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朝の記録 0905-0907

 0905

 5時に起床。早寝早起きの生活を始めて一週間が過ぎた。まだ寝ていたいなーとは思うけれども、少しずつ体内リズムが10時就寝・5時起床に慣れてきたような。初日に何度も途中で起きたのが嘘のように夕べはすっきり眠って、そして目が覚めたのが4時57分だとかそのくらいだった。大切なのは、5時に起きることよりも10時までに布団に入れるか、という点にあるように思う。寝る時間が遅いと起きるのもつらい。
 昨日は比較的すぱっと帰り、照り焼きチキンを作った。そして「ことり」を一度置いて「楽園の烏」を期待しながら読み始めた。読み始めると止まらず、そして懐かしさを感じる。このキャラえらく丁寧な物腰になったな、と思ったらそうでもない場面に当たって少しほっとする、もしくはちょっと騙されたような、やっぱりきみはそうなんだな、まあそうでなくっちゃね、と苦笑いしたくなった。刀で斬る、刺す、蹴る、といったような肉弾戦の描写を読んだのはそういえば久しぶりで、ファンタジーらしい転身要素も相まってとても胸が高鳴った。戦闘描写はイメージが追いつかないことがあるけれど、なにかすっと入ってきてすっと血肉沸き立つその情景が広がるようだった。そういったものに憧れるし、しろ闇を書きたくなった。
 今日は土曜日で、つまり「余白」マガジンの投稿日となる。だから絵を描こうと思ってさっきちょっと打鍵から離れて絵を描こうとしたんだけれどうまくいく感じがまったくしなくて手放した。明日は9月6日でクロの日で、クロとはまっしろな闇の主人公で彼の絵を描こうとしたけれど全然うまくいく感じがしない。今日が9月6日だったらちょうどよかったのだけれど微妙にずれているのがまた気になる。記事だけでも用意しておいたら頭の中のやらなきゃ領域が少し空いて一日が随分と楽になるので、朝のうちに「余白」を用意しておきたい。絵がちょっと難しそうであればもう文でどうにかやるしかなく、文で成す物語なのだから言葉を用いてもそれは構わないんじゃないか。ラナの誕生日の時にはがっつりと数日前から用意したりしていた。日々の土日の「余白」「うみのふね」の固定更新の記事もそうなのだけれど、決まっているものは当日にばたばたするより前もって多少準備しておいた方が精神的に楽。ほんとうに、楽。毎日note更新していた頃は前日には用意しておくようにしていた、そういうちょっと早めに準備するという精神は何事においても重要ですね、趣味でも仕事でも。何よりも自分の精神状態のために。

 そういうわけで「余白」用の記事を書いて、サムネ用の絵を描いた。1300字くらいのものになり、引用文を加えたら1900字になった。それだけで随分と大きな創作行為だと思う、今現在8時35分。この文と合わせると、引用文を含めるのはなんか違うので、だいたい2300字くらいで、残り700字くらいは少なくとも書く、とやっていたらいつのまにか過ぎそう。本日は仕事がお休みで、明日も休みで、二連休となる。二連休。なんて素晴らしい響きだろう。普段土日祝日あまり関係ないので連休が少ないのだけれど、たまに連休にするとやっぱり連休ってよい。一日終わってもまだ一日あるという余裕がほんとうによい。しかもまだ今日は始まったばかりで、それなのにもう今日更新分のnoteを終えている。素晴らしいという他ない。自由だ。強いって、自由だ、とハイキューで言っていた。ほんとうにそうだと思う。
 一気に読むのも勿体ないような気もしなくもないけれど、今日は「楽園の烏」と「ことり」を読みたい。Twitterで見かけた本のラジオ風Youtube配信が21時からあるらしく、恵文社の方がおられ、見たい。普段できるだけ20時を過ぎたら電子画面を見ないようにしているのだけれど、ライブはライブで見たいものがある。それからできれば明日の「うみのふね」の原稿を書く。
「余白」を書いたため、しろ闇を書きたくなっている。しろ闇も墨夏も、起承転結があれば起の部分なので、どうにも腰の重さが拭えない、なんだか手探りで物語の輪郭を見出そうとしている感覚だ。でも、少しずつ積み重ねていけばきちんと進む。消したりするけれど、きちんと進む。今日のうちに「うみのふね」を書けば明日の朝は小説を書けるだろう。



