それでも、毒になる親 2.理想の子育て
はじめての子どもを授かった時、私はすでに、夫との共同生活に疲れ果てていた。
そのころはまだ、発達障害やASD、ADHDも広くは認知されておらず、日本では専門家も少なかった。ましてや、カサンドラ症候群という考え方も知らなかった。
それまで一人暮らしの長かった夫は、すでに独自の生活スタイルが出来上がっていた。そして、無職である妻の方が夫に合わせるべきだ、という認識でいることは明確だった。
夫は決して自分の落ち度を認めない。私が追及すると、「俺は仕事している」「俺が稼いでいる」とモラハラ発言になる。論争に勝ち目がなくなると、私を見下したり貶めたりすることで自尊心を守る。
私は、授かった命を育てていくために、夫に、物心両面でどっぷりと依存しながら、いくつかの好ましくない性格(当時はASDの特性とは知らず、性格だと決めつけていた)が子どもに遺伝することをとても嫌悪していた。
こうして私の子育ての第一歩は、相反する感情に揺さぶられ、振り回されながら、不安定な精神状態とともにスタートした。
そもそも夫は、子どもをとても欲しがっていた。
彼の世代では、結婚することも、子どもを複数人育てることも、当たり前のことと信じられていたのだろう。
既定のレールから外れて生きることは、何か事情があるか、よほど変わった人だと、世間から白い目で見られることになる。
私だって似たようなもので、結婚しないという選択も、子どもを産まないという選択も、意識的に選び取ることはとてもハードルが高かった。
昭和の地方都市の同調圧力は、今の時代からは想像するのも難しいほどに強固なものだった。
確かに夫は夫なりに、子どもに対する理想があったのだと思う。
あらゆるジャンルにおいて、自分の持っているすべての知識を与えたい。
何かの、あるいは複数のジャンルに興味を持ってくれれば、それを深く掘り下げて一緒に楽しみたい。
できれば子どもが将来、いずれかのジャンルで傑出した研究者にでもなってくれれば⋯⋯。
けれども私には、それはまるで自分の叶わなかった夢を、子どもに託しているだけのように見えた。
待ち望んでいた「我が子」というのは、ほとんど自分の分身のような、自己愛の延長線上の愛情としか思えない。
私は、自分の危うさには何一つ気付かないくせに、他者の態度や無意識の感情については敏感に気付くところがあった。
どこか子どもを私物化したような、そんな発言や態度に過敏に反応し、私はいちいち文句をつけた。
そんな風に高望みしたり、期待を押し付けるのは間違っている、と。
今から思えばASDの特性だった、夫の生活態度への不満と、子育てに対する考え方の相違を、私は、知らず知らずのうちに混同してしまっていたのかもしれない。
子育てにおける夫の考えや、無邪気な幻想はことごとく、私がこれまで半面教師として見て来た人たちのそれと重なった。
夫の考えを間違っている、と断罪することで、相対的に自分の考えこそが正しいのだ、と思い込む。
私はあまりにも一生懸命、考えて、考えて、考え過ぎたその挙句、自分で自分を、正解の袋小路に閉じ込めたのだ。
また私は、自分が「女だから」という理由のもと、進路を著しく制限されたことを、いつまでも忘れてはいなかった。
自分がされて嫌だったことは、子どもには決してしない。私が子どもを授かった時、一番に考えたことはそれだった。
・女だから、あるいは男だから、という理由で進路を制限してはならない。
・子どもは決して、自分の分身ではない。
・自分の叶わなかった夢を、子どもに託してはならない。
・子どもの将来を高望みして、期待を押し付けてはならない。
こうして私は一つずつ、自分の中に、子育てにおける禁止事項や、制限事項ばかりを増やしていった。
親は~してはいけない。
親は~しなければならない。
親は~であるべきだ。
自分に対する厳しい制限の数々は、一見するととても禁欲的で、子どもファーストの優れた考え方のように思える。
私は、「正しいこと」の自負に酔い、すっかり自画自賛していた。
自分に厳しい制限を課す一方で私は、子どもが社会人として自立するために親は、たくさんのモラルやルール、マナーを教育しなければならない、と強く思っていた。
何でも望みを叶えて甘やかすことは、決して本人のためにはならない。
一定の我慢ができる人こそが、自分のことも他人のことも尊重できるのだ、と、そう信じていた。
「生まれて来てくれただけでいい」「生きていてくれるだけで十分だ」。そんな言葉は、どこか遠い世界のきれいごとに過ぎない。
「生きているだけ」では十分ではなくて、子どもたちにはやはり「幸せに」生きていって欲しい。
「正しさの自画自賛」の中に埋もれていた私は、自信に満ち溢れていた。そうして「幸せ」を押し付けている矛盾には、気付くことができなかった。
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