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【警鐘を打ち鳴らせ】 第七章「消失」

第七章「消失」



 朽葉の貸し本屋での勤めの二日目。昨日同様、昼少し前に私はその表戸を開ける。

 朽葉は左奥の書棚の前、漂うようにして其処にいた。私に気が付き、くるりと振り返ったその表情は、気のせいか少々、難しい様相をていしているように見えた。灰色の彼も朽葉も、あまり目に見える程の表情変化が無いので分かりづらいのだが、その時の私の目には、戸惑いと苦悩を溶け込ませた色を一滴だけ表面に滲ませたような、そんな表情に見えたのだ。

「何事か、あったのか」

 私の問い掛けに朽葉は首を横に振った。

「いや、何でも無いよ。今日も昨日と同じ感じで、よろしく頼むよ。僕は奥にいるから、何か困ればいつでも言って。あと、お茶を淹れておいたから良かったら飲んで。それじゃあね」

 私が茶の礼を言うよりも早く、朽葉はふいと奥の間に飛んで行ってしまった。何処か彼にしては性急な気がする。やはり、何かあったのだろうか。

 私は朽葉の飛び去った奥の間から、先程、彼が浮遊していた辺りへと視線を移す。その書棚の前に立ってみると、一箇所、本と本の間が不自然に空いている。其処で私は思い当たる。昨日、確か少女はこの書棚から本を借りて行ったということを。貸しても問題は無かったと朽葉は言っていたが、何か思う所でもあったのだろうか。

 もしも、私を気遣ってそういう風に述べたのならば申し訳無いことをした。そういえば、本の貸し出し期間というものは何日間に当たるのだろうか。いつ頃、あの少女は返しに来るのだろう。

 私は受付台に座り、朽葉が淹れてくれたという緑茶を飲みながら考えた。しかし、仮にも此処で働く者が本の貸し出し期間すら把握していないということはいささか問題なような気がした。規程などを綴った帳面などは無いのだろうか。

 勝手に開けて良いものかどうか少し気後れしながらも、私は右手前の引き出しを開けてみる。きしきしと古い音をさせつつ開かれた其処には、藁半紙わらばんしの束がぎっしりと詰まっているだけであった。引き出しを閉める。また、同様の音がした。

 引き出しをちょうど閉め終わった時、控えめに貸し本屋の表戸が開かれる。僅かの間を置いて入って来た者は昨日の少女――春野華であった。身に着けているものは昨日とは違う着物のようだが、色合いはとても良く似ており、やはり深く静かな沼を思わせる。彼女はその手に、一冊の本を携えていた。

「こんにちは。これ、お返しに来ました。どうもありがとうございました」

 彼女は真っ直ぐに私を見て、本を差し出した。

 私は返答し、帳面を開いて貸し出し記録を消す。気のせいだろうか、彼女から私の行動をじっと見ているような視線を感じた。筆を置き、顔を上げると彼女と目が合う。春野華は、にこりと笑った。

「この町の北にある沼の話、覚えてますか?」

 唐突に言われ、私は戸惑いながらも「ああ」とだけ言った。

「私、やっぱり見に行きたいんです。一緒に来てくれませんか? 勤めが終わってからで良いんです」

「沼、か。そんなに美しいのか?」

「美しいとは少し違うかもしれませんが、見て損は無いと思いますよ。私、実は明日でこの町を出るんです。そうしたらしばらくは故郷にいるつもりなので、見ておきたくて。思えば、此処で何年か菓子商店で働いて来たものの、一度も見たことが無かったんです。思い出を、作っておこうかなと」

 其処で彼女は言葉を切り、此方の反応を窺うように丸い瞳を改めて私に向け、二、三度、瞬きをした。烏の羽のように黒く、しとりと濡れたように見える黒髪を耳に掛けて、彼女は私の返事を待っている。