0906

 起床。5時前に起きたけれど、30分ほど布団で目を瞑ってぐだぐだして、起きた。
 昨晩はなんと久しぶりに0時近くに寝た。ぎりぎり日付変更線は超えなかったけれど。Youtubeライブの本の話が思いのほか面白く、それをラジオのように聞きながら今日更新予定のうみのふねの原稿を書いていた。本文にも書いたのだけれど、「主人公が最低にクズな作品」をすっ飛ばして「小学生の頃好きだった本」という大量の餌をばらまかれたところに反射的に飛びつくような懐古厨ホイホイなテーマであり、10冊選出した。懐かしく、楽しかった。すごく夢中になって本を追いかけていた時期だった。最近でこそ読書にのめりこむようになって当時の雰囲気に少し近いけど、やっぱりあの、本に関しては親がけっこう寛容であったこと、図書室に毎日行って探していたこと、図書ファイルに借りる本を書き込んでいってそれが増えていくこと・その楽しさ、というのは恵まれていた時間だった。子供の頃好きだった本、というのはそのひとの根本に触れるようなもののように思う。エッセイを読んでいても、昔好きだった本の話は強い興味を抱く。
 小学生の話を少し続けると、私の小学校はもともと新校舎と旧校舎の二つに分かれていて、その間を僅かに坂になった渡り廊下が繋いでいたのだけれど、小学五年生の時に、新校舎の耐震工事+旧校舎を建て替える一大イベントがあった。旧校舎は本当にオンボロで、木の校舎で、教室の真ん中で数人でジャンプしたら床がバウンドして、抜けてしまうんではないかと思うようなスリリングさがあった。古き良き校舎に小学三~四年生の二年間を過ごしたので、私にとっては思い出深い。図書室は新校舎の二階にあった。小学校の中で、覚えている中では唯一上履きを脱いで過ごせる場所で、ひろびろとした玄関スペースの向こうは更にひろびろとしたカーペットのスペースが広がっており、可愛らしくて本もたくさんあってのんびりできて言うなればくつろぐにも最高な場所だった。耐震工事を経て場所も変わって(確か)三階になり、カーペットではなくなった。もちろん新しくなってからも図書室には行ったけれど、昔の方が好きだったので少し残念だった。とはいえ、一日のほとんどの時間を過ごしていた教室よりも、図書室の方がなんというか変わらない思い出が存在していて、他の特別教室のことは、しいていうならば図工室なら薄ら覚えているかな、という程度なのだけれど、図書室ほど濃厚な記憶はない。外で遊ぶよりも教室や図書室で本を読んでいた。学校の近くにあった図書館も、自宅も、大切な本を読む居場所だった。
 そういうわけで小学校の時読んだ本を並べて、それぞれに簡単な文を寄せていたら、0時近くになった。果たして起きられるのだろうか、と思ったけれど、起きた。
「楽園の烏」と「ことり」の続きを昨日読んで、読み終えた。今こうして書くまで全然気にしていなかったけれど、鳥系の作品が続いたようだ。
「楽園の烏」は思っていた以上にドロドロとしていて、そうだこの泥沼が八咫烏シリーズだった、と張り手を打たれたような気分だった。誰も本当の意味では信じ切れない、どこかで不穏な糸が繋がっている、という雰囲気にこちらは騙されるばかりだけれどたまらなくぞわぞわする。第一部の院生時代の某友人が大活躍して、その人が大好きなので、それだけでも楽しかった。そして最大の推しは自らの正義を胸にどこまでも理詰めの暗い道を歩き続けていた。え、あの人はどうなった?ということも多く、気になりすぎる引きで終わった。あれはずるい。久しぶりに「茂丸」という単語を見て、膝から崩れ落ちた。やはり出るよな茂丸、彼なしには彼等の関係性を語ることはできないよな、と思うし、果たして彼は今の状態をどう言うのだろうか。
