現代日本人のための黙示録。コミック版「風の谷のナウシカ」を読む。

コミック版「風の谷のナウシカ」は、
通常版は全7巻であるが、
今回読んだのは豪華特装版である。
非常に大きく分厚い本(電話帳みたい)で、上下巻にまとめられている。
ちなみに上巻に通常版の1~4巻、
下巻に通常版の5~7巻が収録されている。

豪華装丁版はしばらく前に買ったものだが、
ずっと積まれていて、
今回ようやく読むことができた。

今まで何度も読んできた通常版と比べると、
見開きページが違うので最初は戸惑うが、
通常版よりも一回り大きいサイズで、インクの発色も良い。
また3~4巻が一冊にまとめられているので、
前のページに戻るのも本をいちいち出さなくていいので便利だ。

という訳で、ナウシカ自体、ずいぶん久しぶりに読んだ気がする。
前回読んでから以来、
様々なノンフィクション本を含め、私の読書の幅もだいぶ広がった。
だからだろうか、
今までには気づいていなかった部分に色々と気づくことができた。

という訳で、本記事ではそういったものをつらつらと書いていきたい。

まず今回読み終えて最初に感じたのは、
これは現代の日本人にとっての黙示録たりえる存在だ、ということだ。
まあつまりは、欧米人にとっての聖書の黙示録のように、
我々に向けてある一種の警鐘を鳴らす書物であるというか。

日本にはキリスト教があまり普及してないため、
この、最強インフルエンサーの一人である宮崎駿の作品が、
これからまた何十年といった長い時間をかけて、
聖書ように広く日本人に読まれていく気がする。
※最後の方に出てくるが、「私たちの神は一枚の葉や一匹の蟲にすら宿っている」というナウシカのセリフも、欧米の一神教とは違い、仏教や神道(八百万の神)を基にした日本人に受け入れられやすい考え方を土台としている。

では以下、内容をざっくりと振り返ってみたい。

風の谷に住む族長ジルの娘ナウシカは、
その登場時は、良くも悪くも一人の「虫愛ずる姫」なる少女である。
(これは実際に、通常版第一巻の著者によるあとがきで、ナウシカのモデルが「虫愛ずる姫」であることが書かれている)
ナウシカは最初の頃、
世界を覆いつくしているトルメキアと土鬼(ドルク)との戦争については、全然興味がないように見える。
クシャナの命により遠征の船に乗り込むが、
戦争はとことん無視してるかのようで、徹底的に、虫を愛し腐海の謎を解こうとすることに専念している。
その様は、どこか世間離れしており、
傍から見ていてちょっと変なところもある。

例えばナウシカが、クシャナ軍が遠征中に立ち寄った井戸で、兵士が虫に襲われているのを助けに行こうとして、逆に虫に捕まってしまうというシーンがある。
逃げてきた兵士からナウシカが捕まったことを聞いたクロトワは、勇気を持ってナウシカを助けに行こうと井戸に入る。
しかしその時既にナウシカは虫を落ち着かせたところだった。
井戸に入ってきたクロトワに、「殺してはだめ」とだけ行って、
自分はスタスタ外へ出ていく。
クロトワには、助けにきてくれたのに対する礼の一つもない。
ここはちょっと気になった。

ところがこの後、ナウシカはどんどん戦争に巻き込まれていき、
その立場は族長の娘という、孤高で純粋で崇高な存在から、
地に足がついて(というか神聖に見える立場から堕ちて)ゆく。

そして、トルメキア兵士と土鬼軍、底辺に生きる蟲使い達に寄り添っていくのである。

今回改めて発見したのは、まず上巻に収録されているトルメキア帝国対土鬼(ドルク)帝国の戦争の描写の迫力の良さであった。
土鬼は腐海を人工的に作り、戦争に使っていく。
収録されているピンナップに戦略地図(細かい川の名前や地名まで書かれている)も描かれており、戦場がしっかりと設定されているのが分かる。

その戦争のなかで、クシャナが兄や父から裏切られ、
大戦の中で孤立していく。
元々クシャナの部下だったトルメキア第三軍が土鬼領の真っ只中に取り残されていたが、それと合流したクシャナ軍と、チャルカ司令官との戦い(クシャナ第3軍による攻城砲群殲滅作戦)が描かれるのだが、その描き方、戦場の迫力が絶妙である。

