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【警鐘を打ち鳴らせ】 第一章「振り返れ」

"あらすじ"

 町の中心にある大きな菓子商店で、男は自らの記憶を語り始める。男の傍には、いつも一つの命が寄り添っていた。その生き物は多くは語らず、しかし確かに男を助ける。男と同様、名を持たないその命は灰色と呼ばれていた。やがて男は灰色の知人である、朽葉の経営する貸し本屋で働き始める。其処を訪れた菓子商店の売り子であった春野華は、この町の真実を語ろうとするが叶わないまま姿を消してしまう。帰りたい場所があるはずだと気が付いた男は、自分の意思を、周囲の言葉を信じて、手探りの中、不可思議な現象に立ち向かう。


第一章「振り返れ」




 振り返れ。振り返れ。振り返れ。もっと、もっと振り返れ。今、最も実行すべきは「振り返る」こと。良いか、忘れるな。常に頭に置き、常に実行しろ。

「振り返れ」

 私は、またその言葉で目を覚ます。低く響くその声は割と聞き慣れてしまったようだ。鐘の音や鶏の鳴き声、また、その代わりとなるものが存在しない以上、起床する際に役立っていると言えなくもない。しかし、これで二日連続になる。私がこの言葉で起こされることに少なからず辟易を覚えていることもまた事実だ。

 私がいつものように体を起こすと、いつものように私を見つめる夜の闇のような瞳と目が合う。見続けていると本当に夜に吸い込まれそうなほど、その二つの目は美しく、恐ろしい。そして、闇に染まった夜空に頼り無く浮かぶ三日月のように、瞳の中心には黄金が輝く。私は初めてその瞳を覗き込んだ時、まるで其処に別世界の夜空が映っていると錯覚したほどだ。それ程までに彼の目玉は魅力的だった。

「振り返れ」

 彼はまた、先程と同じ言葉を繰り返す。否、先程どころか、もう幾度となく聞いた同じ言葉である。好い加減に聞き飽きて来るというものだ。

 そう、一日目にして私は聞き飽きていた筈だ。その旨はとっくに伝えてあるのだが彼はそんなことはお構いなしとでも言うかの如く、同じ言葉を同じ声音で以て呪いのように繰り返す。たった五文字の音が織り成す発言は、いつ何時であってもその調子や響きといった正しさを崩すことは無かった。

「振り返れ」

 これで今朝にして既に三度目となる。私はついに耐え切れず、もうやめてくれないか、と懇願に近い心情を抱えて彼に告げた。

「では、お前は真に振り返っているか。振り返ることが出来ているか」

 やっと「振り返れ」以外を発したかと思ったのも束の間、やはりと言うべきか、その短い言葉の中にもそれに関するものはしっかりと組み込まれている。私は頭を抱えた。

 一体、彼は私に何を伝えたいというのだろう。幾度も幾度も繰り返される主語のない「振り返れ」という一言だけでは、その真意を汲み取ることは出来ない。

「もっと、具体的に言ってくれないか。そんなにも同じことを繰り返すほど、私に何かを伝えたいというのなら」

 起きたばかりで良く回らない頭のまま、私は言う。彼は私の言葉を理解しているのかいないのか、やはり依然として同じ言葉を繰り返すのみだった。振り返れ、と。

 私はいよいよ諦めを深くし、大仰に溜め息をついた後、布団から抜け出す。溜め息は決して彼への当てというわけではないのだが、そうでもしないことには自分の中にある感情を整理することが出来なかったのである。

 平たく固い布団を押し入れへと仕舞い上げ、その上に枕を放り投げる。おそらくはそば殻が詰まっているのであろう枕は、がさりと音を立ててから沈黙した。低血圧ゆえか、はたまた彼のせいであるかは知る所ではないが、私は少々の苛立ちを覚えながら襖を勢い良く閉める。

 思った通りの音を立てて襖が閉まる。それを見上げていたのだろう、彼は丁寧にも、焦りや苛立ちが生み出すものはほとんどが無意味で不利益である、と忠告した。その発言が更に私の苛立たしさを深くしたことは言うまでもないだろう。

 朝餉あさげ。白米と味噌汁、それに大根の漬物を頂く。質素ではあるが大切な食事である。私は良く味わうようにしてそれらをゆっくりと口へ運んだ。板間の隅では、私を窺うようにして彼が座り込んでいる。正直、あまり気分の良いものではない。何処か見張られているような具合でもある。