「ことり」は烏は出ないけれどメジロに関する描写が巧みで、それでいて小父さんの老いとそこに付随する生活の変遷がなんとも静かな苦しみを与えてきた。心がどこまでも穏やかに優しくなれる、というよりは、小父さんの内なる世界と、外の世界があって、外の世界の騒がしさや移り変わりに小父さんが追いつけていない(そもそも追おうともしていないけれど)がゆえに起こる切なさが、老いそのものであった。一生を追ったものなのだしそもそも最初が小父さんの死で始まる小説で、最終的に小父さんは死ぬのだけれど、それまでに起こる小さなドラマの数々が、手の届く範囲ですべて行われる小さなことごとで、そうした小さなことを小父さんは大切にしていて、でもずっと同じではいられないということを突きつけられてどこかずっと閉塞的だった。外部と繋がっては閉ざされる、その繰り返しだった、今までの事件やポーポー語もろもろが繋がって、最後のあたりでばっと解き放たれる、まさに鳥かごから小鳥が飛び立ち空を飛ぶ、そういったような光を感じる展開。いい小説だったとしみじみ思う。小川洋子を読む度にこういうものを書きたいと思う。
 で、二冊読んで積み本をどんどん崩していこう、のはずが、何の気なしに入った小さな古本屋でじっくり立ち読みしたりなどして、うっかりまた積み本を増やしてしまった。巨大な新刊本屋ではないこじんまりとした規模だからこそじっくりと全体を見ることができ、そうすると本の一冊一冊が鮮明に浮かび上がるみたいだった。今書いている墨夏が星にまつわる話であることは、過去の朝の記録を読んでいただければわかるのだけれど、そういうわけで星にまつわる本を読みたかった。そうしたら野尻泡影に出会った。ちょっと読んだだけで情緒的な星の話に感銘を受けて、これは読むしかないと思い何冊か手に取った。それと、別で気になった本を二冊。そうしたら、店主が気さくな方で、野尻泡影についていろいろと教えてくださった。今、野尻泡影は注目されているそうで、というのもやはり情緒豊かな文章が人気らしく、値段が高騰していると。単行本クラスになってくると数千円して、彼が最後に働いていた岡山の天文台での唯一のエッセイに至っては、数万とかするんじゃないか、と言っていて、めんたま飛び出るような話だったけれど、古本というのは思いもかけずめちゃくちゃ高かったりする。でも野尻の本は紙があまり良くなくて、中身を読むのなら文庫で充分、と。それでもその文庫も絶版だし、なかなか手に入りづらい。三千円超えていたらそこまでの価値は無いように僕は思う、と、とうとうこんこんと湧き出る泉のように話されて、相槌を打ちながら、めちゃくちゃ面白い話だと胸を高鳴らせながら耳を傾けていた。開けっぴろげな話し口も含め、真摯な方だな、と思った。本についての話を口に出して、人と交わすということじたいが普段あまりにもなさすぎて、すごく新鮮だったし勉強になった。短歌(俳句だったかな)の本も出しているそうで、そっちは新刊でも出ていたりするから、野尻を読んで気に入ったら読んでみるといいですよ、と言われた。好きなんだなあ、と思った。好きだから、こんなに話してくれたように、思う。有難かった。本を好きな人、とりわけ本屋を営む方の本に関する話は、専門家による話で、それでいて年齢を超えた親しみがあり、とても良かった。昨夜のYoutubeラジオもそうだ。本が好きで本を売っている人たちの話は、読書が好きな人たちの話は、慎み深くて、でも静かなる情熱に溢れていて、本を読むという行為はものすごく内側にベクトルが向く行為であるのに、ただ文字を追うという行為なのに、そこから広がる世界の深みを実感した。読書を好きで良かった。絵本を読み聞かせてもらっていた幼い日々から今まで、詳しいわけではないけれど、本を好きで居続けて良かったなあ。で、この幸せはきちんと続いていく。読みたい本がたくさんできた。良い時間を過ごした休日だった。
 そういうわけで胸から溢れるものがありすぎて3000字を超えた。野尻泡影を読みつつ墨夏を再開することとし、今日の大阪文フリをどうするかを未だに迷いながら、ここまで。