まるで同じ宮崎駿の「泥まみれの豚」(これも傑作だ)で描かれた独ソ戦を彷彿とさせる。
というかどう考えても、この肉と肉とのぶつかり合いは、独ソ戦をイメージしているとしか思えない(あるいはクリミア戦争か)。

宮崎駿はミリタリーマニアでもあるが、戦争を描かせたら第一人者であろうと思わされる。

ちなみにクシャナ率いるトルメキア軍は、アニメでは完全に風の谷の敵扱いだったが、
この戦争での第三軍は、ナウシカも一緒に戦っているからか、いわゆる正義の側の軍隊(第二次世界大戦や湾岸戦争などにおける連合アメリカ軍のような)のような様相を呈している。
(兵士たちの表情をしっかり書いているのもそれに一役買っている)

(ちなみに完全に余談だが、トリウマ(クイにカイやクシャナ第三軍装甲兵たち)はFFシリーズのチョコボに似ている)

そして3巻相当の局地戦が終わり、
次のステージに進む4巻相当部分から、
さらに画力は高まっていく。
コマの一つ一つ、アングル一つとっても、
それだけで絵画になりそうなぐらい美しい。

クシャナ対チャルカの局地戦が終わった後、前線にいたトルメキア王家(クシャナの兄)の戦線が不利になり、クシャナの兄は本国へ帰ろうとする。

これまた余談だが、
私はこの部分を読んで、ベトナム戦争のアメリカを思い出していた。
今並行して、ベトナム戦争の本を読んでいるのだが、
アメリカはベトナムをかき混ぜるだけかき混ぜて、
不利となるや撤退した。
降伏ではなく撤退である。
アメリカ本国ではそれを「戦争に負けた」と言った。
だが、本当の意味での「戦争に負けた」とは、
国土がズタボロ、焦土になってようやく言えるセリフだ。
例えば、第二次世界大戦の時の日本や沖縄のように。
アメリカは戦況が不利になるやとっとと逃げ出して、
「俺たちは戦争に負けた」なんて言う。
ベトナム戦争の本を読んでいて、
私が一番違和感を感じたのが、それだ。

話は戻るが、
ここまで読んで、
トルメキア国と土鬼国には奇妙な類似点があることに気づかされる。
どちらも、正当な継承者ではなく、
横から王位をかすめとられたという設定だ。
トルメキアはヴ王に、土鬼(もともとの支配者は土王と呼ばれている)は神聖皇帝兄弟に王位を追われる。

土鬼の、昔ながらの神を崇める神像(土着信仰)が破壊されていくのは、
正にアフガニスタンのタリバンによる仏像破壊を思い出させる。

つくづく宮崎駿は、世界情勢をこの作品に投影している(特に中東)のだと思うのだ。

上巻の最後に、土鬼軍が作った人工腐海から、粘菌が発生する様が描かれる。
私はこれを読んで、南方熊楠の研究を思い出した。
菌類、特に粘菌の性質を、著者は調べまくったに違いない。
意思を持った人工腐海粘菌は正に現代のフランケンシュタインだ。
これがシリコンと金属でできていたら、
ターミネーターのようなロボットになるが、
宮崎駿のすごい所は、
人の手で作られ人を滅ぼそうとする存在(クリーチャー)が、
すごく有機的というか生物的なところだ。
(考えてみたら、ラピュタに出てくる破壊兵器ロボットも、
金属というよりは有機的だった)

ナウシカ上巻(4巻相当)のラスト、
粘菌の化け物が広がっていく中で、
王蟲の大群が近づいてき、大海嘯が発生する不気味な予感は、
まさに世界の終焉を彷彿とさせる。
(ここで私は黙示録を想像したのである)

下巻に入ると、
トルメキア軍の撤退、土鬼の本土からの難民が描かれる。
コミック版「風の谷のナウシカ」はまぎれもなく、戦争ものの傑作でもあると思うが、
その中で腐海や人工腐海粘菌、大海嘯などが並行して描かれるため、
物語に深みと凄みが現れる。

その中で森に住む「蟲使い」と「森の人」という、
祖は同じにして相反する存在が登場するが、
本作品、改めて読むと、
特に底辺を蠢く蟲使いという種族の凄さが伝わってくる。
この最下層で蔑まれている種族も、
実は複雑な時代背景と設定を持っている。
蟲使いは古代帝国の武器商人のなれの果てであり、
静謐な森の人と発端を同じにする。
(ということは森の人も武器商人の末裔である)

