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負け犬の遠吠え 支那事変1 共産主義は何人殺した?

ロシア革命を成功させ、共産党による一党独裁体制を築いたウラジーミル・レーニンが実施した政策は、「個人取引一切禁止」「企業国有化」「食料配給制」「農産物強制徴収」「労働者による工場管理」でした。

まさに「THE・共産主義」と呼びたくなるようなコテコテの政策なのですが、給与が平等に分配される事によって早速「働かなくなる労働者」が続出します。

これに対しレーニンは「強制労働」を実施しますが、「社会主義の理想と異なるじゃないか!」と共産党内から批判を受ける事になりました。

この反発に対してレーニンは党内で派閥を作る事を禁止し、「一党独裁」どころか、党内の少数の人間による独裁が固められていきました。

階級社会の権力を打倒するために築かれた共産主義国家は、皮肉にも権力が一極集中する独裁国家になったのです。

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1921年、ロシア革命後の内戦の中でも強制徴収が行われていたために農村部では大飢饉が起きていました。

その飢饉は想像を絶するもので、人々は人間の肉を食して命をつなぐほどでした。

体力の少ない子供が死ぬと、大人はそれを埋葬せずに食し、それでも500万人が飢え死にしたと言われています。

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低迷する経済を持ち直すためにレーニンは新経済政策「ネップ」を打ち出します。

「余剰生産物の自由販売」「私的中小企業の開設許可」など、社会主義の思想に反するこの政策は批判を浴びましたが、徐々に経済は回復していきました。

しかしその翌年、1922年にレーニンは脳梗塞で職務を離れる事になってしまいます。

レーニンはモスクワ郊外に移住します。

「ヨシフ・スターリン」は、レーニンに対する訪問者との面会を管理する役職につきました。

そしてスターリンとレーニンはしばしば政策について口論し、対立を深めていくことになります。

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レーニンは妻・クルプスカヤを仲介して政治局へ意見や指示を出していましたが、スターリンはこれを嫌い「レーニンと政治の話をするな」と電話でクルプスカヤを恫喝します。

これによってレーニンとスターリンの中は決定的に悪くなり、レーニンはスターリンの持つ「差別意識」「凶暴性」を見抜いて「スターリンを指導者にしてはならない」と遺書に書き残しました。

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そして1924年、レーニンは4度目の発作を起こして死去します。

最後の一年は言葉を話す事もなく、ほとんど廃人状態でした。

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スターリンはなんとレーニンの遺体に防腐処理を施し、永久保存状態にして公開展示します。

指導者を祀る事によって、共産党の求心力の低下を防ごうと考えたのです。

この時点で共産主義は、個人崇拝の宗教と化しました。

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レーニン亡き後の後継者には、ロシア革命の頃からレーニンの右腕だった「レフ・トロツキー」が有力候補に挙げられていました。

トロツキーは、
「工業後進国であるロシア一国が共産主義になったところで、国際的に孤立するだけ」
と考え、共産主義を世界中に広める「世界革命」「世界ソヴィエト共和国」を構想していました。

この考えはレーニンと同じであり、マルクス主義本来の思想に通じるものでした。

コミンテルンは、世界革命を実現する為の組織として結成されたのです。

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これに対してスターリンは、「世界革命をしなくても一国で社会主義国家の成立は可能」と考え、「一国社会主義」を唱え、トロツキーと対立します。

トロツキーやスターリンの他、古参の要人たちが入り乱れる後継者争いは激化して行き、思想や政策の違いからそれぞれが対立し、派閥を作り、権力争いに没頭していきました。

スターリンはトロツキーの評判を下げるために嘘の日程を教えてレーニンの葬儀を欠席させたりと、情報操作に余念がなく、ライバルたちを蹴落としていきます。

その結果、トロツキーや他の有力者達は次々とソ連から追放され、ソ連内部における最高地位は「書記長」であるスターリンとなりました。

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権力を掌握したスターリンはソ連の工業化と、経済の集中管理を推し進め、コミンテルンは一国社会主義の概念の下、ソ連の為の諜報・謀略を担当するようになりました。

コミンテルンの海外でのスパイ活動やソ連の工業化にはどうしても「外貨」が必要になる為、スターリンは「五カ年計画」を策定します。

政府の計画に基づいて収穫量を定められた農作物は全て徴収され、それを輸出して得た外貨は工業化の原動力となりました。

全世界にとって不幸だったのは、この五カ年計画が始まった1928年の翌年に「世界恐慌」が起こったという事です。

世界中の資本主義社会が恐慌によって衰退していく中でソ連だけが成長していく現実は、欧米や日本にも大きく影響を与え、共産主義の浸透の手助けをしてしまいます。

自由主義経済の限界を感じた各国は、経済政策に「国」が介入する「社会主義」に感化されてしまいました。

フランクリン・ルーズベルトの「ニューディール政策」もその一つです。

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スターリンの情報統制は徹底しており、諸外国は五カ年計画の実態など知る由もありませんでした。

五カ年計画における農業政策で有名なのが「ソフホーズ」と「コルホーズ」です。

「ソフホーズ」とは、「国営農場」の事です。

国家計画に基づいて、国が指定した作物を栽培し、生産物は全て国が買い上げます。

大規模な農場に高度な機械が導入されており、大規模機械化農場がどれほど有利なのかを国民に知らしめる役割を担っていました。

「コルホーズ」は「集団経営」を意味し、半官半民の協同組合による農場経営です。

土地を所有していた「富農」を追放して国有農場にし、そこで労働者は組合員として農作物を政府に売却して賃金を得ます。

コルホーズは「農協」のモデルになったとも言われていますが、農協とコルホーズの決定的な違いは、農協の場合は農機具や土地が「私有財産」であり、自作農として決定権を持つことです。

コルホーズでは、農民達は土地も農機具も所有を許されず、共産党幹部である組合の役員の指示に従うだけで、収益は均等に分配されていました。

「ソフホーズ」も「コルホーズ」も、どちらも「集団」で農業を行うことにこだわっているのはなぜでしょうか?