0907

 起床。5時に起きて、雨音をじっと聞きながら考え事をしていたら、20分くらい簡単に過ぎていた。そういえばこの早寝早起きの生活を始めてから一週間以上過ぎたけれど、雨が降っているのは初めてで、雨音というのはすとんと心の奥まで入ってくるので聴き入っていた。勿論これが激しくなると(今まさに台風で九州の方は大変で)不穏で不安に掻き乱されるものがある、だけれど基本的には私は雨に好意を抱いている。雨が降ると安心する。水は恵みだ。雨が降りすぎると洪水が起きるし、時に波が人を攫っていくけれど、それでも水は恵みという側面を持つ、水が無ければ生きていけない、だから雨が降ると生きていくだけの雨がもたらされたようで安堵する。
 大阪文フリは結局行かなかった。寝不足と(恐らく)PMSに由来して体調が万全ではなく、イベントにいったらダウンすることが目に見えていたので控えた。久しぶりにイベントには行きたかったしその空気を吸ってそして同人誌ならではの自由な本に触れたかったけれど、仕方がないかな、と思う。あと職場が今混乱している最中にもしも万が一のことがあったら(もちろん感染拡大が起こらないように入念な準備や注意喚起を運営側が行っていたことは知っているけれど)と思うと無責任なことになる。気になった作家さんやずっと気に入っている作家さんが軒並み欠席したというのも大きい。どうにせよおのれコロナ。
 代わりにずっと本を読んでいた。野尻泡影の「星三百六十五夜 秋」と「星座のはなし」を掻い摘まんで、「馬語手帖」と「すべての、白いものたちの」を読んで「ブラフマンの埋葬」を読んでいずれも読了した。どれもページ数としては短く、すっと読んだけど面白かった。
「馬語手帖」は与那国島で馬と過ごすようになった河田桟さんのリトルプレスで、当然ながら口から人語を発さない馬のことばについて丁寧に書かれている。耳や口といった器官それぞれの役割をまとめていたり、気分によって器官がどのように動くのか、そもそも馬ってどういう気分でいることがあるのか、そして最後は挨拶や喧嘩や上下関係にまつわることなどコミュニケーションの流れに基づく解説など、とても興味深かった。じっくりと馬を眺め触れたくなった。そして馬の気持ち、というのはいいな、と思った。下記に引用。

 ウマの気持ちは、一本のロープのようなところがあります。ピンと貼っているかダランとゆるんでいるか、そのふたつの状態を行き来しているような感じです。ウマは、ものごとを「良い」とか「悪い」と判断するのではなく、緊張するか、ゆるむ方か、という風に感じとるといえばいいでしょうか。それがウマの心の大きなものさしになっているようです。