ちなみに宮崎駿は武器商人そのものに対してかなり悪いイメージを持っているように感じる。

恐らく戦争や冷戦の影響があるのだろう。

かと思うと、いよいよ帝国トルメキアの王、ヴ王が登場するわけであるが、
王が傍に道化を侍らせている演出が素晴らしい。
いわゆる中世の王朝をモデルにしたと思うが、
ゲーテ「ファウスト」にも出てくる通り、
王に侍る道化は時に悪魔の化身だったりするのである。
悪魔は恐ろしい存在なのではない。
道化な存在なのだ。

また補足すると、ヴ王とその息子たちがブクブクに太った外見なのは、
見ていて分かり易くて興味深い。
さらにヴ王は斜視まで持っている。
非常に分かり易い悪役キャラクタで面白い。

この後ヴ王がいよいよシュワの墓地に侵攻していくわけだが、
ここで余談ながら、本作品の期間を振り返ってみる。
この作品の連載期間は足かけ13年に渡ったが、
物語中で描かれているのは、
数日間、せいぜい数週間のに過ぎない。
ものすごく密度が濃いと同時に、テンポが良い。
普通これだけ壮大な物語だと、
ヴ王や土鬼の皇帝兄弟のくだりだけで何巻も続けそうである。
その気になれば何十巻(下手をすると百巻以上)も描き続けられそうなテーマであるが、
(実際ベルセルクやワンピース、バスタードなどはそれで冗長さが出ている)、
そこをダラダラと引き延ばさず、一気に駆け抜けて、
7巻に収めたのがすごい。
そりゃ密度も濃くなる筈である。

そして最終第7巻相当に突入する訳であるが、
この7巻相当の最終章は、何度読んでも大傑作である。
画といい、イメージといい、演出といい、設定といい、ストーリーといい、
もはや芸術の域に達していると思う。

前半のクシャナ軍対マニ族の戦いは、
舞台が夜であるので、ものすごく雰囲気が出ている。

またその後にナウシカが訪れた、ヒドラの屋敷のイメージが凄く、よくぞ描いたという感じである。
恐ろしい戦場と汚された大地の中で、
唯一心の底から癒されるというシーンだ。
ちなみに、皇子達が古いピアノで弾いている曲は、
どう考えてもバッハな気がする。
いやハイドンでもモーツァルトでもベートーヴェンでもシューベルトでもいいのだが、
この神々しさにはやはりバッハが一番似合っている。
(実際に私は脳内でバッハが再生されていた)

壁には本棚があり、大量の書物が収められているが、
こちらはゲーテを想像した。
ロシア文学でもヨーロッパ文学でも何でも合うが、
この荘厳で静謐な雰囲気には、
やはりゲーテが合うのではないかと思った。
(私ってやっぱり個人的にドイツの芸術が好きなんだなあ)

そしていよいよトルメキアのヴ王と共に、
本作最後の決戦であるシュワの墓所に入っていく。

ここで改めて、ナウシカというキャラクタは、
登場人物が言っている通り、天使であり使徒であり女神であるが、
それと同時に、大いなる母なのであると感じた。

ナウシカは、ナウシカと再会し族長ジルの最期を伝え悲しむミトじいともう一人のじいの肩をやさしく抱く。
王蟲の子供はもちろん土鬼皇弟にも、「お前……怖がることはないのよ」と呼び、「こっちへおいで」などと声をかけ、清浄の地へ導く。
巨神兵でさえも子供として扱い、母として従えていく(しかも邂逅当初は死を願っていた)。
ナウシカという人物にこそ、宮崎駿の母親像を投影しているように思う。
なお余談だが、夫のナムリスを引きちぎって首だけにして放り投げるクシャナは、宮崎駿の妻像のように思える。なかなか凄まじい夫婦観である。

そしてその大いなる母ナウシカは、
シュワの墓所の中で、
いわゆるラスボス、道化に乗り移った墓所の主と、最後の問答を行うわけだが(ちなみにこの対話は「カラマーゾフの兄弟」の大審問官にも匹敵するんじゃないかと個人的に思っている)、
そこでは、滅びゆく生命、生き残っていく生命について語られる。