 しゃりしゃりと大根の漬物を咀嚼しながら今一度彼を見ると、感情の読み取れない表情でじっと此方こちらを見据えている。黒曜石のような瞳は間違いなく此方を――私を見ているに違いないのだが、何故か私の体を突き抜けて、遠く、私の意識の及ばない彼方かなたの地でも見ているようにも思う。

 私は終わりに麩の浮かんだ味噌汁を飲み、箸を置く。洗う作業は面倒に感じたので、とりあえず私は器を水に浸して出掛ける準備をすることにした。とは言っても、私の持っている衣類は多くない。

「……うん、綺麗だろう。おそらく」

 昨日と同様の着流しに袖を通す。姿見がないので確認は出来ないのだが、おかしくはない筈だ。目立った汚れも無いだろう。

「汚れているかどうかを気にしているならば問題は無い。汚れることなどないのだ、一切が。本来ならば食事も不必要である。お前が食物を摂取することは単なる己の満足に繋げる為の行為であり、生命維持には無関係だ。時間の無駄とも言える」

 いつの間に来たのだろうか、私が驚きのままに振り向けば、つい先程まで板間の片隅で石像のようにして動かなかった彼が其処にいた。見開かれた瞳が私の姿を捉えている。

「食べなかったら死ぬだろう」

「それは常識の範囲での概念であり、此処では通用しないもの。最初の日にそう言った筈だが、くも人間の記憶能力、或いは理解能力とはこうも乏しいものなのか」

「そう言われてもだ、空腹にはなる。腹が減れば食べたいと思うのは不思議ではないだろう」

「是。しかし、その空腹はお前の錯覚に過ぎない。人間の脳味噌は騙されやすい。そう簡単に己の感覚を信じるべきではない」

 私は今日で二度目になる溜め息を吐き出した。埒が明かないとはこういうことを言うのであろう。私には此処で押し問答をするつもりは無いのである。

 彼の横を素通りし、玄関先へと向かう。その後ろを、さも当然と言わんばかりに彼が追って来る。足音はしない。気配で分かるのである。

 ご丁寧にも、草履を履く間、彼は私の隣で侍従のように佇み、私の用意が済むのをただ待っている。こうして黙ってさえいれば、然程さほどの問題は無いようには思える。

「良いか、忘れるな。振り返れ」

 立ち上がった私に彼はまたも同じ言葉を繰り返す。此処へ来て三日目、既に何度、彼は私に「振り返れ」と告げただろう。最初の内は暇潰しも兼ねて数えていたのだが、初日にして四十回を超えた所で私は数えることをやめた。

 私は引き戸を開け、施錠する。それも彼の言う所の「不必要な行為」に当たるらしいのだが、仮の住まいとは言え自らの住まう処を開け放したまま外出する気にはなれない。

 地面と草履がじゃりじゃりという摩擦音を奏でる間、彼は無言で私に付き従う。彼は移動するに当たって音を持たない。どういう仕組みになっているのかは分からないが、見た目だけで判断するならば彼には足が無い。

 彼はいつも地面擦れ擦れの所を浮いて移動している。私の足元でそのような常識を覆す行為が涼しい顔で行われていることについては未だに慣れないのだが、言及した所で納得の行く回答が得られるわけではないということが分かってしまった現在、最早、気にしないでいることくらいしか私には出来ないのである。

 やがて、この町一番の大きさであり、この町一番の評判を誇る、菓子商店が見え始めた。屋根の上の看板には堂々たる「菓子商店」の文字。他に名前の付けようはなかったのかと、私は見るたびに思う。

 暖簾のれんくぐって中へと入ると、入口付近に佇む売り子の一人が、こんにちは、と私に声を掛ける。こんにちは、と私は返す。今日で三日目ですね、お気に召す所が見付かると良いですね。そう、売り子が他意のない朗らかな笑顔と声で私に言う。そうですね。そう、私は答える。