「店仕舞いの後で、構わないなら」

「ありがとうございます。何時頃でしょう?」

「多分、夕刻くらいかと」

「分かりました。大体、その辺りにまた来ますね」

 再び彼女は笑い、軽くお辞儀をして店を出て行った。表戸が静かに閉められる。

 ふと帳面に目を落とすと、昨日同様、彼女の名前が目に入る。春野華。聞き覚えも見覚えも無いその名が、どうしてか私の注意を引き付ける。

 名前と言えば、私は私の名前を思い出せる日が来るのだろうか。私は、だんだんと焦燥を覚え始めていた。それは空気に触れた血液のような黒を孕んだ赤い炎で、私の足元をじりじりと焼いて行く。

 正しく振り返ることが重要だと、灰色の彼と朽葉が言った。だが、正しく振り返るとはどういうことだろう。いや、此処までの道筋を思い出すことだということは彼らに言われて漠然とだが、分かっている。

 だが、私は思い出せない。思い出せないということが、どれ程に恐ろしいことであるか、どう言えば分かって貰えるだろう。忘れたことすら忘れている、遠い昔日の思い出であれば、まだ良かった。

 人は忘れて行く生き物だ。忘却は程度の差こそあれ、誰にでも静謐せいひつに、雪のように降り注ぐ。名前を含めて私が全てを取り戻しても、それでも忘れていることは少なからずあるだろう。それは仕方無い。ある意味では当たり前のことだ。

 だが、此処に来た経緯を、私はほんのかけらも思い出せない。あなたはずっと以前から此処に住んでいたのですよと言われれば、ああ、そうだったのかもしれないと頷いてしまう可能性を否定出来ないくらいには、私は私の存在に自信がいだけない。

 そして最近になって、私は私の名前を失った。思い出せない。思い出せない。思い出せない。思い出せないということが悲しく、恐ろしく、そして苦痛だ。いっそ、思い出せないという現実を忘れてしまえば、私は解放されるのだろうか?

「今、お客さん、来てた?」

 はっとして声のした方を見ると、いつの間にか朽葉が右隣でふわふわと浮遊しつつ私を見ていた。

「すまない。もう一度、言ってくれないか」

「お客さん、来てた?」

「あ、ああ。来ていた。これを返しに来たんだ」

 朽葉は私の示した書物に目を落とす。そして、すぐに私を見た。

「これ、読んで。此処で読んで構わないから」

 朽葉の言わんとする所を計り兼ねて私が黙っていると、

「そんなに難しい本じゃないから。読んでほしい。本は嫌い?」

「いや、嫌いでは無いが」

「じゃあ、読んで」

「分かった」

「僕は奥にいるから」

 そして、また朽葉はふよりと奥の間の方へと行ってしまった。何か用があったのではないのだろうか。そう思いながらも私は手元の本を見遣る。それは朽葉が私に探してほしいと頼んだものだ。私に読ませたくて、そう告げたのだろうか。

 客の来る気配は無かった。と言うよりも、外を歩く人の気配がひどく希薄だった。遮断された、切り離された浮き島にでもいるかのような気分になる。私は、その静寂の漂流に身を任せるようにして書物の表紙を捲った。





 ――夕刻。外の色がうっすらと夕焼けに染まっている。彼女が店の表戸を控え目に開けたことで、それは分かった。淡い朱色を背に、戸の隙間にひっそりと立つ彼女は、まるで一枚の絵画のように美しく、そして同時に人を惹き込む魔のようなものも私に感じさせた。だが、私はすぐさま現実に立ち返ることになる。

「そろそろ店仕舞いの頃合かと思って参りました。早かったでしょうか?」

 いや、と私は手元の本を静かに閉じて立ち上がる。しかしながら店を閉める時間は、朽葉の言によれば、はっきりとは決まっていないようだった。一応、店仕舞いをして良いかどうかを確認する為、私は奥の間へ行こうとしたのだが、それには及ばなかった。私が振り返った先、既に朽葉は其処にいた。宙に佇み、その名と同じ色の瞳をうっすらと開き、音も無く、ただ彼女をじっと見据えていた。