ダーウィンの進化論に語られているように、
生き残る生物とは、強い生物ではなく、変化をする生物である。
ナウシカは、腐海や王蟲、粘菌も含めて自分たちが変化をする生物だと墓所の主に言う。
そしてナウシカは、自分たちと違って墓所の主は、予定が組まれただけの変化をしない存在だと突きつける。
予定が組まれた変化の余地のない存在というのは、つまりコンピュータのプログラムである。
ここで、墓所の主は、AIを持ったスーパーコンピュータだったということが分かる。
その見た目が(人間の内臓のようで)あまりに有機的すぎて、一見コンピュータとは分からないが、読み進めるにつれて、あきらかにそうだと思わされる。

(ちなみに余談だが、このあたりのシーンではナウシカの表情にも凄みが出てくる。特に主が「ありとあらゆる宗教」と言った時のナウシカの顔が最高だ。
この全てを見通し、全てを達観したような表情。
立派な大人になったこの顔は、1巻の頃の純粋な少女のあどけない顔とは段違いである。)

そしてついに、ナウシカは結論を出す。
すべては闇から生まれ闇に帰る。
目の前にいるAIを持ったスーパーコンピュータも、
闇から生まれたものであり、
自分の息子である巨神兵に、
「その者を闇に帰しなさい!」と命じる。

(ちなみに闇というのは、
宇宙論でいう所の、
この世界の95%を占める、
ダークマター(暗黒物質)とダークエネルギー(暗黒エネルギー)のことに他ならない)

ナウシカは墓所の主を殺すと共に、
新世界に生まれるはずの卵(胎児たち)も殺すことになるが、
そのとき、ナウシカはわずかに涙を浮かべる。
(こんなのも前回読んだときには気づかなかった)
はっきり言ってこのシーンは、
読んでて身が引き裂かれるような辛さを感じる。

殺すのは、
「私たちのように凶暴ではなくおだやかでかしこい人間となるはずの卵(胎児)」である。
ナウシカは「はず」と言っている。
実際にそうはならないと恐らくナウシカは思っている。

それでも、卵からかえる新しい命が、
生まれる前から愚かで罪深い存在だと決まっていたとしても、
命を殺すことに違いはない。

ナウシカは、旧世界の努力や知識、科学、
そして新世界に新しく生まれようとする旧世界の命を全て否定する。
(旧世界というのはつまり2022年現在我々が生きている世界の事である。故に、千年後の子(ナウシカ)らから私達自身が否定されているような既視感を抱いた)

墓所の主と卵(胎児)を破壊するナウシカを見たヴ王は、
「お前は破壊と慈悲の混沌だ!気に入ったぞ!」と言う。

本作を読んで私は、改めてナウシカに対するイメージが反転した。

アニメ版を見ると、ナウシカというのは、
優しくて綺麗でたくましい姫さま、
人間の世界に降り立った美しい女神、天使のように見えていた。
(実際アニメのラストでは身を挺して風の谷を救う)

コミック版でも、第5巻大海嘯のあたりまでは、
生物全てをいたわる慈悲深い姫様として描かれていた。
だが、第6巻、巨神兵を自分の息子にした辺りから変わってくる。

そして第7巻のラストまで読んで、確信する。

ナウシカは綺麗な存在ではない。

この作品の登場人物の中で唯一と言っていいほど、
究極的に汚れた存在である。

言ってしまえば、

ナウシカは、

他人の赤ん坊を殺す母親である。

もう少し補足すると、
自分の子供(巨神兵)に他人の赤ん坊(旧世界が新世界に託した新しい希望の種である胎児たち)を殺させる母である。

そして、それと引き換えに、自分の息子である巨神兵も死ぬ。

なんと残酷で悲しい母親であろうか。

そしてこの、大いなる残酷な母ナウシカを描いたところに、
宮崎駿の凄さ、凄まじさを感じるのである。

墓所の主と卵(胎児たち)を殺した後、
ナウシカを含めた、ナウシカの周りにいる、蟲使いやこれまでの登場人物を含めた、
新世界の生命(汚染された生命)たちが生き残る。
我々21世紀の旧世界の生命は徹底的に否定されている。

新世界の生命は、このまま全員滅びるか、
何度も死にながら変化をつないで生き残るか。
ナウシカの言うところの「この星にゆだねられている」のである。
(ちなみにこのセリフ「それはこの星が決める事」だけは、私の中で、数少ない本作品の減点項目になっている。ここに至ってナウシカが吐いたこのセリフだけは、なんとなくお題目的で薄っぺらい。言い方を変えるとここだけ「いい子ちゃん」的なのである)