 この商店の中は少し――いや、かなり変わっている。確かに、此処はこの町で一番大きな商店であり、外観もとても立派なものだ。だが、明らかに外から見た場合と内側の作りが異なっているのだ。まるで空間の法則を無視したかのような広さが、入口から店の奥まで信じられない距離感を以て、ぐんと広がっている。それは縦横に及ぶ。岸壁から遠く海岸線を臨んだような、果てしなく、吸い込まれそうになる程の距離が目の前に一気に広がる。そして、あるのは全て菓子売り場であった。

 この町の人はそんなに菓子が好きなのだろうかと、初めて此処を訪れた時、私はその有り得ない空間の広さと品揃えに圧倒されたのか驚愕したのか、それらからの逃避なのか――そんなことを考えた。

 菓子など女子供の食べるものと思っていたが、客には意外に男性も多く、売れ行きも良いようだ。私の思ったことはあながち間違いでは無いらしい。もっとも、売れ行きが良くなければ此処まで大きな店にはならないだろう。従業員の給金だけでも相当な額に上るのではないだろうか。そんな余計な心配をしてしまう程に商店の中は広く、売り場の数も多く、売り子の数も多かった。

 ただ、全てを見たわけでは無いが、どの売り場にも売り子は決まって一人しかいない。それでもこれだけの売り場の数だ、売り子の数もそれに等しいのならば相当の数になるのであろうと思っている。

 私はいつものように目的も無く、ぶらぶらとうろつく。いや、厳密に言えば目的も無くというのは正しくは無いのかもしれない。私が自身の中でそういう曖昧な認識にならざるを得ない理由は勿論、ある。事象には等しく理由が存在する。これは私の足元に付き従う彼の言である。

 この菓子商店の女主人は長い黒髪を緩く垂らした美しい人で、ひどく綺麗に微笑む。切れ長の瞳を細めて笑む、その姿は本当に綺麗だった。だが私は、其処に何かしら底知れぬ恐ろしさを覚えたのだ。美しさとは時に恐怖を与えるものなのだろうか。

 彼女は私に言った。気に入りの処を見付けたら声を掛けておくれ、と。それまではゆっくりじっくり、めつすがめつ歩くと良いさ、と。それが初日のことだ。

 私はその言葉の通り、広すぎる店の中に面食らいながらも彼方此方あちらこちらの売り場を渡り鳥のようにして歩いた。目下の所、私の目的というのは気に入りの売り場を見付けることだ。理由も分からないままに。

 そうしている内に気が付いたのが、一つの売り場には一人の売り子。そして、一つの売り場には一匹の猫ということだ。

 普通、食べ物を扱う店に動物は入れないものではないだろうかと、私は思った。だが、売り子も客も誰一人、それを気にしている様子は無かった。まるで私の感覚がおかしいのだと錯覚させられてしまう程に、彼らは自然に売り場に佇んでいた。

 幾つもの売り場を巡った後、さすがに疲れた私は手近な柱に寄り掛かり、休憩がてら小考した。此処は一体、何なのかと。菓子商店、そんなことは言われずとも理解している。私が思考すべきことは、もっと根本的なことだ。それこそ、私は此処にいて良いものだろうかと、そういったひどく基本的な所まで私は立ち返らざるを得ない。

 しかし、一人で考え続けてみた所で正しい解は浮かばず、却って混乱を深くしただけのようだった。

 あの女主人に尋ねてはみたのだ。此処は何処だ、と。だが、放たれたのは「此処は町一番の菓子商店さ」という言葉だけだった。そして、それ以上は私の問いに答えてくれることは決して無かった。私には、この広い店の中をうろつくことしか与えられなかったのである。

 ――そういえば、と私は柱に寄り掛かりながら思う。私の足元に付き従う、不思議な彼と初めて会った時のことを。

 あの時、菓子商店内を私がうろついていたら、唐突に腹の底まで響きそうなくらいの低く静かな鐘の音が鳴り渡った。すると、それを合図としたかのように、それぞれの売り場は一様に閉店準備を始め、客は皆、誰もが同じ方向に向かって歩き出した。

 どうやら、この鐘が閉店を知らせるものだと私は思い当たり、私も彼らの後に付いて出口を目指そうと一歩を踏み出した時だった。私は盛大に転び、強かに額を床に打ち付けた。どうやら何かに躓《つまず》いたと認識すると同時、すまない、と声が聞こえた。