利益が均等に分配されるので、サボる人間が出てくるからです。

集団で仕事をする事によって相互監視のシステムを構築し、効率よく農民から収奪できるのです。

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農民は作物を国へ売却しますが、その買取価格は非常に低価格でした。

徴発される収穫物の量は、豊作・不作ではなく「政府の都合」によって左右され、その要求は非常に厳しいものでした。

集団農場に囲い込まれた農民達の不満を押さえつける事ができたのは、「富農(クラーク)」という見せしめがあったからです。

富農とは帝政ロシア時代の地主階級の事であり、ロシア革命や内戦の時にほとんど皆殺しにされて絶滅しています。

しかしスターリンは、勤勉で熱意のある「少しばかり裕福な農民」に対して「富農」のレッテルを貼り、さらにコルホーズへの加入を渋る農家にも「富農支持者」と決め付けて、100万人を処刑しました。

この惨劇は、さらなる悲劇を引き起こします。

「やる気のある農民」つまり指導者的立場にいる人間を一掃してしまった事によって作業効率は下がり、当然のように飢饉が起こったのです。

それでもスターリンは工業化を達成するために、農作物を徴収する事をやめませんでした。

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五カ年計画における飢饉の中で、最も凄惨だったのは「ウクライナ」です。

当時ソ連領だったウクライナは、ヨーロッパの穀倉と呼ばれるほど豊かな土壌を有していました。

農耕地帯のウクライナでは知識人や、反乱分子はことごとく処刑され、厳しい目標収穫高に苦しんでいました。

スタニッツァ・ボルタフスカヤという町では目標の収穫高を達成する事ができず、罰として男達は皆運河の建設現場で重労働を強いられ、女はステップ地方に送られて農地を開拓させられ、男も女もほとんどが死にました。

まさに「見せしめ」の為に4万人も住んでいた町が一つ消滅したのです。

※下の画像は、人口減少をあらわしたものです。赤い地域では、人口が25%以上も減少しました。

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農作物は全て「人民のもの」とされ、勝手に穂を刈ったり、落ちていた穂を拾っただけでも10年間シベリア送りにされるような過酷な状況下で、人々の労働意欲は極限にまで低下しました。

スターリンの虐殺が飢饉を呼び、飢饉が虐殺を呼ぶ地獄となったのです。。

共産主義が生んだ、この「人為的な大飢饉」を「ホロドモール」と呼びます。

道端で死体が転がっていても気にならない、人が死ぬのが当たり前の地獄でした。

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そんな中、1932年にはウクライナから農民が脱出しないように国内パスポート制が実施され、ウクライナは封鎖されてしまいました。

共産党は「オルグ団」を結成して農民達や農場を監視し始め、役人達は各家庭から食料を強奪して回りました。

農民達は犬猫やどんぐりなどを食べて過ごし、ついには病死した馬や人を掘り起こして食べる者も出始めたためにさらに病死者が増え、赤子を連れ去って食べる者も出てきました。

町には死体が山積みになって死臭が漂い、子を持つ親は子供を戸外へ出さないようになります。

五カ年計画の成功を対外に宣伝し続けていたソ連は、このような実情を一切認めず、隠し通そうとしました。

ウクライナでの飢饉による死者数は250万人〜1450万人と諸説ありますが、これがソ連による「虐殺」である事に疑う余地はありません。

1933年になってようやくウクライナからの挑発は中止になり、人々にパンが配られましたがパンを早く食べ過ぎて死亡した人が続出したと言われています。

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さすがに共産党内部からも、スターリンのこのようなやり方に危機感を抱く議員も多数出てきました。

そこでスターリンは部下に命じて対抗勢力の暗殺計画を練ります。

1934年12月、セルゲイ・キーロフの暗殺を皮切りに大粛清が始まりました。

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まずは共産党関係者5000人が逮捕され、収容所に入れられた後に銃殺された後、かつてスターリンが手を組んでいた大物政治家達も粛清の対象になり、メキシコへ亡命していたトロツキーなども暗殺されてしまいました。

しかしこれはまだ序の口で、粛清の対象は政治家だけでなく民衆にまで及び、その数は100万人にも及びました。

1939年にはロシア革命以前からの古参の議員は3%しかいなくなってしまい、スターリンは「個人による独裁」を始める事になります。

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※消された人間は、写真も加工されて「いなかった」事にされました

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※上の画像は、1917年ロシア革命当時の共産党の中心メンバー。生き残ったのはスターリンのみ。

1935年、モスクワで開かれた第7回コミンテルン大会でスターリンは次のように演説します。

「ドイツと日本を暴走させよ。しかしその矛先を祖国ロシアへ向けさせてはならぬ。ドイツの矛先はフランスと英国へ。日本の矛先は蒋介石の中華民国へ向けさせよ。そして戦力の消耗したドイツと日本の前に、最終的に米国を参戦させて立ちはだからせよ。日独の敗北は必至である。そこで、日本とドイツが荒らし回って荒廃した地域、つまり砕氷船が割って歩いた跡と、疲弊した日独両国をそっくり共産主義陣営にいただくのだ」

この演説は「砕氷船のテーゼ」と呼ばれています。

日本が支那事変から日米開戦へと歩んでいくその道筋の影に、共産主義の暗躍があったように思えてならないのです。

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