見出し画像

【警鐘を打ち鳴らせ】 第四章「樹形図」

第四章「樹形図」



 今日も雨が止まない。これで三日目だ。昨夜もずっと降り続いたようで、その雨音の大きさもさることながら、雨垂れの勢いもまるで増水した川の音のように絶え間なく響き続けていた。おかげでなかなか寝付くことが出来ず、眠り自体もひどく浅いものとなってしまったようだった。これで二日連続、安眠出来ていない。

 私は昨日の朝のように強く目をこすり、意識的に瞬きをを繰り返す。それでも眠気特有の気怠さから解放されることは無かった。だが、安眠などこのままでは永遠にやって来ないのかもしれない。大袈裟では無く、そう私は思う。

 もともと少なからず覚えていた違和感は、じわじわと確実に膨らみ続けて行く。しかし、私にはその正体を突き止めるだけの判断材料も知識も充分な量が無く、加えて、思考をまとめようとするともやが頭の中にゆっくりと生じて行く始末だ。せめて行く手を照らす灯台のようなものがあれば、どんなにか良いだろう。

 もしかしたら、菓子商店で仕事をしてみれば何かが少しずつでも分かって来るのかもしれない。思えば、私はこの町で数人としか会話をしていない。菓子商店の女店主、もう辞めてしまったという売り子、そして彼だ。

 私が朝餉あさげを取っている間中、彼はいつもの定位置である板間の隅から髪の毛一本程も動かない。閉じられた目蓋も開く気配が無い。まだ眠っているのだろうか。

 綺麗な立方体に切られた豆腐の浮く味噌汁を飲みながら、私は今日一日をどう過ごそうか考えていた。菓子商店での仕事について詳しい話を聞きに行こうかとも思っていたのだが、今日の天気は昨日よりも遥かにひどい。

 雨音はひょうが降っているのかと思わせる程でもあるし、それに負けじとでも言うかのように風音が鳴り響く。いつかに読んだ、世界の終わりの洪水を思い出させる天候だ。おそらく傘もほとんど意味を為さないだろう。正直、このような日に外出する気にはなれなかった。

 私は箸を置き、天井を眺める。何を思案すべきかすら思い悩む私を邪魔するかのように、雨と風は勢いを増して行く。

「済んだか」

 急に声を掛けられて私は思わず体を揺らしてしまう。

「起きていたのか」

「とっくにな。それで、食事は済んだのか」

 視線の先、板間の隅から彼が問う。未だ、その目は閉じられたままだ。

「ああ。そういえば、お前が何かを食べている所を見たことが無いな。最初に会った頃、此処で食事を取る必要は無いと言っていた気がするが、お前もそうなのか?」

「そうだ。もっと言えば睡眠も必要では無い。生きて行く為の一切が此処では不要だ」

 ふっと彼が僅かに浮き上がる。私は彼の言のせいもあるのか、不意にその姿が亡霊のように思えてしまう。まさか、此処にいる者達は皆、生きていない――死んでいるとでも言うのだろうか。

「生きて行こうとせずとも生きて行けるということだ。何を以て生と判じるかは私には分からないが。それより」

 彼は、いつものようにふわりふわりと私の元へ近付き、見上げて来る。

「出掛けるぞ」

「今からか?」

「何か不都合でもあるのか」

「いや、お前には聞こえていないのか、この雨風の凄まじい音が」

「無論、聞こえている」

「それで、出掛けると?」

「そうだ。お前が此処に骨をうずめる覚悟だと言うのならば無理にとは言わないが」

「どういうことだ?」

 またも雨の激しさが一段と強くなったようだ。最早もはや、豪雨と言って差し支え無いだろう。じとりと重たい雨気あまけが家屋の中にまでも入り込んで来るようだ。また、それと似たものが彼の醸し出す雰囲気から感じ取れた。

 彼は私の問い掛けには答えなかった。しばらく待ってみてもそれは変わらない。黙して語らず。そう、これが本来の彼の姿勢だ。そして、彼が黙するということ、それが彼の答えであると私はもう気付いている。また、彼自身の口から昨日、そう取れる言葉を聞いた。ならば、私が取るべき行動はもう決まっている。

「出掛ける準備なら出来ている。何か持って行くものは?」

「雨傘ぐらいだな。もっとも、この様子では無駄になるかもしれないが」

 彼は私に背を向け、土間へと下りて行く。私もそれに倣うように彼に付いて行く。

 黒橡色くろつるばみいろの傘を手に引き戸を開けると、待ちわびたと言わんばかりに矢の如く降り注ぐ雨が目に映る。耳に痛い程の雨は、その勢力を証明するかのように全力で私の体に当たり、弾ける。耳に痛いばかりか体にも痛い雨であった。