 いいなあ。緊張か、ゆるんでるか。で、当然ながらゆるんでいる方を好む。私もゆるんでいる方が断然好きだ。
 なんかこうして読書乾燥書いていたらそれだけで朝の3000字が埋まりそう。
「すべての、白いものたちの」は初めて読んだ韓国文学だった。韓国文学、新刊本屋に行くと今めっちゃくちゃ流行っているなあという印象があって、天邪鬼な私は流行の波にあえて乗らないようなところがあるのでずっと読まずにいた。82年生まれの~を皮切りにして女性視点の憂鬱とか問題に切り込んだ作品が多いなと読んでもないくせに勝手に解釈しており、あと韓国がというより日本で全体的に流行ってるというか流れとなっている無理をしない系とか自己肯定系がよく見られ、あまりにプッシュされすぎて食傷気味であってゆえに韓国文学からはなんとなく距離を置いていたのだけれど、「すべての、白いものたちの」はずっと読みたかった。実際に読んでみると、小説とエッセイと詩が不思議に融合したような文体のように思うのだけれど、その切り口がつよくいのちを意識させるもので、ワルシャワの町でかつて大戦で破壊され尽くした町の写真をきっかけとして、生後二時間で死んだ姉になるはずだった子供がもしも生きていたらという観点で途中進められ、それが彼女であり私でもある、とても不思議な本だった。彼女がもしも生きていたら、私は、そして私の弟はいなかったかもしれない、という、でも彼女は死んで、私は生きている。文体としてはシンプルなのに読むほどに味わいが深くなっていく、詩的なもの。そして最近小川洋子ばっかり読んでいることもあって強く小川洋子的な言葉選びが強く意識された。そして装丁がとてもよい。韓国の「白く笑う」という表現や、まっしろな白(ハヤン)とまっしろではない白(ヒン)それぞれに固有名詞があるという話もすごくいいなと思って、それこそまさにページが途中で何度か違う白の紙になるという素晴らしい装丁のあらわれで、断片的に出てくる韓国の言葉や食べ物にも触れて、知らずにいた韓国文化に触れたような感覚も良かった。
 そして「ブラフマンの埋葬」は小川洋子で、短い。フォントも余白も比較的大きいしページ数も150ページくらいしかないので、読んでいたらすっと終わっていった。埋葬、というからには、ということが既にタイトルからして解っていたので、読み進めていくほどに当然ながら残りページが少なくなっていくのが肌で解るのであって、それが不穏であった。でも、内容としては人間と動物のハートフルな交流が描かれていて、動物ブラフマンのあどけなくて憎めない仕草・行動の数々がとても良かった。ブラフマンのことばは、エッセイ集「とにかく散歩いたしましょう」などにも出てくる小川洋子の愛犬ラブを彷彿させた。寡黙な彫刻家もいい味を出しており、動物アレルギーをもっているがために毛嫌いしているレース作家との比較が良く、でもレース作家も最後は……というのがこの物語のあたたかさをしめくくっていて心がぬくもった。良かった。よしもとばななとかが好きな人に小川洋子を勧めるならこれかもしれない、と、よしもとばなな好きの友人のことを思い出しながら考えていた。
 しかし、小川洋子ばかり読んでいるせいで、小川洋子的な文章以外の、もう少し硬派なものを読みたくなっている。もちろん小川洋子は好きでブームで結局また手を出すだろうけど、一度違う感じのものを間に挟んだ方が楽しめそうだなということに薄々気付いている、気付いた、というのを特に「すべての、白いものたちの」を一周した時に痛感した。二周したらそこまでは思わなかったのだけれど、ちょっと違うものに触れたい。ところで野尻泡影はとても良い。星三百六十五夜はちょうど毎日分、文章が編まれているので、毎日少しずつ日課のように読もうと思う。

 他にも書きたいことがあるけどそうしているとまた小説を書かなくなるのでいい加減に墨夏の続きを書く、というここで2600字を超えている。

 わし座、こと座、そしてはくちょう座、それぞれが抱く三星を結んで描かれる壮大な三角形は、日本では春頃から顔を見せ始め、真夏から九月あたりにかけてよく観察できる。堂々と翼を十字の形に広げたはくちょうは星の散らばった夜空でも圧巻の存在感を示し、ひなこでも容易にそれがはくちょう座だと理解できた。
「アルタイル、ベガ、デネブ、だよね」
「うん、そうそう。よくできました」
 昴は頬を綻ばせて頷く。
 星に名付けられた言葉は、普段の生活では発することのない特別な響きを内包しており、口にすれば秘密の呪文を唱えているようだ。昴が褒めてくれたことも嬉しかったので、ひなこはもう一度三星を繰り返した。アルタイル、ベガ、デネブ。神秘的な味をした飴玉を転がす。無数に明滅する星たちの中でかつて名付けられた言葉は、宇宙の味がする。
 ひなこはふと、自分の名前も星につけたいと考えた。昴も、毎年夜を巡ってくる。青白い綿を発露させてやってくる。それは昴、隣に座る少年の名前。昴のように、ひなこも夜空に存在したら。アルタイル、ベガ、デネブのように特別な響きを持ったなら。そう考えると急に自分の名前も特別なものに変換されていくようで、胸がにわかに沸き立った。今夜、星を観察する時には探そう。ひなこの星を。そう決意した。

 3200字になっていたので、ここまで。6時半。まだ朝は長く、気付けば青く暗い外は明るく雨は止んでいる。雨の降った朝は涼しく、窓を開けて朝ご飯でも食べよう。

たいへん喜びます!本を読んで文にします。