「何か?」

 彼女はそんな朽葉にも動じず、歌うように、静寂を壊さず細心の注意を払うかのようにして、朽葉に対し、問い掛ける。それにも朽葉は黙ったままだった。

「もう店を閉めて良いか聞きに行く所だったんだ」

「そう」

「それで、良いのか、閉めても」

「……うん」

 答える間中、朽葉は、ちらとも私の方を見なかった。声音も若干ではあるが、いつもとは少し違うように思えた。素っ気無い、何処か灰色の彼を彷彿ほうふつとさせるものがあった。

 何故だろうか、何事かあったのだろうか。そう考える私の思考をまるで遮断するかのように、春野華と名乗った彼女は私に向けて言った。

「それでは、行きましょう。丁度、今頃は空の色を映し込んで綺麗な姿が見られますよ」

 沼の。言外にそう告げ、彼女はふわりと花のように笑う。少し小首を傾げた仕草につられるように、彼女の左にその美しい黒髪が流れる。

「本、読んだ?」

 不意に朽葉が声を発した。見上げると、今度は間違い無く私をじっと見ていた。

「あ、ああ。読んでいたけれど、まだ途中なんだ」

「そう。じゃあ、続きは明日に読んで。明日」

 明日。その単語を朽葉は繰り返し、

「店の方は僕がやっておくから。今日はもう良いよ。お疲れ様」

 と言って、再び奥の間へ引っ込んでしまった。

 私はその態度に引っ掛かりを覚えつつも、行きましょう、と言った彼女の声に誘われるようにして店を後にした。

 空は美しい夕焼けに染め尽くされようとしている。私は一度、上空を見上げてから彼女の後を追うようにして歩いて行った。

 彼女は、どんどん町の中央から離れて行っているようだった。確か沼は町の北の方にあると言っていた。ならば、北に向かっているのだろう。それにつれて人家は減り、周囲にはだんだんと木々が増え始めて行った。時々、思い出したように風が吹き、それらの枝々を揺らし、葉を揺らし、ざわざわという音を私達に届ける。

 不思議と、彼女は道中、一言も口を開かなかった。だが私は特にそれを不快には思わず、また、どうしてか分からないがあまり不思議にも思わなかった。ただ、こうして彼女の隣に並び立ち、同じ方角に向けて歩みを進めているだけで、何処か安堵にも似た感覚を覚えていた。何故だろう。

 ふと、「振り返れ」という灰色の彼が幾度も繰り返した言葉を思い出す。それに導かれるようにして私は半分程、首を後ろへと向けてみたが、私達の他には誰もいず、一つ、二つの人家と井戸が見えるだけで、何も変わったことは無かった。

「どうしました?」

 此処で初めて、店を出てから彼女が口を開いた。それはやはり、ふうわりとした口調で、歌のようで。私は心地好く、その六つの音を大切に聞いた。

「いや、何でも無いんだ」

「そうですか?」

「ああ」

「もうすぐですよ。私、どうしても最後にあなたと、あの沼を一緒に見たかったんです。あ、そういえばお名前をお聞きしていませんでしたね」

 私は彼女の言葉の前半の意味を尋ねるより早く、自分自身に問い掛けていた。私の名は何なのか? と。黙り込んでしまった私を不思議に思ったのか、彼女が少し首を傾げて問う。

「何か、あるんですか。やはり」

「やはり、とは?」

「いえ。先程、ふと振り返ったりされていたから、私と一緒に行くことは嫌なのかと思いまして。無理を言ってしまったのかと」

「いや、そうじゃないんだ。ただ、その」

 言い淀んだ私の言葉の続きを彼女が待っていることは良く分かる。しばらく、私達二人分の足音と、時々吹く風の音だけが辺りに響いた。

 正直に言えば、私は迷っていたのだ。彼女に真実を話すことを。すなわち、自分の名前を忘れてしまったということを。

 灰色の彼や、特に朽葉から聞いた説明で、私はもうだんだんと分かり始めていた。此処が、この町が、普通では無いことを。そして私は自らの名前も帰るべき場所も忘れてしまっている。帰るべき場所があったのか否かすら、分からないのだ。これが普通であるわけが無い。