「悪気は無かった。どうか許してほしい」

 未だ床に座り込んだまま私が声のする方へと顔を向けると、其処には少なくとも私の見たことの無い、未知の生き物が存在していた。

「気になったものだから、つい近くで見ていたくなった。その欲求に従って行動した結果、お前を転ばせるに至ったようだ。だが先程も述べた通り、悪気は無いのだ」

 私が沈黙したままだったことが気に掛かったのだろうか、

「大丈夫か? 頭を打ったのだろうか。人間は頭を強く打つと様々な弊害を得てしまうと聞いている。もしも今の衝撃で言葉の発音の仕方、或いは言葉そのものを失ってしまったということならば、どれ程の謝罪をしても償うことは出来ないだろう。それを承知で問いたい、私に何か出来ることはあるだろうか」

 目の前で私に向けて話す生き物の外見は、座布団のようであった。これは決して、私が頭を打ち付けたことから生じた視認情報の誤りでは無いだろう。おそらく。

 色は灰色。形は座布団のような正方形。それが座布団では無いと決定付けることには、耳と尻尾が表面から生えていることに他ならない。そして何より、座布団は言葉を話さないだろう。

「私の言っていることが理解出来ないのだろうか。それとも本当に言葉を失ってしまったのだろうか。どうか私の言っていることが理解出来ているのなら、今すぐ右手を挙げてほしい」

 私は混乱していたのだろう。だからだろうか、私はその座布団のような不可思議な生き物の言葉に従ってしまった。すなわち、私は右手を挙げたのだ。

 すると、その生き物は――生き物と判断して良いものか分からないが――何処か安堵したような雰囲気を携えて、灰色の尻尾を一度だけゆらりと振ったのだ。

「良かった。どうやら意思疎通は図れているようだ。安心した。ところで、この店は今日は店仕舞いとなる。とりあえず此処を出ないか?」

「……ああ。いや、その前に」

「私は何者か? そう問いたいのだろう。だが、そんな質問は全く意味の無いことだ。何故なら、ある存在がまた別の存在を正しく理解することなど不可能だからだ。せいぜい、名や容姿や好みなどを把握して理解した気になるということが人間の限界だ。それでも私について尋ねたいというならば止めはしない。しかし、全ては此処を出てからにすべきだ」

 その言葉の、特に最後には抗い難い説得力が見えた。いや、言葉というよりも――目の前のこの生き物の放つ圧倒的な、それでいて正体の分からない力に私は反論する気力を削がれてしまう。

 私は渦巻く困惑や疑問を無理矢理に押し込め、立ち上がった。灰色の生き物は、まるで、それで良いのだと言うように小さく頷いた。私にはそう見えた。

 そして、これ以上に私の心の臓を驚かせようというのか、足元の生き物は急に開眼した。ぎょろり、と二つの目玉が目頭から目尻の輪郭を強調するように動き、下方を通り一回転し、そしてそれはすぐに私を正面から見据える。真っ暗な闇に浮かぶ細い三日月が私を見ていることが分かる。

「さあ、行こうか」

 私を導く水先案内人のように、先に立ってその生き物は進み始める。良く良く見ると、その生き物には足が無く、床から僅かに浮いた所を移動している。どれ程に私を混乱させれば気が済むのだろうか。だが、そのような私の思考を消し去るかの如く、此処に閉じ込められたくなければ急いだ方が良いと私は提案する、という声が前方から聞こえたので慌てて私は足を進めた。

「この鐘の音が鳴り終わるまでに、此処を出なければならない」

 先を行く生き物はそう告げ、今も鳴り続けている低い鐘の音の隙間を縫うようにして私を商店の出口まで案内してくれた。私がお礼を言ったのも束の間、すぐさま、では次は君の住まいに案内しよう、と引き続き、その生き物は案内人を買って出てくれた。

 そうして辿り着いた住居――私の仮の住まい――に、どうやら彼は居座ることにしたのか、私は灰色で正方形で座布団のような生き物と同居することになった。そして、今日で三日目を迎えることになる。