「やはり傘など意味が無いな」

「そうだな」

 私達は鉛色なまりいろの空を見上げて、いやに冷静な会話をする。迷った末に私は一応、雨傘を片手に外へ出る。帰路において、もしかしたらこれが役に立つくらいには天候が回復しているかもしれないではないか。何事にも可能性というものは常に付き纏う。良くも悪しくも。それがたとえ、今日の天気という非常にささやかで些細なことであっても。

「どうした。早く行くぞ。私は決して雨に打たれることが好きというわけでは無いのだから」

「猫は雨が嫌いと聞いたことがあるな」

 私たちは悪天候の中、足を踏み出す。地には浅い湖のような水溜まりが何処までも広がり、本来の道の顔を覆い隠している。履物すら無意味のように思える現状である。

「何度も言うようだが私は猫という生物には分類されない」

「それなら、何に分類されるんだ」

「私にも分かりかねる」

「そうか」

 泥水が撥ねる。着流しはたちまち水を吸って重たくなり、体全体に纏わり付く。頭の先から足の先まで何もかもが雨に汚濁されて行く。それでも何故か、私の心は幾分軽かった。

「ところで、何処に行くんだ」

「貸し本屋だ」

「お前が、あの本を借りて来た所か?」

「ああ。昨日の朝、返しついでにお前のことを少し話した。いや、借りる時には既に幾らか話し伝えてはあったのだがな。主人が、お前に興味を持った。出来れば話してみたいと」

「貸し本屋の主人か?」

「そうだ。彼は私の古くからの友人でもある」

 先を行く彼の毛も水をたっぷりと含み、とても重たそうであった。それでも彼の浮遊飛行速度は落ちることは無い。

 目に入り込む雨と、視界に広がる雨靄で彼の姿を見失わないように注意しながら、私は歩く。少しでも流星群の如き雨粒の群れから身を守ろうと掲げている右腕が、だんだんと気怠くなって行く。それ程に強く打ち付ける雨であった。水塊のようにも思える。

 立ち並ぶ家々の隙間を縫うようにして私達は足を進める。今の所、誰ともすれ違うことは無い。この天候では納得の行くものであったが、まるで無人の如くの町の様子に私は言葉を見失う。

 同時、いや、と考え直す。確かに今の私の視界に映り込む人影は皆無だが、肌に感じる雰囲気とでも言うべきものは今までに何度も人の行き交う中で確かに覚えたものであった。それは、町一番と評判の菓子商店の中にゆったりと漂うそれと非常に酷似していた。菓子屋の家屋内では、言うなれば人の中に在って人の中に在らずとでも表されるのであろうか、人々の気配がとても希薄で、私はたびたび不安を覚えたものだ。

 そう、私は今、思い当たった。あれは不安だったのだと。違和感にも似ていたが、それは菓子屋の中に猫がいることや、広々とした空間に入っている店の全てが菓子の店だということによるものだと思い、特に深く自らの感覚を追及することは無かったが。勿論、それらから来る、常とは違った感覚の存在を無視することは出来ないが、とにかく私が最も強く多く思っていたことは「不安」だったのだと理解した。

 人がいようが、いまいが、ざわざわと落ち着かない不安が私を蝕んでいる。それはおそらく、この町全体に対して言えるのだろう。

 一度、意識してしまうと私は途端に怖くなった。先を行く彼の姿を覆い隠そうとでも言うかのように絶え間なく降り注ぐ豪雨の向こう側、私は決して彼の存在を見失わないよう注意した。そう、私は決して彼を見失ってはならない。彼だけが此処で私の指標と成り得る人物であると――厳密に言えば彼は人では無いのかもしれないが――私は唐突に深く認識してやまなかった。

 少しずつ周囲の家々が数を減らして行く中、彼の行く先に少しばかり大きな平屋の家が見え始めた。思った通り、彼はその家の前で立ち止まる。私も後に続くようにして彼の隣に立った。

 僅かの屋根では防ぎ切れないほど斜めに叩き付ける雨から一刻も早く身を守りたくて、私は彼に目的地は此処かと確認した。そうだ、と頷いた彼を尻目に私は二度、戸を叩く。返事は無い。或いはあったとして、この雨音にかき消されているのかもしれなかった。

 もう一度、戸を叩こうと私が構えた時、来ることは伝えてあるから開けて構わないと彼がおもむろに言った。それならそうと早く言ってくれと思いつつ、私は戸を引く。意に反して戸は勢い良く開き、右に素早く滑り、思い切り良くぶつかった。それは雨の音と相まって大きな音を生じさせる。