 考えようとすれば、すぐに頭の中には白雲のようなもやが立ち込め、思考することを阻害するようにそれは朦々もうもうと広がって行く。だが、おそらく私は考えなければならない。考え続けなければならないのだ。それがきっと、おそらく「振り返る」ということなのではないかと、私なりに解釈している。振り返ること――すなわち、思い出すということだ。私が今、此処にいることになっている経緯を。記憶を。過去を。そして此処に来て失ってしまった、私の名前を。

 こんなことになるのなら、意地を張らずに灰色の彼に自らの名を告げておけば良かったと、今になって後悔が募る。名前など記号に過ぎないと言って教えてくれなかった彼に対抗して、私も彼に自らの名前を教えることはしなかった。あの時の私は間違い無く、自分の名前を覚えていたのだ。もしも、彼に私が名前を伝えていたら。今の私に、彼が私の名前を伝えてくれたかもしれない。そして、私は私のかけらでも取り戻すことが出来たかもしれない。それは振り返り、思い出すという行為の手助けになってくれたかもしれないのだ。

 名前など記号に過ぎないという彼の言には、確かに一理あると思った。今も、それは変わらない。大切なことは本質であり、表面にあらわれている名や状況では無いのだ。だが、自らの名を失うことが、名を思い出せないことが、今、こんなにも苦しい。確かに私のものであり、私を表すものであったそれは、少なくとも今、私の中の何処にも無いのだ。そして、取り戻せるのかも分からない。その不安、悲嘆、苦痛。これを一体、私はいつまで続ければ良いのだろう。いつ頃、帰ることが出来るのだろうか。

「あの、間違っていたらごめんなさい。もしかして、あなたはご自分の名前をお忘れではありませんか?」

 急速に視界が開けるようにして彼女の言葉が私の脳裏に入り込む。彼女は足を止めず、心なしか下を向いて、そう言った。私は、その祈りのような優しい響きを持つ言葉に逆らえなかった。私は頷く。そして言った。その通りだと。覚えていた筈の自分の名前が数日前から、どうしても思い出せないと。

「そうでしたか。不躾ぶしつけに尋ねてしまって、すみませんでした」

 謝る彼女に私は首を振った。彼女が謝ることなど、何一つとして無い。知らない者の名前を尋ねただけだ。それを告げることの出来ない私こそが謝るべきだろう。

「いや、こちらこそすまない。私は正直に言うか言うまいか迷っていたんだ」

「いいえ、謝るのは私です。不躾ぶしつけな質問をしてしまったこともそうですが。実は、春野華というあの名前は、ただの私の憧れに過ぎないのです。私もとうに自分の名前は忘れてしまいました。ただ、私の場合は忘れたかったのかもしれません。全て、全て忘れて、此処で生きてみたかったのです。新しい場所、新しい仕事、出会う人々。此処は不思議な所です。誰にも拒まれない。それ所か仕事を手配してくれ、私が此処で生きて行けるようにしてくれた。だからもう、私は私の名前のことなど、もうどうでも良かったのかもしれません」

 思わず、私は彼女を見つめていた。

「でも、あなたはそうではないようですね。それならば、まだ可能性があります。どうか諦めないで下さい。身勝手なお願いかもしれませんが、私に出来なかったことをあなたにはして貰いたいなと思っています。あんなに素敵なお話を聞かせてくれたあなたを、私はとても好きになっていたんです。いつの間にか。本当に、いつの間にかのことでした。そういえばいつか、あの灰色の猫のような生き物が、あなたを止めましたね。私の差し出した菓子を食べることを」

 蘇る、緊迫した場面。私を止める灰色の彼と、其処へ現れた白い猫のような生き物と、菓子商店の女主人。思えば違和感を覚えたのは、あの時が最初だったかもしれない。菓子商店は華やかで、中にある店の数も多くて、それぞれに猫のような生き物がいて、少し不思議で少し興味深くて。惹かれていなかったとは言えない。店にも、彼女にも。