 私は改めて足元にいる彼を見ると、何とも不思議としか形容出来ないことを再認識する。私は未だかつてこのような生き物を目にしたことも無ければ、耳にしたことも無い。

 彼の目が開いた時、猫に似ていると思ったが、世間一般で言うところの猫という生き物は言葉を話さない筈だ。長く生きた猫はあやかしとなって人の言葉を操るとも聞くが――。

「何か用か?」

「いや、何も」

「そうか。無駄な行為は避けるべきだ。お前がすべきことはただ一つ、振り返ること。それ以外は塵芥ちりあくたに等しい」

「もっと具体的に言ってくれないか」

「これ以上の具体性を示すことは出来ない」

「そういえば、お前の名前を聞いていないな」

「急に話題を転換することはあまり感心しないな」

「話が発展しないなら、話を変えるしかないだろう」

「納得。しかし名前など記号に過ぎない」

「いや、初日に何者か尋ねて良いと言ったのはお前だろう」

「許可はしたが、回答するとは告げていない」

「仰る通りで」

 彼とは終始、このような感じである。会話に違いは無いのであろうが、得るものが極端に少ない。

 それにしても独特の話し方をするなと私は彼と口をきくたびごとに思う。嫌いでは無いが、良くも悪しくも妙に人に自分を存在付けるような話し方をする。

 私は彼との会話に見切りを付け、寄り掛かっていた柱から身を離す。そして、ここ数日そうして来たように店内をうろうろとしながら数多の菓子売り場を目に映す。菓子商店の女主人から気に入りの処を見付けるよう言われてはいたが、これといって特別に惹かれる売り場は今の所は無かった。

 各売り場には必ずと言って良い程に試食する場が設けられており、実際に売られている菓子の二種類か三種類くらいが小さな白い皿に綺麗に並べられている。だが、私は元来、然程さほど甘いものは好まない為、今まで試食品に手を付けたことは無かった。しかしながら店内を物色している客は、かなり積極的にその試食品を食べている。私はその姿を見て、少し引いてしまった程だ。

 そもそも試食というものは、その商品がどんな味をしているか確かめる為のものであって、少量を口にすれば済む筈だ。たとえば、団子なら一つ、薄皮饅頭なら四等分の内の一つ、そういった具合にだ。

 ところがどうだろう、客の多くは私の見る限り、並べられている試食の品を全て食べ尽くさんとするかの如く、次々とそれらを口に運ぶのである。最初に見た時など、思わず呆気に取られてしまった程だ。その時は、たまたまそういう場面に出くわしてしまっただけかとは思った。

 しかし、以降に私が見たどの売り場の試食の品も同じような目に遭っていたので、この町の人間は少し常識に欠けるのかもしれないという判断を私は下しつつあった。

 今日も今日とて、その光景は変わらない。常識に欠けていないとしたら、一体どういうことなのだろう。そんなにも飢えているのだろうか。

 そういえば、灰色の座布団のような猫のような――名前が分からない――彼は、私が食事をする行為を不必要と称した。時間の無駄だと。空腹を覚えるのは錯覚に過ぎないと。ならば、彼らはどうなのだろう? この町の人間は皆、空腹を覚えるものの、それは彼の言うようにただの錯覚に過ぎないというのだろうか。その錯覚に踊らされて、それを満たす為にあのようにがつがつと食べているのだろうか。

 分からない。此処は分からないことだらけだ。自分に関しても同義のことが言える。私は何故、気に入りの処を此処で見付けなければならないのだろう。

「お一つ、如何ですか」

 不意に聞こえた声が私の思考を中断させる。声のした方へと振り向くと、一人の売り子がほんの少し首を傾け、にこりと笑っていた。年の頃は十六か十七か、下ろすと肩辺りまでに届くのだろう黒い髪を後ろでまとめている。手の平を宙へと向けた右手は試食の皿を示し、その皿には最中もなか落雁らくがんが並べられていた。

「いや……せっかくだけど」

「そうですか」

 途端、しゅんとしてしまった様子の彼女が私は少しばかり気の毒になり、売り場を後にしようとしていた両足を留めて私は言った。

「やっぱり貰うよ」と。

 そう言って私が最中もなかに手を伸ばすと、ぱっと花咲いたように彼女は微笑んだ。だが、私がそれを口に入れようとしたその時、足元から低く小さく、囁くように言葉を発した者がいた。

「食べるのか」と。

 思わず下を見ると、彼が私を見上げている。この場合の、見上げている、というのは私個人の判断に過ぎない。何となく、彼が此方をじっと見ているように思えたのだ。彼は耳と尻尾はいつものように平面上から生やしてはいたが、その両目は閉じられていた。まるで、其処には初めから瞳など存在しないかのように。

