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【警鐘を打ち鳴らせ】 第六章「再会」

第六章「再会」



 結論から言えば、予想の通りだった。灰色の彼は朽葉の貸し本屋に、私を働かせる話をしに来ていたらしい。朽葉は既に了承済みで、早速、私はその翌日から仕事をすることになった。とは言え、朽葉の言うことには「大した仕事は無いよ」ということだった。ちゃんと説明しろ、と灰色の彼が促すと、考え考えといった様子で朽葉は幾つかの仕事内容を私に告げた。

 貸し本屋と言うからには本を借りに来る客の相手が主かと考えていたのだが、朽葉曰く「あまりお客さんは来ない」らしい。その中で私がすることは、客の相手、本の整頓と管理と修繕、掃除、だそうだ。しかし基本的に暇なので、空いた時間は読書なり何なり好きなことをして良いと。そんなことで良いのだろうか。私がそう聞くと、「良い」という返事が返された。店主である朽葉がそう言うのだから問題は無いのだろうが、いささか腑に落ちない感はある。

 ――とにかく、今日は仕事第一日目である。気合いを入れて臨むべく、私は伝えられた昼より少し前に朽葉の貸し本屋を訪れた。

 戸を叩き、名前を名乗ろうとして私は言葉に詰まる。代わりに、灰色の彼の所から来た、今日から此処で働く者ですと告げる。開いてるよ、という朽葉の声を受けて戸を引くと、彼は受付台と思しき所でお茶を飲みながら桜餅を食べていた。

「おはよう、君も食べる?」

 その穏やかな内容と所作に私はどうも出鼻を挫かれた。

「いや、だから本当にお客さん来ないんだよね。あんまり」

 それが私の表情に出ていたのだろう、その後、言い訳のように朽葉は言った。

 本当だとしても店に入ってすぐの所でお茶を飲んでいるというのはどうなのだろうか。もしも客が入って来たら目に付くだろうに。

「君は甘いものは嫌い?」

「いや、嫌いではないが、そんなには食べないかな」

「そうなんだ。これは、然程さほど甘くないけど」

 食べる?

 そう言って、朽葉は桜餅の載った小皿を此方へ差し出して来る。礼を言い、手を伸ばし掛けて、はたと私はそれを止めた。

 和菓子。途端に蘇る出来事の数々。菓子商店で、御代はいらない、その代わり話を聞かせてほしいと請われ、二度、それを受けたこと。そして和菓子を貰ったこと。

 はっきりとは言えずとも、あの菓子商店は何か異質だ。それは、商店内の店ごとに猫がいるとか、彼らも灰色の彼や朽葉のように人の言葉を操るとか、菓子を買うのに金では無く話で構わないと言われることとか、そういった表面的なことでは無い。勿論、それらも十二分におかしなことだ。だが、それ以上に何かがある。証はなく感覚的なものに過ぎないが、無視出来ないものだ。そのような場所で私は働こうとしていた。今になってようやく、底知れぬ恐怖を覚える。

「大丈夫だよ。これは、あの店で買ったものじゃないから」

 見透かしたかのように言い、朽葉は僅かに微笑んだ。少なくとも私にはそう見えた。灰色の彼もそうだが、朽葉もあまり表情豊かとは言い難い。それでも微かな変化はある。

 微笑んだまま、朽葉はもう一度、言った。食べる? と。今度こそ私は一つ、桜餅を食べた。甘さ控えめの餡と塩気のある桜の葉が丁度良く合い、それはとてもおいしかった。私の分も用意してあったのだろうか、すぐ其処に置いてあった湯飲みに朽葉が茶を注いでくれる。私がそれを飲み干すと、頃合を見て朽葉が味について尋ねて来た。