 私は反射的に謝罪を口にしたが、そんなことは意に介した様子も無く、灰色の彼は私の脇をふわりと漂い一足先に家屋内へと入って行く。気付けば家の中に雨が吹き込んでいた為、私も急いで中に入り、今度は慎重に戸を閉めた。

「おい、いるんだろう。布ぐらい出してくれ」

 彼が奥に向かって少し張った声で告げると、分かってる、という小さな声が返って来た。私は隅に傘を立て掛け、声のした方を見遣る。

 少しの間の後、白い布の束が薄暗い屋内の中、私達の前へと飛んで来た。思わず私は幽霊の類かと思い、一歩後ずさる。だが、灰色の彼が布を半分程受け取ると、それは私の早合点だったと分かる。布は幽霊では無く、しかと命ある生き物によって運ばれていたのだ。

 灰色の彼が布を受け取った後の空間に現出した朽葉色くちばいろの二つの瞳がぎょろりと動き、その後、私をじとりと見定めるようにして其処にある。私は思わず視線を逸らせなくなり、呼吸を忘れたかのようにしてそれを見つめていた。

「使わないのかな」

 布。初対面の生き物は言外にそう告げ、真っ白のそれをぐいと私に差し出すようにする。私は未だ驚愕した状態のまま、何とか礼を言って布を受け取った。

 すると、その生物の全貌が顕わになる。朽葉色の瞳を持ち、黄丹色おうにいろの毛を持つ目の前の生き物の第一印象は、一言で言えば灰色の彼の色違いの種であった。私はますます驚きを深くし、何度か目をしばたいた。

「家の中が濡れるから出来れば早く体を拭いてほしいと思う」

 ぼうっとなっていた私を現実に引き戻すかのように橙色の生き物はそう言い、一度だけゆっくりと瞬きをした。

 私は短く返事をし、驚きと緊張の中で体を拭いた。布はすぐに水気を吸い取り、重くなる。その間ずっと、橙色の彼は視線を私の顔に固定したまま微動だにしなかった。

 やがて拭き終わった頃を見計らって、橙色の彼は私の手から布を取り、灰色の彼からも同じように受け取り、再び家の奥へと引っ込んで行った。

 私は橙色の彼の一連の動作を見ながら、この町にはあのような生き物が多くいるのだろうかという思考を始めていた。灰色の彼はと言えば、手持ち無沙汰そうに一つの棚の前で何かを見るとは無しに眺めている。

 ある程度、薄暗さに慣れた目で良く見渡せば、家の中を囲むようにして幾つもの棚が置かれている。そして、それらにはぎっしりと書物が収められていた。そうだ、此処は貸し本屋だったと私は思い出す。

 それにしても薄暗い。私は書棚に近寄り、背表紙を眺める。だが、視界に映っているそれらには題が記されていなかった。不思議に思い、適当な一冊を手にしようとした所で「触らないで」という控えめながらもはっきりとした音を持つ言葉が響いた。そちらを向くと、先程の橙色の生き物が宙に浮かび、大きな目を確かに私に向けていた。

「その辺りの本は触らないで。持ち出し禁止の貴重な物だから」

「あ、ああ。悪かった」

 私が慌てて手を引っ込めると安心したように橙色の生き物は私に背を向け、灰色の彼に話し掛け始めた。

「この人が?」

「そうだ」

「いつぐらいから此処に?」

「数日前だ」

「完全トーティエント数は?」

「まだ満たしていない」

「今、幾つ?」

「二だ」

「菓子商店からの誘いは?」

「来ている。保留にしてある」

 短い会話を織り成す両者の言っていることのほとんどを理解出来はしなかったが、私のことを話しているということは分かった。

 保留にしてある、いう言葉で一区切りが付いたのか、橙色の生き物は灰色の彼から私へと視線を動かす。またも朽葉色くちばいろの目玉がぎょろりと動き、その後、私を見定めるようにしてじっと動かなくなる。同調するかの如く私もまた動けなくなり、呼吸音すら殺すようにして佇む他なくなる。

 しばらくした後、とりあえず奥に座って、と淡々と言い放ちながら橙色は引っ込んでしまった。その後を灰色が追う。ぽかんとしてしまった私を急かすように、灰色の彼が私を呼ぶ声がする。私は未だ理解の追い付かない頭で足を動かし、座敷へと上がった。