 不自然に行動の止まった私を訝しむように、目の前に立つ彼女が先程よりも首の角度を大きくする。どうやら彼の声は彼女には聞こえなかったようだ。私は彼の言葉の意味を考えるよりも彼女に不審がられることを懸念し、手に持っていた最中もなかを口にした。噛むと、しっとりとした餡が広がる。

「お味は如何ですか?」

「ああ、おいしい」

「よろしかったらお求めになりませんか?」

 ふわりと舞う春の綿毛のように彼女が微笑む。それがたとえ万人に向けられた売り子としてのものであろうとも、私は確かに少なからず惹かれたことを否定出来ない。

「ああ、そうしたいが手持ちがなくてね」

 私は何故か少しの銭も持っていなかった。財布すらないのだ。気恥ずかしさを誤魔化すように頭に手を遣る私を、彼女は笑顔を崩すことなく見つめている。そして、春の風のように穏やかに口を開き、告げる。

「でしたら、何かお話を聞かせて頂けませんか?」

「話?」

「ええ。私、面白いお話を聞くことが好きなんです。特に気に入ったものは書き留めていて、そうしていつか草紙を出版することが夢なんです」

「へえ、それは素敵な夢だ」

 ありがとうございます、と彼女が微笑む。

「そういうわけなので、もし何かお話を聞かせてくれるのでしたら先程の最中もなかをお礼に差し上げます」

 私は、特別にそれが欲しかったわけでは無い。美味だとは思うが、私はさして甘いものを好まない。自分から甘味を買ったことは片手の指で足りる程だ。だが、どうしてだろう、「何かお話を聞かせてくれるのでしたら」という彼女の言葉が、まるで走馬灯のようにくるくると頭の中で廻り続けている。

 私は彼女の言葉に頷き、売り場の奥に設けられている小部屋で少しの間、彼女に話をすることにした。売り場には「休憩中」の札が立てられる。

 そして彼女に続いて売り場の奥へと足を進める私の後を、影のように彼が付いて来る。彼はいつも、こうしてずっと私に付き従うようにして決して傍を離れることは無いのだ。

「退屈なら他を見ていても良いぞ」

 私なりの彼に対する気遣いだったのだが、彼はそんな言葉など聞こえていないかのように相変わらず瞳を閉じたまま黙って私に付いて来る。

「狭い処ですけど」

 僅かに恐縮した様子で彼女は私に座布団を勧める。私は草履を揃え、座敷に上がり、礼を言って座る。すると彼女は小さな机の上に置かれたままになっていた、筆、硯、和紙の束を手に私の正面に座った。既に硯には墨が用意されていた。

「それでは、よろしくお願いします」

 改まって彼女にそう言われたものの、何を話せば良いかと私は逡巡した。面白い話と彼女は言っていたが、そう一括りにするにも話というものは多くあり、面白さにも様々な種類があるだろう。

 私は、具体的にどんな話が良いのか彼女に尋ねた。彼女は先程と同じように、面白いお話が良いです、と言う。そして、不思議なお話も好きです、と付け加えた。

 少しの思案の後、人伝てに聞いた話でも良いのかと私が確かめると、彼女は肯定した。私は、いつかに聞いた、記憶の底に沈んでいるそれを思い出しながら口を開いた。 

「――もう数年は前に知人から聞いた話なんだが。良く晴れた秋の日、その男は家の前の畑を耕していたそうだ。麦の種蒔きをしようとしていたらしい。男は其処に住み始めて十年は経つそうで、その畑ともそれだけの付き合いをしてきたわけだが、このような奇妙なものを掘り出してしまったのはついぞないと、大層、驚いたと聞く。男はただ、いつものようにいつものくわで畑を耕していただけだ。その時、何か奇妙な手応えを鍬の先に覚えた男は、座り込んで土を手でどけてみたらしい。石か木の根か、そういうものを想像していたらしいが、男が目にしたものは猫だったという」