「おいしかったよ。ありがとう」

「良かった。ええと、灰色の彼、だっけ。君はそう呼んでいたよね」

「ああ」

「彼から聞いているかもしれないけれど、此処では三という数が大事なんだ。もう君は二度、あの菓子商店で菓子を口にしているよね」

「そうだ。三度目の時は彼が止めてくれた」

「御代は君の話?」

「ああ。朽葉に言ったか?」

「いいや、大体はそういう仕組みだからね。それでね、もう二度とあの商店で菓子を食べたり君の話をしたりしないでね。君が戻りたいと望むなら」

 まるで今日の天気でも語っているかのような穏やかな様子で、さらりと朽葉は重要なことを告げる。

「三度、菓子を食べて話をすると戻れなくなるのか?」

「あまり詳しくは言えないけれど、そういうこと。だからこそ灰色の彼は止めたんだよ、君を」

 私は、あの時の彼の様子を思い出す。その剣幕の凄さをありありと脳裏に描くことが出来る程、確かに彼の態度は強く真剣だった。私は改めて彼に感謝した。

「それと、この間のことだけど。僕の書いた本を読んだなら分かるかな」

 その言葉に、私は灰色の彼が借りて来た朽葉色の装丁をした一冊の書物を思い出す。其処には体験記のようにして金色の生物のことが書かれていた。

「金色の生物のことか?」

「そう。今後も気を付けてね」

「ああ」

 もぐもぐと残り一つの桜餅を食べ、朽葉はお茶を飲んだ。

 しかし、こうしてまじまじと見ると本当に不可思議な生き物だと思う。耳と目の感じからするに猫のようにも見えるのだが、灰色の彼はそれを否定した。確かに普通の猫は人間の言葉は話さないし、座布団のような形もしていないし、宙を飛ぶことも無いだろう。だが、世には猫又という妖怪の話がある。それとは少し違うのかもしれないが、とにかく見た目を喩えるならば「猫のような」という形容が最もしっくりと来るのだが。

「何か用事?」

 見つめ過ぎたのか、気が付くと朽葉が私を見上げて軽く首を傾げるような様子を見せていた。何でもないと返すと、特に意に介した風も無く、朽葉はふわりと受付台から浮き上がった。

「じゃあ、あとはよろしく。滅多にお客さんは来ないけど、分からないことがあったら奥にいるから呼んでね。基本的には、この帳面に、貸し出す本の題と著者と、借りる人の名前を書いて貰えば良いだけだから。返しに来た場合は消してね。その時、本が傷んでないかも見て。料金は一律」

 其処まで一息に言い、奥へと舞う朽葉。とりあえず掃除でもしていようかと、近くにあったハタキを手にして私が立ち上がった、その時。

「そうだ。一つ、頼み事があるんだ。帳面の一番後ろに書き付けてある本を探しておいてくれないかな。何処かにある筈なんだ」

 朽葉は思い出したように付け加え、私の返事を待つようにして滞空している。

「ああ、分かった」

「ありがとう、よろしくね」

 そして、朽葉はくるりと踵を返す。私はその背を見送り、まずは探し物からにするかと帳面の最後のページを捲った。其処には、かなりの達筆でこう書かれていた。

【産道を経て、揺り籠に生まれ落ちる】

 変わった題だ。とにかく私は、その本を探すことにした。





 ――暇だ。その一言に尽きる。私が此処に来たのが昼の少し前、今は夕刻に近い。玄関戸を微かに透かして見える外の景色は、ほんのりと薄暗くなっている。だが、本日の客は誰一人としていない。朽葉の言葉通り、この貸し本屋を訪れる人間はほとんどいないようだ。勤めの初日とあって少なからず緊張し気合いを入れて臨んだ今日という日は、暇に食い潰され、そして主に掃除で終わろうとしていた。

 朽葉に頼まれて探していた本は見付かってはいない。最初にその本を探し始めたのだが見当たらなかったので、書棚の掃除をしつつ端からじっくりと見て行こうと思い実行したのだが、こうして日暮れ近くになってもそれは目に入らぬままだった。本当に、此処にあるのだろうか。

 あれから一度も朽葉は此方へ姿を見せることはせず、私としても特別に困ったことがあったり用事があったりしたわけでは無かったので、声を掛けることはしなかった。しかし物音一つしないので、少々不安を覚えてはいる。眠ってでもいるのだろうか。そういえば、この店の閉店時間を聞いていない。いつ頃に店仕舞いをすれば良いのだろう。もう一度、頼まれていた本を探してから尋ねてみることにしようか。

 其処まで考えて私が椅子から立ち上がった時、控えめな音と共に表戸が少しだけ開かれた。だが、待ってみても、それ以上に戸が開かれる気配は無い。客だろうか。私は不審に思いつつも近付き、細く開かれた戸の前に立った。誰もいない。

「あの」

 丁度、死角になっている右隣の方から不意に声がし、私はいささか驚きながらそちらを見る。逆光の中、長い黒髪を後ろで束ねた一人の少女がひっそりと佇むようにして其処にいた。その表情は俯いている為に良く分からない。