 だからこそ私は菓子商店に通い、彼女――春野華の笑顔に、会いに行った。そして彼女の望むまま、二度、話をした。それを彼女は書き留めていた。いつか物語草紙を出版したいと言っていた彼女の語る声と表情を、ありありと思い出す。

「二度、私に話をしてくれましたね。良く聞いて下さい。もうご存知かもしれませんが、此処では完全トーティエント数が重要です。つまり、三という数字が。此処では三という数を口にすること自体が禁じられていると言っても過言ではありません。暗黙の了解とでも言うものでしょうか。そして、その数に達し、超えることが」

 どっと強風が吹き、彼女は一度、口をつぐんだ。彼女の美しい夜のような黒髪が大きく揺れて彼女の顔を覆い隠す。その風の勢いに、私は思わず目をつむった。そして、やがて収まりつつある風の隙間に目を開けてみれば、其処に彼女の姿は無かった。影も形も、文字通り消えていた。

「春野……華?」

 冷や汗が出る。本当の名前では無く憧れの名前だと告げた彼女のそれを、私はそっと呼んでみる。答える声は、まるで当然のように無かった。

 ――初めから彼女は此処にはいなかった。

 誰かにそう言われたような気がして、急激にぞくりとしたものが私の背筋を這い上がることを感じた。

 私は混乱し出した頭を押さえて、ふと前方を見遣った。すると森のように集まっている木々の間で、きらりと何かが反射したように見えた。ふらふらと、私は吸い寄せられるようにして重たい足を引き摺り、其処へと向かった。彼女の言っていた、沼なのかもしれないと。

 膝の辺りまで伸びている草を無造作に足で蹴り、細い多くの木々の間を抜けるようにして歩みを進めると、それはやはり沼だった。だが、正直な所、彼女の言ったように美しくは無かった。むしろ、淀み、暗く、人を飲み込んでしまいそうな怪しさすら感じさせるもので。私は一人、ただ沼の淵に立ち尽くしていた。まるで影が地に縫い留められたように、しばらくその場から動くことが出来ずにいた。そうして不意に、私は彼女の言葉を思い出す。

 ――丁度、今頃は空の色を映し込んで綺麗な姿が見られますよ。

「綺麗?」

 独り言が零れる。確かに今は夕刻、見上げてみた空は先程よりも夕焼けの色合いを濃く強くした鮮やかな朱色に染め上げられ、見る者をはっとさせるくらいの色彩を放っている。だが、沼はその色のかけらさえも映し込んではいない。それはただ暗く、何処までも暗く。目視出来る限りの全てを、暗澹あんたんとした黒と青丹あおにの入り混じる濁った姿を以て、私の前に露呈させていた。

 私はしばらくの間、半ば茫然とした心持ちで其処に立っていた。目は確かに沼を見つめてはいたが、本当の意味では何も映してはいなかったように思う。時折に吹く風が沼を囲う木々をざわざわと揺り動かし、その音は四方八方から私の耳へと入り込む。

 だんだんと辺りが冷え込み始め、ふと空を見上げると、真っ黒な闇が広がっていた。その時、私が見ていたものは明らかに天空である筈なのだが、それはまるで深く見えない沼の底のように思え、私は意識するよりも早く身震いをした。もう一度、沼を見つめる。やはり美しくなど無く、むしろ空恐ろしいものを覚えた。私は期待せず、名前を呼んだ。

「はるの、はな?」

 名前と言うよりも、ただの音の羅列のようになって私の口から出たそれは、ざわめく木々の音に消され、おそらくは誰の耳にも届くことは無かった。当たり前のように私の隣にいない彼女を探す為、暗くなった辺りをぐるぐると見回してみたが、やはりまた当たり前のように彼女の姿は何処にも無かった。

