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5分でアランの『幸福論』#33 “SNSのほとんどは意見じゃくてただの反応?”

アランは言う。
世の中には2種類の人間がいる。
騒々しさに慣れている人と我慢できない人の2通りだ。

この2種類の人たちは、世界中どこへ行っても反対のタイプを避け、同じタイプを探し求める。家庭によって、共同生活の決まりや方針がひどく違うのはこのためだ。

アラン『幸福論』

アランはこの章で、騒々しさに我慢できないタイプは相手に生活のルールを守ることを求めると同時に自分もそれを守る。
その結果、窮屈な社会が生まれてしまうと解く。
一方、我慢できるタイプは他人のことなど気にしないので勝手気ままに暮らしている。それはエゴイストでしかないという。
つまりどちらのタイプも(人間はみな)不器用に暮らしているというおかしみを揶揄しているのだろう。

これを読んで“生きづらい“と盛んに言われる今の世の中を考えてみた。
SNSの炎上はもはや日常。
どんなに気をつけて発言しても、どこかしらから批判されすぐに自粛。
タバコはだめ。
アルコールもだめ。
子供は公園で遊んじゃだめ。
女性は男性と同じように。男性は女性と同じように。

現代日本は歴史上、
最も物質的に豊かだが最もストレスフルでせせこましい社会になってしまったと思う。
最近のドラマ「不適切にもほどがある!」ではそのフラストレーションをミュージカルに乗せて爆発させていたが、まさに視聴者は「我が意を得たり!」で痛快な思いをした人が多かったのではないか。

「不適切にもほどがある」より
“ミスしたらケツバット。上手くできたら胴上げよ”には思わず膝を打ってしまった

なぜこんな“せせこましい“状況になっているのか?
それを「反応と意見の違い」という観点から考えたい。

今回引用したいのが、
超人気ブロガーであるちきりんさんの著書『自分で意見で生きていこう』。
この本、むちゃくちゃ目から鱗が落ちた。
落ちすぎて自分は魚かと錯覚したほどだ。

本書が全4冊シリーズの完結編となる

その主張の一部を要約すると、
・SNSの投稿に対する批判などのほとんどは“意見”ではなく“反応”。
・自分もとっさに“反応”していないか、ちゃんと“意見”を持っているか考えよう!

というもの。

“反応”とは深く考えることなく反射的に主張すること。
つまりはほとんどその人の好き嫌いの世界だ(だから気にする必要は1ミリもない)。
一方“意見”とは、なぜそう考えるのかが他者に説明できるロジックをもって構成された主張のこと。

確かにSNSの世界は誰かの“意見”に対しての“反応”が延焼していく構造になっているものが多い。
“反応“は単体ではあまり影響はないが、それが数的に規模をもってくると真っ当な“意見”のように見えてくる。
(ここに民主主義の怖さがあり「群衆」という古い映画にはその恐怖をリアルに表現したシーンがあるが、少し話題が逸れるのでこれは別の機会に書いてみる)

フランク・キャプラ監督の傑作「群衆」
刺激的な“反応“1つで大多数の群衆が簡単に印象操作されてしまうシーンは何度見てもゾッとする

まとめると
①“意見”を述べた側が、そこに投じられる多くの“反応”を“意見”と勘違いすることで、スルーすることができず結果自粛につながってしまう。
②“反応“の主張者たちは自分たちが“意見”を主張していると錯覚しているので、それを具体的な行動(不買運動など)に移すことに躊躇しない。
これらの相乗効果が“せせこましい”世の中を作っている原因の1つではないだろうか。

おそらくこれはネット空間に限らず、日常の家庭生活、職場でも同じだろう。
妻の何気ない一言に激しく“反応“してしまい、すぐケンカをしてしまう夫。
部下の“意見“を最後まで聞かず、頭ごなしに指導してパワハラ扱いされてしまう上司。
知人の何気ないSNSの投稿に、訳もなく焦りやイライラを覚え眠れなくなる夜。
挙げればキリがないほど、日常の中に“反応”による弊害は溢れている。

“反応”とはつまり過去2〜3回の投稿で繰り返し出てきた“ファスト思考“だ。
このワード、幸福の追求を考察する上で今後キーワードになる予感がある。
アランは人間は、
「騒々しさに慣れている人と我慢できない人の2通り」
と言った。
ここに「騒々しさを感じつつも、意識的にいなせる人」加えた3通りの生き方を提案したい。しかし、、、、
いったいどうすれば“反応”(ファスト思考)の罠から抜け出せるのだろうか?

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