「あの、まだお店、開いてますか」

 年の頃は十六か十七か、その辺りだろう。少女は此方の反応を窺うように、一言ずつを区切りながらゆっくりと言った。

「ああ、どうぞ。いらっしゃいませ」

 私がそう言って中へと招き入れると、俯いたまま少女は先程の言葉のようにゆっくりとその足を店内へ進める。

 そして、入り口から一番近い左端の書棚の前に立ち、其処でようやく少女はその顔を上げた。だが、薄暗くなりつつあるこの時間では、はっきりとは見えない。

 私は戸を閉め、行灯あんどんに火を灯す。途端、ぼわりと屋内が明るくなる。そのまま少女の背へ視線を向けると、明かりを受けて射干玉ぬばたまのように輝く黒い髪がいやに美しく見えた。

 少女は左端の書棚から徐々に右へと移動して行く。目当ての本を探しているのか、ごく微かに首が上下左右を彷徨うように動いて行く。私は元の通りに椅子に腰掛け、特にすることも無い中、何となく少女の後ろ姿を見ていた。少女は、沼の底の碧と紺が暗く入り混じったような色合いの着物を着ていた。

 ――どれくらい経っただろうか。ふと玄関戸の方へと視線を遣れば、先程よりも外は大分暗くなっているようだ。行灯の明かりが色濃く家屋内を照らし出している。

 少女へと視線を戻せば、一番右端の書棚の前で、じっとしていた。その手には一冊の本があるようだ。ぺらりぺらりとページをる音が静寂の中にひっそりと囁きのように響く。私は、その後ろ姿を眺めながら、何処か遠い昔日せきじつを見つめているような心持ちになった。

 あまりにも静かなせいだろうか。其処には、私と少女の二人きりしかいなく――奥の間には朽葉がいるのだが――まるで世界から切り離されたかのような感覚を私はいつしか味わっていた。耳を漂う静謐せいひつと、何処か幻想的にも目に映る行灯のほの明るさが、より一層のこと、この時間を浮き彫りにする。

 そして、其処に存在している、ほとんど一定の間隔で生じているであろうページをめくる音が、だんだんと心地好く、愛おしくすらなって来る。込み上げる、この感情は一体何であるのか。私には良く分からなかった。

「これ、借りても良いでしょうか」

 不意に私は幻想から呼び戻される。気が付けば少女は私の前に立ち、一冊の本を差し出していた。

  私は慌てて首肯しゅこうし、返答する。台帳を取り出し、朽葉に言われた通り、書物の題や著者名などを書き留めようとした。その時であった。目に飛び込んで来た題は【産道を経て、揺り籠に生まれ落ちる】であり、それは朽葉に探すよう頼まれていた本だということに気が付いたのだ。その気付きが顔に出たのだろうか、少女は「どうかしましたか?」と尋ねた。

  私はどう答えるべきか思案し、同時、この本を貸し出して良いものかどうかを悩んだ。朽葉に確認を取るべきだろうか。

「この町の北に沼があるのをご存知ですか?」

 突然、脈絡の無いことを振られて私は少々、反応が遅れた。

「沼?」

 顔を上げて尋ねると、少女は深く濡れたような瞳で私を見返した。

「そうです。結構大きな沼で、此処らでは割と有名なんですよ」

「いや、知らないな」

「良かったら、明日、私と一緒に見に行きませんか?」

 少しだけ首を傾けて少女は微笑む。その細く頼りの無い三日月のような微笑みが、強く私を惹き付ける。だが、私は少女のことを知らない。初対面だ。初対面の筈だ。しかし、まるで旧知の仲のように目の前の少女は微笑む。私は、その笑顔に言葉では説明し難い感情を覚える。強いて言うならば先程にも思ったことだが、過ぎ去った昔日せきじつを思い返しているような。これは一体、何なのだろうか。

 そして私は、本当に彼女と初対面なのだろうか。その柔らかな表情に見覚えがあるように思うのは、果たして気のせいなのだろうか?