「猫?」

 書き留める筆を動かす手を休め、彼女が不意に顔を上げる。ああ、と頷き私が再び話し出すと、彼女もまた再び書き始める。

「まさか畑に猫が埋まっているとは思わなかった男は動揺し、腰を抜かしてしまったらしい。そして更に驚くべきことに、今まで土の中にいた猫は急に目を開け、あろうことか自力で這い出て来て、ぶるりと体に付いた土を払うように体を揺らし、口から大量の土を吐き出したという。その後、すぐに猫は山の方角へと駆け出して行ったらしい。何事かと男は言い知れぬ恐怖を覚えたが考えてみた所で分かるはずも無く、そのまま畑を耕し、麦の種を蒔いたという」

 私は一度、言葉を切り、続きを話した。

「――そして、その翌年の収穫期、麦秋至むぎのときいたるの頃。見事に実った麦を男が収穫している時だった。男の耳に、か細い鳴き声が聞こえた。風の音か、気のせいかと思ったが、それはずっと途切れること無く聞こえ続けている。微かにしか聞こえないが、それは確かに何かの鳴き声だった。

 男は収穫の手を一旦休め、声の出処を探し当てるべく、じっと耳を澄ました。すると、声は非常に近い所から生まれていると気が付き、男は自らの足元や辺りを見渡したが、人も獣の姿も無く、いよいよ不審に思い始める。

 だが、依然として何も見付からず、男は刈り入れの作業に戻ろうと鎌を握り直した、その時。男は自分の目を疑った。今、まさに刈り取ろうとした麦の穂。それを良く良く見れば、其処に実っているのは麦などでは無く、猫の頭だった。とは言っても実際に猫の頭の大きさをしているわけでは無く、麦の一粒、一粒の大きさに等しくなっている。連なるそれは全て、全てが同じく猫の頭であったという。男は声にならない悲鳴を上げ、鎌を落とし、家へと駆け戻った。

 家では丁度、男の妻が朝の残りの米と雑穀で握り飯をこしらえている所だった。男によって勢い良く開かれた扉の音は妻を驚かせたが、それ以上に男は驚くことになる。たった今の恐ろしい出来事を話すべく男が駆け寄った妻の手にしていた握り飯は、米粒のように小さな猫の頭の集まりで出来ていたからである。

 今度こそ男は大きな叫び声を上げ、思わず妻の持っているその握り飯を叩き落とす。これまた妻も驚く。男は今まさに見た光景と、少し前に見た光景を驚愕も露わに妻に話す。だが、握り飯も畑の麦も、妻には何の変哲も無いように見える。男の目にだけ、それらは猫の頭に映っていたのだ。

 其処で一度、男の意識、記憶は途切れる。次に気が付いた時、男は畑の前に立っていたという。眼前には実りに実った麦。右手には鎌。振り返った先には自らの家。男はしばらく呆けていたが、やがて麦の刈り入れを始める。何かを忘れているような気がしてならないものの、何を忘れているのか、実際に忘れてしまったことがあるのか分からないまま、手を動かし続ける。

 やがて全ての麦を刈った男は、その一部を持って家に入る。家では男の妻が米と雑穀で握り飯を作っていた。それを一つ受け取り食べながら、やはり何かを何処かへ落として来たような感覚を拭い去れず、男は考え込みながら一つ目の握り飯を食べ終える。そして同じように二つ目の握り飯も食べ終える。三つ目を手にした時、男は聞こえない筈の細い風のような鳴き声を聞いた気がして、ふと顔を上げる。

 其処へ妻が白湯を差し出す。それを受け取った時、どうしてか男には妻の顔が良く見えなかった。男は、白湯を一口飲んだ後、改めて妻の顔を見る。男は自分の息が止まったかと思う程の衝撃と驚愕と恐怖に包まれる。何故なら、妻の顔は見知ったそれでは無く、金色こんじきの毛の生えた山猫になっていたからだ。妻なのか化け物なのか分からないその生き物は、たった一言、思い出さなければ良かったものを、と男に告げて、大きな目を更に大きく見開き、口を開き、尖った牙のような歯を見せ付けるようにした。

 此処でまた、男の意識、記憶は途切れる。気が付いた時には、男は麦畑の中に一人で立っていた。時が止まっているかのように立ち尽くす男の周囲で、不意に生じた一陣の風を受け、麦の穂がさわさわと音を立てて揺れた。