 中では囲炉裏を囲むようにして正面に橙色、その左隣に灰色がきちんと座り、両者共私を見上げていた。いつの間にか灰色の彼の目が開かれている。

 ぱち、と火の弾ける音が響く。橙色の彼の正面位置に私が座ると、早速だけど、と橙色の彼が切り出した。

「君はこれからどうしたい?」

「どう、って言うと」

「たとえば、菓子商店で働きたいとか、他に此処で何かをしたいとか。何でも良いんだ。願望は無い?」

「願望」

 私がなぞるように言葉を繰り返すと、うん、と橙色の彼が頷く。

「菓子商店で働いてみるのも面白そうだなと思ったが……」

 私は、其処でちらりと灰色の彼の方を見る。珍しく開かれている彼の闇色の瞳が私を捉えてはいたが、その表情からは何も窺うことは出来なかった。私は橙色の生き物へと視線を戻す。

「そう思う反面、あまり乗り気になれない自分もいる。彼が、あまり良い顔をしなかったこともあって」

「けれど、あの店で働いてみたいと少しでも思う?」

「ああ、少しは。女主人が言っていたのだが、この町のことが分かって行くかもしれないと勧められた。確かに私は此処のことをまだ良く知らないし、良い機会なのかもしれないとも思う」

「ちょっと早いかな」

「え?」

 不意に話が見えなくなり、私は聞き返した。

「既に二だからな。その次へは私が止めた」

「止めた?」

「そうだ」

「よっぽど気に入っているんだね」

 不可思議な生き物の間で不可思議な会話の応酬が始まる。

 私は二者を交互に見た。彼らには分かっていることが私には分からない。それによる焦燥のようなものが不安定な心情を誘う。

 私は、もう少し分かりやすく言ってくれないかと、幾度か灰色の彼に告げたことのある言葉を口にした。すると、橙色と灰色の二者の間で交錯していた視線が突然に此方に向けられたので少なからず私は驚き、口を噤んだ。

「知っているかもしれないけれど、あまり詳しくは言えない。それでも此処では幾らかはましなんだ。そういう事情を承諾してくれるなら危険を承知で僕は話すよ。聞く?」

 橙色の彼は心なしか体を右側に傾け、まるで私の返答を待つかのように二度程、目蓋をぱちぱちと動かした。私が、是非とも話してほしいと言うと、分かったと返し、彼は元のように体を直した。

「一応、自己紹介をしておく。僕の名前は朽葉くちば。仮初めのようなものだけれど、もう本物になりつつある。名前なんかは個を識別する為の記号のようなものだから何でも良いのだけれどね」

 朽葉くちばと名乗った彼は、いつか灰色の彼から聞いたことと似たような内容を口にした。

「さて、本題に入るけれど。さっき、君はあの菓子商店で少なからずも働いてみたいと言ったね。この町のことが分かるかもしれないと」

「ああ」

「まず、それが間違いだ。いや、正解や間違いというものは個々によって異なるもので、一概に僕がどうこう言えるものでは無いのかもしれないけれど。僕にとって間違いであることも君にとっては正解かもしれない。また、僕は彼寄りの存在だからね。どうしたって彼の考えを尊重したくなる」

 言葉を切り、朽葉は灰色の彼を一度見た。そして再び、私を見つめる。

「具体的に判じる為に一つ尋ねる。君は、此処にいたいのかな」

「此処に?」

「そう、此処に。この町に。此処で暮らす為に此処のことを知り、此処での生活の手立てが欲しい。ゆえに、菓子商店で働いてみたい。これについての正誤が知りたい。今、言ったことの中で君の心情にそぐわないことは?」

 私は漠然と思考する。そう、漠然とだ。朽葉の言ったことについてゆっくりと考える。其処には間違いと言い表すべき間違いは無いように思えた。その実、正解と言い表せる正解は無いようにも思える。

 つまり、私は私自身についてこうだと言い切る自信と、その為に必要な根拠となるべきものが無いのだ。愕然とした。

 だが、この感覚には覚えがあった。私が私について、或いはこの町について考えを巡らせると記憶にある限りでは毎回、こういう状態に陥る。考えるべきは溢れる程にあるというのに、その内の一つとして私は考えをまとめることが出来ない。そして、出来ないままに終わり、時間が経過する内に私は考えることをいつしか放棄する。

 思うに、私は生来このような性格だっただろうか。その自問には否と答えられる。だが、何故にこうなってしまっているのかは全く分からない。考えを形と成すことの出来ない自分自身の正体が分からない。それはひどく不安で、ひどく悲しいことだった。加えて、とても頼りの無い心持ちになる状態だった。

