同時に訪れたものは、嘘が暴れる時代。安価な寿命付きの電球や、誰かにだけ都合の良い情報などは、もう既に必要とされていないのだ。
未だ争いさえ絶えない世界に、人の心は疲れ、不安で冷めてしまっているのかもしれない。
今はまだ、手探りで富を取繕い、選択の見極めも困難ではあろうが、その根底で歴史も美も愛情も、徐々に目覚め、再構築されるであろう。
真の美食は、心をも満たすと言う。
一つの楽曲が、自殺する者を引き止めたという事もある。
産まれたばかりの子供は、自分の手と、母親の手に区別が無く。その母の手は、世界そのものであり、全てを叶える完全な存在であるという。
本来はそれ程に、送り手と受け手の関係は密接してるのかもしれない。
人の誰もが、あらゆる形で親となる資格があるのだとすれば、誰もが、子には美味しいものを食べさせたいと思うだろう。
愛する者の描いた、自分の似顔絵のプレゼントは、何億円で売買される絵画にも、決して比較できないものだろう。
アートとは、衣食住をより豊かにするものである。
全てのものが、決してそうだとは限らないが、そんな気持ちをもって、この手で、創り続けようと私は思う。
そして、同じこの手は、いつでも簡単に何かを傷つける事が出来てしまうということも。
全ての創作物は本来、夢や希望を与えるもの。それこそが価値基準である。
20030719 6:24(オーストリアの芸術祭出展にあたって)
── 上記は、とある映像作品の出展のため、過去(2003年)に書いたものです。要求は作品の解説文だったのですが、当時まだまだ下手に尖っていた精神が残っていた頃「作品に説明などいらない!」と要求を無視して上記の文章を英訳して送りました。(なにも反応は無かったですが 笑)当時の自分としては、ある意味 “現代”へのアンチテーゼではあったとしても、純粋に創作についての概要的な文章を書いたつもりでいました。──
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