 男は、はっとしたように目を自らの家へと向ける。そして男は麦の間を通り抜け、家へと戻る。其処には、米と雑穀で握り飯をこしらえる妻の姿があった。

 男の方を見た妻の顔はいつもの妻の顔で、男の見たことのないものでは決して無かった。男は混乱した頭で考える。何かを忘れてはいないか、と。どうして自分は見慣れた筈の妻の顔を見て、ほっとしたのかと。この安堵は一体、何処から来るものだろうかと。

 其処で、ふと男は妻に渡すものがあったことを思い出す。ひどく唐突に、それは思い出された。男は懐に手を入れ、珊瑚の飾られたかんざしを妻に手渡す。町で買ったんだ、お前に似合うと思って、と。妻は喜び、嬉しい、と口にした。そして、髪に挿し、似合う? と男を振り返る。ああ、と男は返事をする。

 妻は少しの涙を浮かべて、覚えていてくれたんだね、私達の結婚した日を、と心底から嬉しそうに言った。

 ――結局、己が忘れていたものは妻への贈り物であったのかと、男は考えを其処へ落ち着けるに至った。男の記憶にはほんの少しも、あの一連の奇妙は残されていなかったのだ。即ち、畑の麦が、握り飯が、小さな猫の頭で出来ていたこと、妻の顔が山猫のようなものになっていたこと。

 ただ、事実を覚えてはいないものの、些細な棘のようにして男の指の先に刺さっていた引っ掛かりはいつしかすっかり消え去り、いつもの変わらない日常を男は取り戻した。

 しかし時折、猫の鳴き声や細い風の音を耳にするたび、男は何かをふと思い浮かべるという。それが何かは男にも分からない。男の指に刺さった棘は本当は今も其処にあるのかもしれない」

 私が話し終わって少しした後、彼女は筆を動かす手を止め、顔を上げた。彼女の手元にある和紙には、細く美しい文字で私の話が書き留められている。

「ありがとうございます。不思議なお話ですね、面白かったです。知人の方とは今もお会いになるんですか?」

「いや、最近は……」

 其処で私は言い淀む。自らがたった今、話した内容にあったように、自分が何かを忘れているような気がしたのだ。そして、それが思い出せない。私はまるで自分が話の中の男になったようにも思え、不可思議な感覚に陥った。

「どうかしましたか?」

 黙り込んでしまった私に彼女が声を掛ける。いや、何でもないんだと答え、私は立ち上がる。どれくらいの時間が過ぎたか分からないが、彼女があまり長らく売り場を空けるのも良くないだろう。

 私は休憩中の札が立てられたままであろう売り場を思い描き、そろそろお《いとま》するよと告げると、彼女も立ち上がる。先に行って|最中もなかを用意しておきますね、今日は本当にありがとうございました、と彼女がお辞儀をする。心なしか「本当に」という言葉が強調されたように私は感じた。

 小部屋を出て行く彼女の後ろ姿を見ながら、私は先程に覚えた小さな引っ掛かりは一体何だったのかと思い耽る。知人の方とは今もお会いになるんですか? という彼女の言葉を今一度、反芻はんすうする。そして、ふと彼女が使っていた筆、硯、和紙に目を遣る。だが、特に何かを思い出すきっかけには成り得ず、気のせいかもしれないと思い直し、私は草履を履いた。

「振り返れ」

 不意に背後から聞こえた声に、その言葉のまま、私は振り返る。其処には、彼がいた。座布団のような、猫のような、灰色の彼が。

 そういえば話をしている間、彼は一言も口を開かなかった。話すことに気を取られていたので、彼がどんな様子でいたのかも分からない。

「ずっといたのか。退屈しなかったか?」

 彼は瞳を閉じたまま、じっと此方を見ているような気がする。何とも居心地の悪さを覚え、私は彼から視線を剥がし、小部屋を出ようとした。彼は私の後に続きながら、低く小さく呟いた。

「愚かな」と。

 それは独り言と称するには大きく、私に向けての言葉だとしたら小さく。ただ、まるで棘のように刺さる声だった。




第二章「完全トーティエント数」


第三章「遭遇、降雨」


第四章「樹形図」


第五章「対峙」


第六章「再会」


第七章「消失」


第八章「産道を経て、揺り籠に生まれ落ちる」


第九章「縁」


第十章「惜別」


第十一章「魂」


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