 底無しの沼にぽつりと浮かび、見えない足元からじわじわと沈んで行くことを知りながらもどうにも出来ずに其処にいる。そんな私の様子が目に浮かぶ程に。

「何か、おかしいと思わない?」

 不意に声が響く。私が知らず俯いていた顔を上げると、朽葉が美しい瞳で私を見ていた。

「先にも述べておいた通り、詳しくは言えないけれど。今、君は考えていた筈だ。僕の言ったことについて、自分の心情について。けれども考えがまとまらない。まとまらないばかりか、自分が何を望んでいて何を望んでいないのかも良く分からない。違うかな」

 それは、まさにその通りのことだった。私の思っていた通りのことであった。半ば反射的に頷き、私は身を乗り出す。どうして私のことが今日会ったばかりの彼に分かるのか、私は不思議でならなかった。

  同時に、こいねがう気持ちでもいた。もう「分からない」ことは耐えられなかった。いや、また少しずつ時間が過ぎて行けば、少しずつその感情すら削ぎ落とされて行くのであろう。そう、その予感にも耐えられなかった。

 私は私が本当に望んでいることを知りたかったし、本来の私を取り戻したかった。それを自分の手で行えないことは悔しいが、そんな些末さまつな思いに捉われている場合では無いように思えた。何もかもが霞んでいる中で、焦げ付くような焦燥だけが今という時間における限定事として内に存在している。私はこの熱を取り逃がしてはならないと強く認識していた。

「この町に対する疑問、自分に対する疑問。そういう不透明なことだらけの中で、考えるべきことの多くある中で、唯一選び取ることが、あの菓子商店で働くことというのはどう考えてもおかしなことなんだ。勿論、分からないことが見えて来るかもしれないという期待が菓子商店にあるのは分かる。

 けれど、それは誘導された結果であって本来の君自身が進んで望んだことでは無いし、もっと言ってしまえば望むべきことでも無い。深く思考することは出来ないかもしれないけれど、考えてみて。疑問だらけの現状に放り出された時、何度か足を運んだだけの店で仕事をしようなどと思えるだろうか。僕ならそうは思えない。僕なら、こう思う。どうして自分は此処にいるのだろうかと」

 ――ドウシテジブンハココニイルノダロウ。

 その十七つの音が、それぞれにくっきりとした輪郭を持って光の粒の如き形を取る。それらは確かに私の身の内側で誇張され、主張された。そして音が再構成され、元の形に戻った時、私は長い夢から覚めたような心持ちになった。

 だが、それはあくまでも心持ちに過ぎない。肝心なことはまだ分かってはおらず、私自身、具体性のある真実を掴んだとは思っていないのだから。しかしながら、それは此処に来て初めての感覚であり、好機であると思えた。見えては隠れ、見えては隠れを繰り返す何がしかの尾の先に触れた。それぐらいには思えていた。

「おい、朽葉。少し話しすぎる」

 はっとして私が声のした方を見ると、幾分か渋い表情をした灰色の彼が朽葉を見遣っている。其処で私は、あまり詳しくは言えないということ、話すことには危険を伴うということを朽葉が告げていたと今更ながらに思い出した。

「仕方無い。これぐらいは言わないと難しいと思う。それに今日は三日目の雨だ。いい時機だよ」

「そうだ、その三という数字。何か意味があるのか? 確か彼も言っていた。完全トーティエント数とか……」

 私は今まで何度か気に掛かっていたことを尋ねた。どうも三という数字には何かしらの重要な意味があるように思えてならなかったからだ。勿論、私自身の考えでは無く、灰色の彼の考えに導かれたからに他ならないが。

「三は最小の完全トーティエント数。まあ、それ自体にはあまり意味は無い。完全云々は三という直接の呼称を避ける為に用いているだけなんだ。言わば、忌み名や隠し名のようなものだね。

 それで、三という数字には古来から様々な意味があってね。たとえば、物事の成り立ちとか物事が複雑化する象徴であるとか。色々な捉え方がある。此処では特に、そういう意で使われているんだ。つまり、物事の成立、或いは複雑化。或いは、反転」

「反転?」

「そう。もしくは現実化。この町では三という数字、回数が極めて重要な位置にある。君がそれを手にしてしまうと、君はもう此処を現実にするしかなくなるんだ。僕らのようにね」

 その時、不自然に雨風の音がひどく増したように思えた。それはどうやら気のせいでは無かったらしく、朽葉と灰色の彼の両者も周囲に目を動かせた。

 しばらくの間、沈黙が守られ、私を含む誰もが緊張の色を濃くしていた。そのように映った。ややあって、朽葉が静かに腕と思われるものを伸ばして囲炉裏の中へと入れた。微かに灰が舞う。火の点いた炭が見える。其処へ手を入れるなんてと思い、私が制するよりも早く朽葉は言った。