 私の見間違いで無ければ、あの時、彼女は私の目の前で掻き消されるようにしていなくなってしまった。何処に行ってしまったのだろう。朽葉の貸し本屋で待っていれば、また会えるだろうか。本を借りに来てくれるだろうか。いや、菓子商店に行けば会えるのだろうか。

 否、彼女は帰ると行っていた。故郷に、帰るのだと。確かに今日、帰ると言ってはいたが、此処の者はあのような帰り方をするのだろうか。会話の途中で、姿を消して? そもそも、美しい沼を見て思い出を作りたいと言ってはいなかっただろうか。しかし彼女は沼も見ず、立ち消え、こうして私の目前に広がるその沼は決して美しくなく。一体どういうことだろうか。

 ふと背後に気配を感じた。薄暗い中でそれを感じることは、本来ならば恐怖や不安を覚えるものであったかもしれない。だが、私は心中に広がっている困惑や落胆のまま、振り返った。其処には、宙にふよりと浮いている朽葉の姿があった。夜を控え、灰色に染まりつつある空気の中で朽葉の瞳はうっすらと光り、私を見つめている。

「帰ろうか。必要なら送るよ」

 朽葉は言い、私の反応を窺うように、ふわりと改めて揺れた。私は無言のまま首を横に振る。

「じゃあ、本屋までは同じ道だから。一緒に帰ろう」

 ――何処へ?

 私は喉まで出掛かった言葉を飲み込んだ。振り返るということは私の帰途に繋がることだと私は解釈していた。帰りたいと、思っていた筈だった。だが、一体、私は何処へ帰るというのだろう。名前をなくした人間が帰るべき場所など、何処にあるというのだろう。春野華。彼女は無事、故郷に帰ることが出来ただろうか。それならば、良いのだが。

 私は、自分の思考がまとまっていないことを自覚していた。また、彼女について、この沼について、朽葉は何か知っているのだろうかという疑問も持っていた。だが最早、それを尋ねるだけの力が私には残されていなかった。

 ――この町は、とても不思議だ。自らの記憶にかすみが掛かったようになっている私ですら、此処が普通では無いことくらい、分かる。そして、不可思議で形作られたこの町に永住するつもりなど、私はさらさら無い。しかしながら、私はどうしたら良いのか分からなくなりつつあった。直面する多くの不可思議の中に、私はほんの僅かで良い、安らぎや、帰るべき場所への手掛かりをきっといつも求めていたのだ。

 だが、春野華は消え、私の名は私から失われ、未だ帰るべき場所のかけらも思い出せない。振り返ることが大切だと、灰色の彼と朽葉は言った。確かに今の私に出来ることは、それくらいしか無いのだろう。自らが辿って来た筈の道を正しく振り返り、思い出し、辿り直し、帰り着くこと。それが私に出来ることの筈だ。しかしながら――今や私の思考のほとんどに、逆接の接続詞が付いて回る。そう、私が思考し、帰ろうとすることに、一体何の意味があるというのだろう。

 私と朽葉は沼を背に歩き、森を抜け、やがて貸し本屋の前に至るまで、互いに一言も発することは無かった。

「ちょっと待ってて」

 本屋の前に着くと、扉の鍵を開けて朽葉はするりと中に飛んで行った。程無くして戻って来た彼のふさふさとした腕には、一冊の本が携えられている。

「まだ途中でしょ。貸すから読んで」

 その言葉で、それは私が先程まで読んでいた【産道を経て、揺り籠に生まれ落ちる】という書物だと分かった。受け取ろうとしない私の手を取り、半ば押し付けるようにしてそれを渡した朽葉は、それじゃあ、また明日、と言って本屋の中に戻って行った。そして鍵の掛かる音が小さく響く。

 私は手元の書物に目を遣ったが、明かりのない其処では、ただの真っ黒い四角形にしか見えなかった。見上げた空も同じ色をしていた。星など、一つも無い。

 私は、重い足を引き摺るようにして家路を辿った。

「嘘だな」

 のろのろと歩きながら私は独り言を呟く。こんなものは家路では無かった。私は何故、一冊の書物を持って帰途では無いものに着いているのだろう。夜も近いというのに明かりのほとんど灯らない家々の間を縫うようにして、私は一人で歩く。妙な気分だ。私は薄ら笑いを浮かべて歩いた。