「無理なら、良いんです。この本を貸して貰えれば、それで」

 私の思考を断ち切るようにして、表情とは相反する張られた弓弦ゆづるの如く、しっかりとした声音で彼女は言った。

 そして、受付台の上に置かれた本の上に、その白く細い指を数本、添える。私は今一度、朽葉に確認を取るべきか思い悩んだが、彼女の芯の通った物言いに半ば押されるようにしてその本を貸し出すことにしてしまった。台帳には、それぞれ記入すべき欄があらかじめ設けられている。それに従い、私は以下のように記入をした。

 題:産道を経て、揺り籠に生まれ落ちる

 著:鳴日

 人:春野華

 著作者名は何かに引っ掻かれたようにして掠れており、全てが読み取れない。私は仕方なしに名のみを記入した。

 少女は一つお辞儀をし、大事そうに本を抱える。

 そして彼女が引き戸を開けた時、私はほとんど衝動に突き動かされるようにして言った。それは、ありきたりな言葉だった。しかし、私にとってそれはひどく重要な一言だったのだ。

「何処かで会ったことはありませんか」と。

 少女はゆっくりと此方を振り向き、次いで同様にゆっくりと笑った。少女の動作はその多くがとても穏やかで、まるで春の陽射しのようだった。春の小川のようだった。私は、ふらふらとそれに引き寄せられているのだろうか。

 少女の唇が美しく弧の形を描いた後、鈴のような声で私を包み込むようにして言葉を放つ。

「お忘れですか? 二度程、お話を聞かせてくれたではありませんか。菓子商店で売り子をしていた者です」

 ――そうだろうか?

 私が最初に思ったことは疑問だった。確かに、「菓子商店にいた売り子」と会ったことは数度、菓子代の代わりに話をしたことは目の前の少女の言う通り、二度ある。また、それ以上の関係性は有りはしない。

 だが、幾らそれだけの縁だったとは言え、そう遠い出来事では無いのだ。初めに出会ってから十日も経っていないだろう。それだけの日数で、私は私が出会った人間のことをすぐに思い出せない程に忘失ぼうしつしてしまうのだろうか?

 それに、「彼女」は菓子商店を辞め、故郷に戻ったと聞いている。確か、菓子商店の女主人が、そう言った筈だ。ならば、目前の少女は一体誰であろうか。そういった疑念が私の表情に滲んでいたのだろう、少女は私の疑心をすくい取ったかのように答えを教えてくれた。

「つい先日、菓子商店を辞めて故郷に戻ったんですが、此処の町が懐かしくなって。そういえば、お土産も何も買わずに帰ってしまったなあと思い、少しだけ戻って来たんです」

「そう、だったんですか」

「何だか、この世の者では無い者を見るような目ですね。そんなに不思議ですか?」

 私が、此処にいることが。

 言外にそう告げて、少女は再び美しく、ゆっくりと微笑む。薄暗がりの中でもそれと分かる程、その微笑は美しいのだ。ただ、それだけのこと。それだけのことなのに、胸がざわつくのは何故だろうか。黙りこくってしまった私を意に介した風も無く、抱えた本を持ち直し、少女は自らの名を名乗った。

「私、春野華はるのはなと言います」

 はるのはな。行灯あんどんの明かりの下、手元の台帳に目を落とすと、先程に私が書き記した「春野華」という文字が目に入る。

「あと数日は、この町にいます。この本を返す時、またお会い出来たら良いですね」

 私の返答を待たず、或いは欲せず、少女――元、菓子商店の売り子である春野華――は今度こそ戸の向こう側に去って行った。私はそれを何処か夢心地で見つめ、そして、しばらくの間、閉じられた戸から視線を剥がせないままでいた。

 彼女は本当に、あの時の売り子なのだろうか。疑問や違和感を覚えるのは服装のせいかもしれないとも思う。

 私が今までに見た彼女は菓子商店での姿だけだ。動きやすそうな着物に白地の前掛けを腰から身に着けて、三角巾を結んで。春に咲く野原の花のように笑い、菓子を勧め、私の話に耳を傾け、それを書き留めた。其処まで考えて、ああ、春という共通点があると私は気が付くに至った。菓子商店で、彼女は春の花のように笑った。そして先程、此処の貸し本屋で彼女は春の陽射しを思わせる、ゆったりとした穏やかで暖かさすら思わせる所作を呈していた。

 だが、と思う。その笑顔は決して私の記憶にあるような、春の花のようでは無かった。美しくも少々恐ろしい、冴え冴えとした冷たい月のような笑顔だった。それは菓子商店にいた彼女のものとは似ても似つかず、また、その彼女からは想像するのも難しい程のものであった。本当に彼女は――春野華は、私が会ったことのある彼女なのだろうか?

 春野華。私は再び手元の帳面を見、その名前を目に映し込む。私の思考に幾度も生まれた「春」という一文字が、れっきとした存在感を放つようにして其処に佇んでいる。はるのはな。はるの、はな。春の、花?