「こんなものでも無いよりはましなんだ。気休め程度かもしれないけれど、少なくとも此処には誰も入ることは出来ない。原理は僕にも良くは分からない。獣は火を恐れることから由来しているのかもしれないけれど、幾ら長くいても分からないことは多くあるし、次々と疑問や疑念は生まれる。この場所を知り尽くしているのは女主人くらいかもしれない。あとは、あの白猫かな。ちなみに僕らはあいつが嫌いなんだ」

 がさがさと囲炉裏の中を掻き混ぜていた朽葉は不意に手を止め、ちらりと灰色の彼を見た。まるで同意を求めるように。対する灰色は、何とも言えない顔で黙ったまま、囲炉裏の中心から視線を動かさなかった。そして一つ、長く細い溜め息をついた。

「お前は本当に話しすぎるな」

 そう言い、灰色の彼は寒さを堪えるかの如く体を震わせた。

 そして、

「だから、あまり気乗りはしなかったんだ」

 と付け加えた。

「別に誰彼構わずこうじゃない。他ならぬ君が気に掛けているというからこそ僕は話しているんだ。勘違いしないでほしいな。僕だって自分の身は可愛いさ」

 朽葉は心外そうに告げて囲炉裏から手を引く。灰を払うように何度かその細い手を振るうと、ぱさぱさと粒子が宙を舞い、落ちた。

「ええと、何処まで話したかな。三という数字についてだったかな」

 私が同意すると、そうだよね、と朽葉は満足そうに頷き、続きを話し始める。

「つまり、此処にいたいなら三を超える。此処にいたくないなら三を超えてはならない。そういうことなんだ。ただ、その判断を付けることはほとんど自分では不可能だ。大体の者が押し流されるようにして三を通り過ぎてしまう。気付いた時にはそれはもう遥か後方で、どれ程に戻りたいと思っても戻れない。そうして、やがては喰われてしまう」

「おい、喰われるとはどういうことだ?」

 物騒な言葉に私は慄きながら尋ねた。すると朽葉は何でも無いことのように全く声の調子を崩すこと無く、そのままの意味だよ、と言った。

「食事にされてしまうのさ。勿論、しばらく使われた後でだけれど。この辺りは今のところ詳細に話す必要はないから割愛するね。と言うか、僕の知っていることで、かつ、話せることを些末さまつな事柄も含んで全て語ると夜が明けてしまう。いや、夜が明けても語り終わらないかもしれない。とにかく、必要最小限だけを伝える。樹形図が分かりやすいかな。少し待っていて」

 言い置いて朽葉はふわりと宙を舞い、部屋を出て行く。あとには何を考えているのか全く読み取れない無表情とも言える灰色の彼と、与えられた情報を取りまとめることで精一杯の私が取り残された。

 灰色の彼は何も言わず、語らない。加えて、先程から囲炉裏の中央をじっと見つめたままだ。それに、此処へ来てから彼が発した言葉の数はとても少ないように思える。私には彼の考えていることなど分からない。それでも、どうしてか彼の心情は分かるような気がした。それがたとえ、全体の内のごく小さな砂粒のような質量だとしても。

「なあ、もし見当違いだったら悪いが。朽葉が語ることによって朽葉は身を危ぶめていて、それをお前は心配している。違うか」

 すると傍目にもはっきりと分かる程、彼は身を震わせた。見ている所は依然として囲炉裏の中央から変わらないし返って来る声も無かったが、それが何よりも彼の答えであるように思えた。私は慎重に言葉を選び、話した。

「朽葉はお前の友人なんだよな。はっきりとは分からないが、お前達が何かを私に伝えて助けようとしてくれていることは、おぼろげながら分かる。それはとても……とても、嬉しい。うまくは言えないが、この町で私の助けと成り得るのはお前だけだと思っていた。そして今日、此処に来てからはお前と朽葉になった。それ以外の人間や他の生き物からは、得体の知れないものを覚えるだけで、たとえばこの町の疑問を尋ねるとか、そういったことは出来そうに無かった。

 さっきの朽葉の言葉を借りるなら、誘導されているとでも言うのかな。私の本意をうまく覆い隠して遠く遠くへ運び、代わりに自分達の――菓子商店の女主人や売り子の意思を無理矢理にでも私に渡そうとして来ると言うか。それに私は気が付かないんだ、その時は。やがて違和感を覚えたり、違和感を無くしたりしている内にいつしか時間が経っていて、今日と明日の境目が滲んで分からなくなる。多くあった筈の疑問が知らぬ間に数を減らし、大きさを失う。

