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⑲子供を産むことで、人生を変えたかった。

妊娠がわかった時、私はまだ、子どもを保育園に預けて仕事を続けることを考えていた。
けれども市役所の人からは、
自宅兼仕事場でフリーランス? 100人以上待ってもらうことになりますよ、と半笑いで言われ、入園審査の書類さえ、受け付けてくれなかった。

仕事を断念したのは、つわりがひどくて起き上がれなくなったことが一番の理由だったけれど、両親もとうに亡くなり、保育園も頼れず、仕事をしながら子育てすることなど私には、到底できるとは思えなかった。

そして本当はもう、クリエイティブにもフリーランスにも限界を感じていて、才能なんて、はじめからなかったんだ、という気分に追い込まれてもいた。

だから、妊娠、出産し、子育てに専念するために仕事を辞める、というシナリオは、誰からの文句もなく、また自分自身を誤魔化すのにも、うってつけだったのだ。

結局私は、子どもを持つということで、人生を変えたかったのかもしれない。

母親になることで、生きなおそうとする。言わば自分の人生の、敗者復活戦のための武器として、子どもを持つ。そんな風に考えるなら、それはあまりにもエゴイスティックで、許し難い行いだろう。

けれどもそれは、まさしく私自身がそうされたように、私の父や母も、祖父や祖母も、誰もが脈々と、大きな時代の流れの中で、肯定されつつ繰り返してきた歴史なのだ。私は自分に、そう言い聞かせた。

やがて私は、夫の経済力のもと、無職の専業主婦として出産した。

産まれた子どもの発達に不安があり、様々な機関を訪ねて相談した私に、専門家たちは皆、毎度同じことを言う。

お母さん、毎日外遊びをさせてあげてください。とにかく日光に当たることが大事です。家の中に閉じこもらないで。

そんなアドバイスを真に受けて、私は毎日、幼児だった子どもたちを連れて公園に通った。放課後の公園には、どこにも居場所のない小学生たちが、たくさんいた。

家に帰ったら、ずっと勉強させられるから、帰りたくない。
毎日、テーブルの上に千円置いてあって、ご飯は一人で買って食べる。
家には誰もいないから(あるいは邪魔になるから)、帰ると叱られる。

いろんな家庭の、いろんな事情があり、いろんな子どもがいた。

ある小学一年生の女の子が、明らかにサイズの合わないブカブカの汚れた服を着ていて、ご飯はある時とない時がある、と言うので一度、家に上げて一緒に夕飯を食べた。

翌日その子の親が、高価な菓子折りを持ってお礼に来たけれど、二度としないでくれ、と念を押され、私には、クレームにしか聞こえなかった。

子どもが勉強しないから、「あんたなんか死んでくれ!」と言ったら泣いて机に向かったわ、と、さも可笑しそうに笑いながら話す人がいた。

部屋を片付けないお仕置きに、オモチャや大事にしている宝物を全部、ゴミ袋に詰めて捨ててやった。

医学部に入ってくれるなら、いじめやなんかで問題を起こしたとしてもお金で解決してやる。

私の周りには、こんなことを平気で言う人たちがたくさんいた。

私は長い間そんな人たちと、平静を装い付き合ってきた。毒親でない人を探すのが難しいくらいだと、心の中で軽蔑しているくせに。

そうして自分だけが、ちゃんと子育てしているのだと、自惚れていた。

まだ幼かった子供たちから「どうしてママはお仕事しないの? よそのママはお仕事しているのに」と問われた時、「あなたたちが生まれたからよ」と、押し付けがましく答えたのは私だ。

それは自分の人生の、挫折や、疲労や、決断など、極めて個人に帰来する事柄だったのに、さも子どもを育てるために犠牲になったかのような、含みを持たせた言い回しをした。

私は、卑怯だ。

無自覚に子どもたちを傷付けて、のうのうと生きてきた。何なら被害者面すらして。

愛憎半ばの仕事には、やめてほっとした気持ちと、どうしてやめてしまったのかと悔やむ気持ちが交錯し、かと言って、もう一度はじめる勇気もない。

仕事そのものより、「仕事をしている私」に執着していたのだと思う。代わりに選んだ、「生きなおすための子育て」は、とても一筋縄ではいかない、あまりにも苦しみの多い作業だった。

どれほど頑張っても私には、誰のことも救えない。
自分の子どもも。他人の子どもも。自分自身も。

救うどころか私は、誰の心にも、寄り添ってあげることすらできなかった。

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