というところですっきり終わったと思っていたら、
オチがあと一つだけ残っている。

最後にナウシカは、
「王蟲と墓の血の色が、同じ青色だった」ことに気づく。

ナウシカが、「お前は変化をしないプログラムにすぎない」と否定した、
我々旧世界の代表である墓所の主と卵(胎児たち)もまた、
王蟲と同じ、墓所(旧世界)の技術で生まれた呪われた人工物でありながら、
新世界の中で生きていく権利を獲得した、
(言い換えるとこの星に認められた)新しい生命体(対話に出てくる「生命の力で生きる生命」)に他ならなかった、
という結論である。

繰り返しになるが、
要は、AIが搭載された有機的スーパーコンピュータであっても、
ここまで徹底的に作りこまれた人工物は、
もはや新世界に認められる生命体であったのだ、
というオチであった。
(少なくとも私はそう解釈した)

しかしそれに気づいたナウシカは、
それでも旧世界代表である墓所の主と卵(胎児たち)を殺したことを後悔してはいない。
だからこそ、
森の人セルムの、
「(王蟲と墓所の血の色が同じ青だったことは)私たちだけの秘密です」
と言うセリフに対して、
「ハイ」
と、笑みを浮かべるのである。
いや凄い。

新世界の仲間(人間も生物も全部ひっくるめて)を生き残らせるために、
旧世界の(新しく生まれようとする命も含めて)全てを否定した、
というのが、大いなる母ナウシカという存在なのである。

……という訳で、
長くなったが、ここまでがざっくりとした本書のストーリーだ。

全体を通してなんとも良くできたストーリー、設定で、
改めて興味深く読めた。

繰り返しになるが、
これは現代日本人にとって、聖書の黙示録となるほどの作品なんじゃないか、
と思わされるくらいの迫力があった。

恐らく今後も、日本人の中で長く読まれていくだろう。

(追記1)

ところで私は、本作品全体を通して、特に好きなシーンが3か所ある。
これがあるからこそ、この作品は傑作になったといっても過言ではないと思っている。

一つ目は、
巨神兵の牙に商標がついていることである。

普通、巨神兵がこれだけ恐ろしく荘厳な破壊神の外見をしていたら、
(マンガ「バスタード」やゲーム「FF(FinalFantasy)」に慣れ親しんできた私からしたら)、
神そのものが敵だとしか思えない。

ところがその巨神兵に商標一つついているだけで、
これは実は旧世界の人間が、その文明(西暦文明)の中で作り出した商品だということ、
つまり、神(破壊神)は実は、人間が科学の果てに作り出した商品なのである、ということが分かる。

商品とは、要は、人間の営みに使われる道具である。

つまり、ホンダのASIMOや、(はま寿司とかで使われてる)ソフトバンクのPepperなどと同じなのだ。いわゆる21世紀に作られているロボットの延長なのである。

しかも巨神兵の発する毒の光でナウシカが倒れるという描写から、
巨神兵を動かしているのはどうやら放射性物質を発する原子炉の一種なんじゃないかと思われる。

いずれにせよ、神を商品の地位に堕とすというこの発想。

というか、神は人間の扱う商品だったという、今までの神に対する思いを反転させるようなその発想。

まずこれがすごい。

本作品で二つ目に好きな箇所は、
トルメキアの首都が、実は旧世界の高層ビルにへばりついていたという設定だ。
トルメキアのモデルがアメリカ、
土鬼はトルコ、
風の谷が日本がモデルになっている、
というのは有名な話だが、
その、巨大な帝国であるはずのトルメキアは、
実は火の七日間で滅びる前の地球の、
ある国の、あるビル(恐らく多分アメリカのクライスラービルとか、90年代当時で言えばまだ存在していた世界貿易センタービルとかなんじゃないか)に、
タニシのようにへばりついた存在でしかない。

これを描いたのがまたすごい。

そして最後、本作品で好きな箇所の三つめは、
聖都シュワの墓地の中で、
墓所の主の表面に、年に二行だけ現れるという、
旧世界の科学者が後世に託した文章が、
実は数式だったというものだ。