 それから、ここ数日の間が、まるで数年のような重さを持って私の中にある。それなのに重さばかりがあるだけで中身が伴わない。空虚だ。そのことに朽葉の放つ言葉を聞いていて気が付いた。もしかしたら他にも多くのことに気が付けるかもしれない。分からないことが分かり、知らないことを知り、何かが変わるかもしれない。今、そういう期待と不安の中にいるんだ、私は。

 正直に言えば、私は朽葉の話をもっと聞きたい。けれど、それによってお前が――たとえば友人を失うようなことになるのなら。朽葉が危険な目に遭うのなら。私は、もう充分だ。あとは何とか、自分でやって行くさ」

 最後の言葉は強がりでしか無かった。私はまだ、歩き出したばかりの赤子のような存在だ。情けないが、そう思う。この町での正しさも何も知らないまま、また此処で灯火を見失うようなことになれば、そしてまた時間が流れて行けば、元の木阿弥もくあみになってしまう可能性は否めない。

 だが、私が此処まで辿り着くことが出来たのは、ひとえに灰色の彼と朽葉の厚意に他ならない。本音を言えば、結末まで導いてほしいという心情はある。何しろ、自分でどうにかするにも限度がある事態だ。いや、限度があった所でその全体容量の一割にも満たないかもしれないのだ、私の努力は。

 しかし、それは私の事情であり、彼らの事情では無い。また、彼らの立場や存在とでも言うものを危うくしてまで私がもやから抜け出す道理も無いのだ。

 彼らには彼らの事情や状況が有り、私には私の事情や状況が有る。それだけのことだ。そのバランスを崩してまで、どちらかがどちらかを助けねばならないという決まり事など無いし、義務も無い。私は本当に感謝していた。灰色の彼と朽葉の両者に。だからこそ、留まるべき所をきちんと見極めておきたいのだ。

「当たらずとも遠からず、という所だろうな。何、お前に助力することは私の意思であり、それに朽葉は同意してくれた。つまり私達の意思だ。それをお前が気に病む必要など無い。だが、気持ちは受け取っておく」

 私が返すべき言葉を探している間に、ふわふわと文字通り空中を舞い朽葉が戻って来た。

 そして元の位置に音も無く座ると、手と思しきものに持っている巻物のようなものを板間の上に、ことんと置く。それは朱の紐で綺麗に括られていた。朽葉は黄丹色おうにいろの手でそれをしゅるりと解き、ゆるゆると広げて行く。

 虫喰いもなく全く劣化を感じさせない白い紙の上には、まるで今書かれたばかりのような濃い色合いの墨で線や文字が記されている。私は無言のまま、それを読んだ。

 私が最後まで読み終える頃、朽葉はとうに全てを広げ終わっていて、板間の上には白い帯が目を刺す輝きを放っているような錯覚を伴って横たわっていた。

「分かるかな。かなり要約されてはいるけれど、つまりはそういうこと。今、君はおそらくこの辺りにいる」

 朽葉が、その細く温かそうな手で紙の上の一部をすとんと指す。

「そして、個々人によって筋道は異なるけれど、とにかく紆余曲折を経て多くの生命はこれらを辿って行く。辿らされている、と言う方が正しいのかもしれない。丁度、今の君のようにね」

 黄丹色おうにいろの手は、緩慢に紙上を動いて行く。其処には墨で描かれた線が数多くある。まるで雲海の中を伸びている大樹の枝々のように。それらは幾つにも分岐している。分岐ごとには小さな文字で注釈が記されていた。

「どの道を行こうとも最終的に辿り着く所は決まっているんだ。つまり、此処」

 朽葉は淡々とした口調で語る。それと同じ調子で、とん、と最後の地点を示す。注釈には、無、と一文字が書かれているのみ。私は、その文字から目が離せなくなる。それを感じ取ったのだろう、朽葉が補足するように語った。

「無。これが、僕達と君がいる町。此処の町のことだよ。まだ本当の意味では君は辿り着いていない町。僕と彼は既に辿り着いて久しい町」

 一度、言葉を切り、朽葉は灰色の彼の方をちらと見遣る。私がその視線を追い掛けると、未だ灰色は囲炉裏の中央を無感情とも言える様子で見つめ続けていた。

「大丈夫。君はまだ戻れる。簡単なことだよ。何事にも道筋というものが存在する。君が本来の意味とは異なっても、とにかく此処にいるという事実がある。つまり必ず、辿った道があるということだ。それを正しく戻るだけだ。振り返るだけ。君が戻りたいのなら」

 ――振り返る。私は、朽葉の言葉でようやく合点が行った。灰色の彼が幾度も私に向けて繰り返した言葉、振り返れ、というもの。それは、こういうことだったのだ。経緯を振り返り、此処に来た道を入口目指して辿り、帰る。元いた場所へ。