 帰るべき所では無い仮住まいの家に帰り着くと、いつもの位置で灰色の彼が目を閉じていた。眠っているのかもしれない。私は戸締りをして、床に就く。持っていた書物は投げ出されるようにして私の手を離れた。ばさり、と乾いた音がする。頭の片隅で、借り物なのに、という懸念が一瞬だけ光って、すぐに消えた。何だか、何もかもがどうでも良かった。



 ――翌日の早朝、私は朽葉の貸し本屋を素通りし、例の沼の前に座っていた。朝露あさつゆのせいか、腰を下ろした草の上が少し湿っていたが、そんなことは構わなかった。

「どうして私は此処にいるのだろう」

 それすらも、どうでも良いことのようにも思う。けれども、私の考えることといったらそれくらいしか無いのだ。考え始めれば、ゆるゆると薄い雲が張り出すように頭の中は静かに曇り始める。朝の霧のように。

 周囲のぼやけた風景と脳裏が、そっと歩み寄るように重なって行く。私は、ただただ沼の表面を見つめ、「どうして私は此処にいるのだろう」という疑問を繰り返した。まるでそうすることしか出来ない人間ででもあるかのように。止まることの無い水車のように。同じことを幾度も幾度も繰り返し繰り返し考えた。

 濁り切った沼の水が急激に澄むことなど無いように、私の頭の中がそうなることも決して無かった。それ所か沼の色に近付こうとでも言うかのように混濁して行く一方だった。そのことに焦燥や不安を覚える反面で、もうこのまま此処に座り込んでいれば良いのではないかという一種の安堵を覚えてもいた。そうしたらいつか体も心も沼の黒と青丹あおにに染まり、消えて行けるのかもしれない。

 そんなことをいつの間にか考えていた私を引き戻すかのように、昨日の如く、背後から掛かる声があった。

「此処にいたんだ。探したよ。何しろ今日は重要な日なんだ」

 私が首だけで振り返ると、陽光を取り込んでちかりと光った朽葉色の瞳二つと目が合った。

「忘れちゃったかな。此処では完全トーティエント数の内、最小の数が大事なんだ。今日は君が僕の店に勤め始めて三日目になる。此処で放り出されたら困るんだ。そうだ、貸した本は読んだ?」

「……いや」

「そう。急がなくて良いけれど、読んでね。それじゃあ、行こうか。もうお昼近い」

 ふわふわと朽葉は私に近付き、ふさふさの毛に包まれた手を差し出した。こんなことは初めてだった。私が少々戸惑いながらもその手を軽く掴むと、意外にもあたたかい体温が感じられた。

「生きているんだな」

 以前、生きても死んでもいないと述べられた朽葉の言葉が思い返される。

「僕は生きているとは言い難い。正直に言えば、君もそうだ。けれど、君のことは君自身に掛かっている。君が、これで良いと思えば、それまでだ。この流れで良いと思えば、それまでなんだよ。僕は――僕達は、そうなってほしくない。勝手な願いかもしれないし、本当に此処に君の幸福があると君が思うなら、それが一番良いのかもしれないとも思う。だけど、そうは見えないんだ。君には別の帰る所があるんだよ。内緒だけど、僕にも、灰色の彼にも、それがあった。でも、僕達は――此処で良いと決めた。君は、まだそうなってはいない。惑わされないで。どうか振り返ることを諦めないで」

 繋がれた手の先に少し、力が込められた。私達はそのまま手を繋いで貸し本屋までの道を歩いた。朽葉はいつものようにふわふわと浮いていたが。その存在が、手のあたたかさが、どれ程、心強かったことか。やや間を空けてしまったが私が声に出して頷いた時、「良かった」と朽葉は返した。

 私達は並んで貸し本屋への入り口をくぐる。今日は私が此処で働く三日目の日だった。

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