つまり究極に圧縮された情報というのは、
数学もしくは物理学なのである。

何百万の言葉より、ひとつの数式を解読した方が内容が濃いという設定で、
これまたよく考えられている。

ちなみにこれは完全に余談だが、
(もっとも私はこの作品のこの設定を忘れていたが)、
その昔、私がある賞に応募する小説を書いたとき、
アカシックレコードを持ち出して、
その内容は数式で書かれていた、
というアイディアを使ったことがある。
詳しくはまた別の記事に譲るが、
数学のノンフィクションなどを読んでいると、
数学こそ、神が作った技としか思えないときがたまにある。
(そして最近知った事だが、数学の深い式(リーマン予想の過程で出てくる)は、量子力学の式でもあるのだ。数学と現実は根っこのところでつながっているらしい)
ナウシカとは90年代の作品であり、
その中でこのアイディアが出てきていたのには驚いた。

ちなみにこれも全くの余談だが、
このこと(出てくる文字が数式というの)は、前の職場での同僚に教えてもらった。
前回読んだ時は気づいていなかった。
同好の士と雑談すると、こういった新しい発見があるから面白い。

(追記2)

本作品の中で一番好きな飛行機はガンシップである。
トルメキア軍のコルベットもゴツくていい。
あの重々しさは恐らく、ラピュタのゴリアテに通じてるのだろう。

また、一番好きなキャラクタは、私の年齢と共に変わってきている。
小さい頃はユパ様だった。
やっぱり強くてカッコいいからである。
その次にクロトワが好きになった、
あの人間臭さが好きであった。
しかし今回改めて読んで、特に好きになった、
というかその魅力を改めて感じたのはクシャナである。
帝国の中でただ一人先王の血を継いだクシャナは、
血で血を洗う毒蛇の巣の中で生き延びで行く。
ナウシカとはまた違った、覇道の中を生きる人物。
あとは細かい脇役では、ミトじいやアスベル、ケチャや森の人、チャルカや僧正様、もちろんユパ様も。
皇兄ナムリスもカッコ面白い。6巻のナウシカとの戦いから7巻での最後までの辺りは魅せる。
本作は魅力的なキャラが多い。

(追記3)
小さなことであるが、疑問点がいくつか残っている。
(単純に私が読み取れなかっただけかもしれないが)

その1。
物語の最初だが、そもそもなぜトルメキア軍は土鬼の地へ侵攻したのか。
戦争とは、理由もなく侵略して他国の土地を求めるものかもしれないが、どうも最初のきっかけがなんだったのか、はっきりしない。

その2。
第6巻ラストの辺り、
アスベルとケチャはいつのまにマニ族の船に乗っていたんだろうか。
第5巻でガンシップに乗った後、
第6巻、再度(ガンシップに繋がれる)バージが出てきた時にはミトじいともう一人の城オジ、クロトワしかいなくなってる。
その間のどこかでアスベルとケチャは別行動を取ったということだろうか。

その3。
第7巻、国境の警備を命じられたヴ王の息子二人が、
なぜシュワに近いゴス山脈にいたのか。
これは二人のセリフから、
ヴ王にシュワの墓地の秘密を独り占めされまいと、
慌てて追いかけていたのかも想像されるが、
しかしそれにしては、ヴ王を恐れていた(だから命令に犯行などできない)という描写と矛盾する気がする。

その4。
ラスト、ヴ王をちゃっかりエレベーターに乗せているがいつどうやって乗せたのか。
(ちなみに余談だが墓所が崩れるときの「ピュー」という擬音がいかにも安っぽくてギャグであった)

(追記4)
そういえば、本作品、
第7巻だけ「エヴァ」「シン・ゴジラ」の庵野秀明が映画化したいと言ったとか言わなかったとか。
で、宮崎駿も、「庵野が撮るならそれもいいかもしれない」と言ったとか言わなかったとか。
庵野監督がいつかは撮るのかもしれないが、
いかにも庵野的な雰囲気になりそうで、
個人的には撮って欲しくない気がする。
庵野監督はエヴァを撮ったので、それだけで十分なのである。

(追記5)
全然関係ないが、私は、
好きなマンガランキングを作るとき、
上位は手塚治虫作品で占められたのだが、
次点として、
大友克洋のAKIRAと、
この風の谷のナウシカが、
どちらが上だろうと常々悩んでいた。
言っておくと、AKIRAだって、
カッコいいし描き方は緻密だし4巻の素晴らしさは群を抜いているが、
今回改めて本作を読んで、
ナウシカの方が上かなと思わされた。
とにかく本作は、画の描きこみや構図、世界の設定などがすごすぎるのである。