 確信は無かったが、再度、私が灰色を見るとかちりと目が合った。それは先程に見た無感情の瞳では無く、夜空に浮かぶ冴え冴えとした月のような輝きを湛えたものであった。私は、その美しい目玉に確かに強い肯定を見た。

「そういうことだ」

 灰色の彼が短く告げる。そして一度、その両眼を伏せた後、再び彼は私を正面から見た。

「こちらにも色々と事情なり制約なりがある。遠回しになっていたことについてはすまなかった。とにかく、こうしてある程度は見えて来たものがある。その上で問いたい。お前は、どうしたい?」

 宵闇のような深く黒い目が細い月を抱いて私を見ている。傍では、朽葉が巻物を戻しているのだろう、しゅるしゅるという音がしていた。雨風の音は先からずっと続いている。それはまるで私の背を押し出すようにも今となっては聞こえた。

「私には欠落しているものがある。振り返ってみても、何処に戻れば良いのかも分からない。それでも私は、戻りたい。正直な所、この町には得体の知れない影があると感じる。それが私は今、心底から恐ろしいんだ。二人には良くして貰ったのに申し訳無いが」

 灰色の彼が、緩くかぶりを振った。

「そんなことは気に病まなくとも良い。元より私は、お前がそう告げることを望んでいた。これは私個人の希望に過ぎないから今まで言わずにいたが。加えて、決まり事に掛かることだから言えずにいたというのもある。とにかく私は、必ずお前をこの町から抜け出させてやりたい」

「うん、それが良いよ。君にはまだ有が感じられる」

 ゆう。朽葉は、そう言った。

「言わば、僕達は無なんだ。無が有を気取っているものの集まり、それが僕達であり、この町そのものだ。君は有だ。いつかは一切の有が無に転じる。それは大昔からの約束事で自然なこと。でも、此処には歪められて辿り着いた者がほとんどだ。おそらく君も。歪んだら正せば良い。歪みに屈して無になる必要も理由も決して無いんだ」

 そう言って朽葉は朱の紐で巻物を綺麗に括り、両の手でそれを胸の辺りに携える。朽葉は心なしか俯いていた。

「今日は此処に泊まると良いよ。もう遅いし、ひどい雨だ。明日の朝方には止む筈だから。そうしたら仮宿に戻って、振り返るんだ。おそらく流れというものが君を最終地点まで押し流そうとする。元へ帰りたいのなら、それに従ってはいけないよ」

 其処で再び朽葉は私を見た。自身の名前と同じ字を冠する朽葉色の瞳は、私の姿を通り越し、見える筈の無い明日や、それ以降を遠く見つめているように思えた。

 ――その夜、私は板間の隅に布団を敷き、眠った。囲炉裏を挟んだ反対側には灰色の彼と朽葉が、まるで寄り添うように並んでいた。薄暗闇の中に浮かび上がるその二つの姿はどうしてか私の胸を強く打ち、朝になっても変わらないそれらが明かり取りの窓から差し込む微かな陽光に照らし出されているのを見た時、突き上げるような、いわゆる郷愁とでも言うべきものが確かに感じられた。

 そして、私にも、私の傍らに寄り添ってくれていた誰かがいたのだろうかと、覚醒し切っていない脳裏の一部で考えていた。一瞬、菓子商店の売り子の少女が浮かんだ。店を辞めたという彼女は今、何処でどうしているだろう。

 やがて陽が昇り、その光が勢いを強める頃、灰色と朽葉の二人は目を覚ました。私は心からの礼を告げ、灰色の彼と共に貸し本屋を後にした。

 今、私が戻るべき所、仮の住まいに向けて歩き出す。隣には灰色の彼がいる。三日間続いた昨晩までの雨も風も嘘のように止み、朝の清浄な空気の間を泳ぐようにして太陽の光が輝きを主張している。

 私達は互いに無言のまま来た道を戻って行く。その間、去り際、朽葉がぽつりと洩らした言葉が私の脳味噌を揺らすように廻っていた。

 ――君に貸した本は僕が書いたものなんだ、もう遠い昔にね。綺麗な朽葉色の装丁だっただろう?

 彼は言っていた。朽葉という名は仮初めのようなものだと。

 ――とうに本当の名前は忘れてしまったからね。朽葉という名を瞳の色から自分で付けたんだ。さびしい字を書くけれど存外、気に入ってね。装丁にも使ったというわけなんだ。

 彼は、何処か影のように苦く笑った。

 ああ、そういえば。私の名前は何だっただろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?