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【小説】弥勒奇譚 第二十五話

文殊は静かに聞いていたが顔を上げると自分がここに戻ってきた経緯をゆっくりと話出した。
「数か月前から亡くなった娘の夢を見るようになりました。
それまでは娘が夢に出てきたことなど滅多に無かったのです。
初めは気にもしませんでしたが娘はしきりに一刻も早く龍穴社に行くよう申します」
「動揺していたとは言え恩義のある不動殿へ一言もなく出奔した身としてはどうしてもここに戻る気持ちにはならなかったのです。しかし娘の申し様は尋常ではなく、夢に根負けしたと言うのは誠に妙な言いようですが重い腰を上げた次第です」
「途中、何度も戻ろうと思ったのですがその都度
娘が夢に出てきて早く行くように申すのです」
「私の夢と同じです。まるでどこかで見ているかのように都度ごとに夢をみるのです」
「これはもう娘が開眼供養に合わせ我々兄弟を引き合わせたとしか思えません」不動もようやく気を取り直し二人の顔をまじまじと見比べた。
「こうしてみると目元の辺りやおだやかな物腰も
良く似ておる」
その夜は兄弟水入らずで夜が更けるまで語り合った。
母親は弥勒を預けた後、数年で病がもとで亡くなり
文殊も寺に預けられ住職の勧めで龍穴社に来たこと、妻と二人で出奔後各地を転々としたが今は美濃の寺で寺男として働いていることなどを聞いた。
「二日後には私が造った薬師如来像の開眼供養が
ありますので兄上も是非参列して下さい」
「そうしよう。普賢の導きとあればなおのこと
参列しない訳にはいくまい。それはそうと薬師如来像を私も見たいのだが」
弥勒は文殊を厨子の前まで連れて行き扉を開いた。
「これが娘が望んだ仏なのか」
文殊は低く呟くと感極まった様子でしばらく像の前を離れることが出来なかった。
「弥勒よありがとう。このような見事な仏は見た事が無い。娘もさぞかし喜んでいることだろう」
「この薬師如来像は自分でも出来過ぎでたくさんの
褒め言葉をもらいましたが、兄上の言葉が何より一番嬉しいものです。普賢もどこからか見ていてくれている気がします」開眼供養の日は朝から快晴で龍穴社にはこの山里のどこにこれだけの人がいるのかと思われるくらいの人が集まってきた。
室生寺の僧や仏師、里人は言うに及ばず多くの人たちで本殿の前は溢れた。不空も昨日の夜に到着していた。

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