⑯自分には、才能があると信じていた。
小学校入学前に、全く外遊びをしなかったかわりに、本ばかり読んで過ごした私は、スタート時点でとても有利だった。
学校で習うようなことは、姉たちのお下がりの本で、すでに知っていたから、テストで100点を取るのは簡単だった。
さすがに中学、高校ともなると、そう簡単にはいかなかったけれど、それでも努力すれば上位の成績が取れた。
私には、憧れている大学があった。そこで学びたい学問があった。
けれども大学進学は、言うまでもなく父に一蹴された。女だてらに大学なんて、もっての他だと。ますます生意気になって、嫁の貰い手がなくなるからと。
家を出て、アルバイトと奨学金で自立する、という生き方は、思い付きもしなかった。
私のまわりで、そんな女性は見たことがなかった。あのころの女性の大学進学率は、まだ10%程度だったと思う。
未成年の私は、あくまでも父の支配下にあって、何事も父の許可なくしては決定することができないのだと、思い込まされていた。
けれども時代は明らかに変わりつつあって、当時「自己実現」という言葉が流行りはじめていた。
私は何としても自己実現を果たし、何者か、になりたかった。透明人間ではなく、一人でも二人でもいいから、誰かに称賛される何者か、に。
私は、大学進学が許されないなら、独学で勉強しよう、と決めた。
年間200冊のペースで、手当たり次第に本を読み、映画、舞台、展覧会と足を運び、何かにつき動かされるように、自分の周りを、知識の壁で頑丈に固めていく。睡眠を削ることなんて気にも留めず、むさぼるように、知らないことを知る作業を重ねた。
私は今でも、頭が悪い、とか、バカだ、と、言われることに異常なまでに反応する自分を知っている。それは例えば、ブスだ、とか、ババアだ、とか言われることの何倍も強く、深く傷付いてしまう。
私たち三人姉妹に対して、父の望んでいることは生涯はっきりしていて、一切ブレることはなかった。
女子どもは、男に従い、ひたすら尽くすべき。
娘時代は親を敬い、嫁いでからは婚家と夫に仕える。
女に教養は必要だが、学問はいらない。
あたかも封建時代のような、これらの価値観は、私が学校で習った男女平等思想とはかけ離れていた。
現実には、どちらが嘘つきだったのか?
それは学校。
最初に就職した会社では、女子社員だけ出社時刻が30分早く定められ、掃除当番とお茶当番があった。そして同じ仕事内容でも、スカートの制服を強制された。
手取り9万円は、当時の相場からしても安過ぎたが、次の年の男子新入社員の手取りが16万円と聞いて、怒りよりも脱力した。
私は転職するために、週に二回、夜間学校に通い、人脈を作り、節約して貯金した。
転職し、実績を作り、独立してフリーランスに。バブル景気もあって収入は一気に増えたが、その代わり、セクハラ、パワハラをしない取引先はなかった。
下品な下ネタに笑顔で付き合い、膝に置かれた汚い手を気分を損ねないように注意深く外し、くだらないデュエットのマイクを握る。
担当者に気に入られると、それだけで仕事は増えた。けれどもそれは、私の思い描いていた「自己実現」を果たした姿ではなかった。媚びて仕事を得る、惨めなフリーランサーの姿そのものだった。
自分には、才能があると信じていた。
その上で、更に努力を惜しまないのだから、人の何倍も努力したのだから、欲しい物は手に入るに違いないと信じていた。
欲しいもの。
称賛。ポジション。新人賞。大きな仕事。やりがい。
けれどもそれは、幻想だった。何一つ手には入らず、ただ挫折感だけが残った。
特別な才能に恵まれていなくても、等身大の自分を肯定し、受け止めることができていたなら、私には、違った未来があったかもしれない。
結婚して何年か経ち、子どもたちにまだまだ手がかかるころ夫に、上から目線で言われたことがある。
そんなに「学歴コンプレックス」があるなんて知らなかった。
どうしても行きたいなら、今から大学に行けばいい。
家事と育児の手を抜かずに、ちゃんとしてくれるなら、俺は反対はしないよ。
彼はそれが、どれほど無茶で、残酷なことを言っているのか、何の自覚もなく無邪気に言い放つ。私は余計、苦しく辛く、絶望的な気分になった。
こうして私には「学歴コンプレックス」という名前がついた。
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