 唐突に私はその名前にすら疑問を持ち始める。菓子商店で出会った彼女についての私の記憶に照らし合わせたように、その名は其処に書かれている。名はたいを表す、とは言え、これは如何にも出来過ぎではないだろうか。否、別段、珍しい名前では無い。私の考えすぎかもしれない。私は少しばかり疲れているのかもしれない、少し前に会ったことのある人間が服装を変えて訪ねて来ただけで本人と分からないくらいに。

 ――本当に?

 私は思考するたびに疑念に取り憑かれる。この町に来てからというもの、今のように考えがまとまらないということはしょっちゅうだ。まとまったことなどあっただろうかと思ってしまうくらいに。だが、私は考えるということをもう諦めてはならないように思っていた。

 不意に朽葉の言葉が蘇る。

 ――おそらく流れというものが君を最終地点まで押し流そうとする。元へ帰りたいのなら、それに従ってはいけないよ。

 そう、朽葉は言った。

 そして、灰色の彼は出会った当初から幾度も繰り返した。

 ――振り返れ。

 辿って来た道筋を正しく振り返り、理解し、正しく戻ること。それが私がすべきことであり、最優先事項であるように私は捉えている。これは灰色の彼と朽葉の二者から学んだことだ。私は戻りたいのだ。何処とも知れぬ、私の故郷へ。その為には、紛れも無い私のものである筈の記憶、私のものである思考を有耶無耶うやむやにしてはならない。

 私は、もう一度、彼女と話をしてみようと思った。彼女が本を返しに来る、その日に。

 目蓋の裏側に先程の彼女の姿が行灯あんどんの明かりのように思い浮かぶ。沼の底のような深く暗い碧と紺を混じり合わせたような着物の色がいやに印象的で、それが畏怖いふを思わせる程に美しい笑顔と重なってゆらりと波のように揺蕩たゆたう。その波間に溺れそうな私を引き戻すかの如く、背後から、聞き慣れた声が不意に私に掛けられる。

「お客さん、帰った? もう店仕舞いしようか」

「ああ。そういえば、いつもは何時くらいまで開けているんだ?」

「特に決めてはいないんだけれど、大体、日が傾いた頃には閉めているかな。お客さんがいればその限りではないけれどね。でも、滅多に来ないから。今日は珍しかったね」

「そんなに人が来なくて儲けはあるのか?」

「それなり。それに、多くのお金を得る必要は無いからね、此処では。それでなくても僕らは――ああ、君が灰色の彼と呼ぶ者もそうなんだけれど、僕らは食べなくても過ごして行けるんだ。だから、さして困らない」

 告げて、朽葉はふわりと私の近くまで舞い、そういえば頼んでいた本は見付かった? と尋ねて来た。

 私は少し躊躇いながら、その本を先程のお客に貸してしまったことを告げる。貸して良いものかどうか迷ったのだが、と言い訳のように付け加えて。

 朽葉は黙ったまま受付台の上に開かれたままになっていた台帳を見つめる。そして、私の見間違いで無ければ一瞬、小さく震えたように思える。

「朽葉? やはり駄目だっただろうか、貸してしまっては」

「いや、そんなことは無いよ。此処にある本で、貸し出し禁止の物には札を付けている。これは、その類いでは無いし……」

 不自然に朽葉は言葉を切った。何処か考え込む風を見せ、顔を上げぬまま、朽葉はじっと台帳に視線を落としたままだった。

 ぼわりとした行灯あんどんの明かりが徐々にその光を強くして行く。いや、外が暗くなっているのだ。ややあって、はっとしたように朽葉は私を見て言った。

「ごめん、遅くまで。今日のお客さんは、この一人だけ?」

「ああ、そうだ」

「じゃあ、あとは僕がやっておくから。そうは言ってもほとんどすることは無いけどね。お疲れ様」

 若干の引っ掛かりを覚えながらも、私はその日、朽葉の貸し本屋を後にした。

 そして、この町での住まいとなっている家に戻ると、いつもの定位置で灰色の彼はとうに眠りに就いていた。

  静けさで満たされた家屋の中が、どうしてかほんの少しだけ、物足りないように思える。どうしてだろうか。その疑問に答える私は私の心内には存在しない。事柄を有耶無耶うやむやにしたくないと思ってはいても、取っ掛かりすら無い感覚はどうすることも出来はしない。

 私は部屋に入り、床に就く。その暗闇の中心で、短くも強烈な内容を記した朽葉色の本を思い出す。同時、禍々しい程の猩々緋しょうじょうひと金色が朽葉色を飲み込むようにして混じり込む。目を閉じた後も、それは続いた。

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