(追記6)
ちなみにこれこそ全然関係ないが、
巨神兵の名前「オーマ」は、
実は私の従弟の名前だったりする。
ちょっとそれを思い出していた。
いやそれだけなのだが。
ちなみに本作では古代語で「無垢」という意味だという設定である。
私の従弟はそれほど無垢ではない。
個人的になんだか皮肉のように感じていた。

(蛇足的補足)
本記事は赤坂憲雄の本「ナウシカ考:風の谷の黙示録」(以下「ナウシカ考」)読了ツイートの後に投稿したものだが、上までの原稿は「ナウシカ考」を読む前に書いた。
(なおこの蛇足的補足だけは「ナウシカ考」を読んだ後に書いている)
従って本記事のタイトル及び本文内で「風の谷のナウシカ」を現代の「黙示録」であると比喩したのは「ナウシカ考」を真似したものではなく、私が感じた事を私の言葉で書いたものである、という事を予め書いておく。(まぁ「私の方が先だ」なんて書くのも心が狭いが)

なおTwitter読了ツイートにも書いたが、「ナウシカ考」は私はあまり面白くなく、期待外れだった。
とにかくしつこいぐらいに同じ箇所の引用が多く面倒くさい(そこはさっき読んだ!もう書かんでええーっちゅうねん!と何度突っ込んだことか)。さらに地の文でも同じ内容を書いている。これ、もっとスッキリさせたら、1/3ぐらいの分量で済んだんじゃないか。
フォークロアとか、一般的に聞きなれない横文字をやたらと使っていたのも減点ポイントである。
あとこの作者(赤坂憲雄)は、宮崎駿とファンに配慮しているのか何なのか、やたら遠慮して(言い換えるとビクビクしながら)書いているように思える。「~だろうか」といった書き方が多く、いかにも自信なさげである。作品を講評あるいは批評あるいは考察するならば、批判あるいは炎上を覚悟して、「ナウシカ」を通して自分が感じた事を感じたままに自分の言葉で書くべきである。
少なくとも私はそういった覚悟を持って本記事を書いた。
あ、蛇足ながらこの「ナウシカ考」の内容に突っ込んでおくと、商標がついているのはオーマの手ではなく牙であり、また「墓には虫が、王には道化がくっついている!」と言ったのはヴ王ではなく道化であり、新人類の卵は、墓所の主(赤坂憲雄は心臓(?)と表現している)とは別の場所にある。(私も最初に読んだときは卵と主は一体と思っていたが、今回読んだとき違っていると読み取った。新人類の卵(胎児)は、オーマが墓所の主にたどり着くまでに通ってきている場所に、何十何百とある昆虫(蟲)の卵のように表現されている)。
この著者(赤坂憲雄)は色々と勘違いしている。
さらに言うならば、著者(赤坂憲雄)は「墓所の主こそが虚無ではなかったか」と書いているが、それだけを書くのではあまりに浅い。上にも書いてある通り、墓所の主というのはつまり21世紀を生きる今の我々(旧世界の生命)の代表なのだ。それを「虚無」よばわりするというのはどういうことなのか、この著者には分かっているのだろうか?それを分かった上で「虚無」よばわりするのなら私も納得しながら読もう。だがそんな考察は「ナウシカ考」ではなされていない。
私は「虚無」と言うほど、21世紀の今を生きる私達を否定したくはない。
そこに「闇」はあるかもしれないけれど、少なくとも私達が生きている今この世界は「虚無」ではないと思うからだ。
まぁ、最後の、ナウシカは実は善と悪が反転したアンチ・黙示録である、という視点と、終章で書かれたドストエフスキー小説の中に出てくる哲学的対話との共通点についてだけは面白かった。
私が上に書いた通り、墓所の主との対話が「カラマーゾフの兄弟」の大審問官に重なって思えた(ちょっとそれは内容としては言い過ぎだが構成として)、という印象は、やはりそれが哲学的対話だったからだろう、と再認識できたのは良かった。
考えてみたらプラトンの著作も対話的である。
哲学的対話を通して、フィクションの物語でありながら哲学書に近い作品を書く(描く)ことが可能である事を、ドストエフスキーと宮崎駿は教えてくれる、という事なのであろう。その点については、私もすごく同意する。

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